人形たちのサナトリウム

- オーナレス・ドールズ -
片倉青一
片倉青一

7-13「わたしはゆえに抗う」

公開日時: 2021年6月5日(土) 18:00
更新日時: 2021年12月15日(水) 15:33
文字数:8,533

 急な階段を駆け下り、第一層の中央、生産棟の直下を目指して走ります。

 あるときは物資保管庫を。あるときはクランクシャフトの隙間を。あるときは何本もの太いケーブルが通された通路を。

 要所要所に設置された隔壁も、クリップの認証キーをかざせばすぐさま開いてくれました。エーセブンさんがバックドアを仕掛けてくれたおかげです。

 認証を通すたび、ジュリア看護長には通知が飛びます。もはや現在地だけでなく、未来の逃走経路までジュリア看護長には筒抜けでしょう。けれど、メラニーの手引きにより、捜索隊はわたしたちと入れ違いで地上の南端へ出ているはず。第五層まで一気に駆け下り、青十字の方々をわたしが制圧すればこっちのもの。

 だったのですが。


「エーセブンさん! もう少し速く走れませんか⁉」


 彼の速力は、なんとわたしの全力の半分ほどでした。わたしからすれば軽めのジョギング程度。


「と、言われてもですな。これが全力でありますよ。えっほ、えっほ」


 そもそも走る姿がぎこちない。もはや人形にあるまじき運動音痴です。走るために生まれたborn to runとは何だったのか。


「ご自慢のサイバネティクスでどうにかなりませんか!」

義体の人形サイボーグが必ずしも超人的な運動能力を有するとは限らないのでありますな。自分の義体は情報収集センシングとエネルギー貯蔵に特化しておりまして」


 インドア派にもほどがあります。

 五分を費やしてようやく生産棟の直下にたどり着きました。

 つい一時間ほど前にも通過した、長い長い階段。

 このままでは捜索隊の先輩方に追いつかれてしまいます。彼ら、彼女らの運動能力はわたしと同程度。既に生産棟を間近にしていると考えるべきでしょう。大人数ゆえに機動力は削がれていると考えるのは……さすがに希望的観測が過ぎます。

 もはや腹を括るしかありません。


「――滑りますよ」

「滑る、とは?」

「文字通りの意味です!」


 同意を待っている暇はありません。わたしは右手でエーセブンさんの右腕を取ると、腋へ潜りこむように首を差し込み、彼のお腹を首の後ろへ載せるように持ち上げました。空いている左手を彼の手足に絡めれば、簡単には落としません。


「ふ、うっ!」


 想像以上に、重い。小柄で痩せた外見に反して、彼の体重はわたしと同程度でした。金属部品が首の周囲に見えている以上、覚悟はしていましたが。


「ふむ。ファイヤーマンズキャリー」

「口を閉じて! お腹に力を込めて!」


 返事を待たず、わたしは階段の手すりへ飛び乗りました。ナースシューズの土踏まずで手すりを捉え、高低差五メートル、四十五度の勾配を一気に滑り降ります。

 コの字型に接合された折り返しの直前。思い切って後傾姿勢。

 土踏まずが折り返しを捉えた瞬間。わたしは大腿四頭筋に位置エネルギーを溜めつつ体幹を軸に半回転。手すりを乗り換え、大腿四頭筋に溜めておいた位置エネルギーを解き放ちます。

 こんな綱渡りならぬ棒渡りを、あと六回も繰り返さなければならないなんて。


「うはは。いにしえのジェットコースターさながらでありますな」

「舌噛みますよ!」

「スピーカーだけでも声は出せますので」

「いい気なものですね!」


 わたしが少しでも足裏の感覚を捉え損ねたら、二体とも半秒後にはスクラップだというのに!

 二度、三度、と手すりを乗り換えるうちに、足の裏に熱を感じ始めました。わたしが適度にブレーキをかけているからです。加速が付きすぎるとわたしの大腿四頭筋がちぎれてしまいます。ナースシューズのラバーソールは今頃黒焦げでしょう。


「まだまだ……!」


 わたしは看護人形。リミッターが外れて暴れる患者さんも取り押さえられるよう、タフに造られた人形です。これくらい、何ともありませんとも。

 もしナースシューズが焼き切れて、足の裏の皮がべろりとめくれたとしても、わたしは滑降を止めません。

 第三層。わたしが抱きついても余るほど太いクランクシャフトがゆっくりと往復し、速度感を狂わせます。頼っていいのは足裏の感触のみ。滑降速度が早すぎると感じるのは錯覚。折り返し、滑降速度が遅すぎると感じるのも錯覚。

 第四層。無数のパイプが張り巡らされ、視界がちかちかします。耳元を過ぎていく激しい風の音に混じって、タービンが回転する低い音。

 そして、第五層。がらんと空洞。無地のコンクリート壁が速度感を失わせます。三半規管ジャイロセンサを頼りに、加速が付きすぎないよう神経を尖らせ――手すりの切れ目!

 瞬時に後傾姿勢を取り、小さく跳躍。一瞬の浮遊感ののち、足裏全体で着地。コンクリートの床をざっと滑り、くるぶしを壁にごつりとぶち当ててようやく停止。痛いけど我慢。

 担ぎ上げていたエーセブンさんをゆっくりと下ろします。膝を着きそうになりましたが、これも我慢。


「はっ……はっ……! はっ、ぐ……うっ!」


 震える太股をグーで何度も殴りつけて無理やり鎮めます。

 これで、少しは時間を稼げたはず。


「ハーロウ殿。靴はもはや無用でありましょう」

「ああ。無理を、させすぎました、ね」


 ナースシューズの底面が焼け、大きく凹んでいました。もはや歩行の邪魔になるだけ。面ファスナーを剥がして手早く脱ぎ捨て、裸足になります。

 ほてった足裏を、コンクリートの床が冷やします。海面下三十五メートルの水温が、足の骨から背筋を伝って模倣脳を包む頭蓋に至りました。

 緊張の連続で過熱した模倣脳を、海水で冷やすイメージを持ちます。

 これから、水面下で活動する彼らと対峙しなければいけないのですから。


「わたしが出ます。合図するまでは決して顔を出さないでください」

「承知であります」


 これからわたしがやることは、ともすればエーセブンさんにも影響が及びかねません。


「そうだ。アンテナの受信機能を遮断できたりしませんか?」

「可能であります。我々司書人形はEMP対策の一環として――」

「詳細はいいです。そうしてください」


 エーセブンさんを背にして、一時間ほど前にも通過した重々しいハッチの前に立ちました。ハッチは律儀に閉じられていました。

 ハンドルに手を掛けて、ゆっくりと回します。じきに、ごん、とボルトが止まる手応え。重い扉を少しだけ押すと、わずかに隙間が生まれました。


「よく聞きなさい‼ もう一度言います‼ よく聞きなさい‼」


 わたしの大声はコンクリート壁に反響し、背後の階段を駆け上がりました。

 きっと、階上に集いつつある捜索隊の先輩方にもわたしの声が届くはず。


「看護人形ハーロウは‼ 介入共感機関の拘束を‼ 無制限に解除します‼」


 介入共感機関の拘束を解除したわたしは、安全装置セーフティを外した銃よりも危険な道具です。


「いいですか‼ 無制限です‼ わたしは対象を選べません‼」


 こうなったわたしを安全に鎮圧できるのは、同等の機能を持つメラニーだけ。彼女を呼び戻すまでは時間が稼げるでしょう。

 囁き声でエーセブンさんへ告げます。


「では、行ってきます」

「ご武運を」


 重いハッチを押し開けて、わたしは扉の向こう側へと踏み出しました。

 眼前には、黒々とした潜水艦が浮かぶ巨大なプール。

 五体の、白いローブに白いフードを被った人形が並んでいました。フードの下には青い、短剣のような十字をペイントした仮面。相変わらず無機質で、およそ心の存在が感じられないたたずまい。

 セイカ先生とジュリア看護長の姿はありませんでした。


「青十字というのは、随分と偉いんですね。当院のスタッフを顎で使っておいて、あなた方はここで口を開けて待っているだけですか」


 仮面の裏側にヒトを模した顔があるならば、の話ですが。

 顔を出した瞬間に攻撃される可能性も、考慮はしていました。無制限に解除すると宣言した時点で、わたしの準備は完了していました。

 幸運にも、と言って良いのかどうか。

 彼らはわたしを視認するのみで、身じろぎ一つしませんでした。


「あなた方は当院の業務を著しく妨害しています。その自覚はおありですか?」


 先頭に立つ仮面の人形が、くぐもった重々しい声を放ちました。


「看護人形ハーロウ。再度要求する。あの人形を引き渡せ。三度目は無い」

「わたしも、三度は言わない、と言ったはずですが」


 まったく、本当に人の心が分からない方々ですね。せめて彼の名前くらいきちんと呼んであげてください。彼にはちゃんと、エーセブンという個体識別名称があるのですから。


「……問う」


 たったそれだけの言葉が、空気をびりびりと震わせました。


「どうぞ。お答えします」


 声の重さに押しつぶされないよう、わたしはお腹に力を込めました。


「看護人形ハーロウ。なぜ背く。貴様に利益は無く、我々にも利益は無い。なぜ抗う」

「あなた方の、そういうところが気に食わないからです」

「それだけか」

「そうですとも」


 一瞬とはいえ、あの無機質な仮面の集団が当惑しました。ざまあみろ、です。


「……不可解だ」

「そうでしょうね。世界中を俯瞰して、全体を最適化することにしか関心を持たないあなた方には、決して理解できないでしょうね」


 わたしは、お世辞にも出来た人形とは言えません。知識も経験も足りない未熟者です。

 わたしは、先生方と違って命の勘定ができません。目の前の一体を犠牲にすれば何体の人形が助かるのか、どんな人形にどれほどの価値があるのか、わたしには見当もつきません。


「貴様は貴様の成すべきを成し、我々は我々の成すべきを成せばよい。我々は貴様の破損を望まない」

「わたしと患者さんに物騒なものを投げておいて、よく言いますね」

「我々はかの人形を処分するために来た。ゆえに当時は必要を認めた。現在は必要を認めない」

「だから、そういうところが気に食わないと言っているんです!」


 看護人形誓詞Nursedoll Pledgeに盲目的であると言われれば、そうかもしれません。

 けれど、そんなことはわたしの知ったことではありません。

 当院に入所する患者さんは、何らかの症状を呈したために人間社会での活動を許されなくなった人形です。言い換えれば、全体の最適化によってふるい落とされた人形です。

 わたしは、そんな患者さんのお世話をするために造られました。悩みを聞き、患者さんにとっての幸福を共に探すために造られました。


 わたしは人形です。与えられた仕事を全うするために造られた道具ツールです。

 わたしが主です。介入共感機関は従です。

 治療が主です。ミーム抗体の精製は従です。

 誰が何と言おうと、わたしはわたしの使命に忠実であり続けます。


「いいですか。わたしは、常に人形の味方です」


 わたしは、止まり木の療養所から外に出たことがありません。わたしにとって、人形とは患者さんのことに他なりません。


「あなたたちは人形に仇成すものです。わたしがあなた方に抗う理由は、それだけで十分です」


 わたしは最後のトリガーを引きました。

 患者さんを害するものは、誰であろうとわたしの敵です。

 衣ずれのかすかな音と共に、ぞっ、と青黒い敵意が立ち上りました。一時間と少し前に向けられた気配より濃密な、明確な殺気。わずかな身じろぎが「貴様を殺す」と表明していました。


「貴様を、人類に毒あるもの、害あるものと認める」

「そうですか――」


 五体の人形が、一切の予備動作無しに耳元まで右手を振り上げました。


「――動くな」


 そのまま振り下ろされたなら、放たれるひょうとかいう暗器をわたしは避けられなかったでしょう。

 仮面の人形たちは、右手を振り上げたまま硬直しました。


「判断が遅かったですね」


 わたしは介入共感機関の拘束を解除すると宣言しました。

 わたしは常に人形の味方である、と宣言しました。

 あなたは人形に仇成すものである、と宣言しました。

 かつてわたしがイリーナさんだったものを漂白したとき、そうしたように。

 拘束の解除は既に済み、わたしはとっくに五体の青十字を支配下に置いていました。


「こ、れ……は……?」


 人形であれば、使命を果たすために己の全てを賭けるもの。

 下手に命の勘定などするから、わたしなんかに後れを取るのです。


「わたしと同様に動け」


 わたしが右腕を斜め下へ軽く振ると、青十字の方々もわたしと全く同じ動作を再現しました。かきんかきん、と続けざまの金属音。細長い布をお尻に結わえた両刃のナイフが五本、プールサイドの床へと落ちました。


「ここは病院です。凶器の持ち込みなんてもってのほかです」

「貴様、我々に何をした」

「あなた方に、わたしの状態を共感させています。気持ち悪いのは我慢してください」


 エーセブンさんによれば、介入共感機関は「何でもあり」のとんでもないずるです。

 ですが、何でもできるということは、何もできないということ。無限大の広さを持つ無地のキャンバスと、無尽蔵の木炭を渡されたようなもの。

 人形は本質的に、創造性を持ち合わせていません。自分にできることしかできません。

 だからわたしは、わたしがやってきたことを相手にさせることにしました。

 青十字の方々に、わたしを共感させる



 ――右腕が動かないなら左腕を振るまで。



 彼らの運動野から意図を先読みしたわたしは、左腕の状態を押し付けました。


「ですから。当院は病院なんです。暴力沙汰を起こさないでください」


 上腕二頭筋と上腕三頭筋がほぼ同時に収縮し、彼らの肘関節がぎしりと悲鳴を上げました。

 運動準備電位と言いまして、実際に運動が起きる〇・八秒前、運動しようという意思が起きる〇・五秒前には、大脳皮質の運動野が活動を始めます。一方のわたしは運動準備電位を検出した瞬間に命じるだけ。わたしの方が絶対に早いのです。


「あなた方が当院の持ち主オーナーだとしても、最低限のルールは守ってください」

「これは、特権ルートの行使か」

「そうらしいです。濫用したくはありませんので、大人しくしてください」


 あくまでも冷静かつ淡々と状況を推測する彼らに、内心で怖気を覚えました。銃口を向けられて、あるいは刃を喉元に突きつけられて、なおも平然としていられるだなんて。


「重大な契約違反を認める」

「どんな契約を交わしたのか知りませんけれど、文句ならバンシュー先生に言ってください。わたしは人形です。道具ツールです。道具は契約する権利を持ちません。契約を履行する義務もありません」


 金槌に権利はありません。金槌は釘を打つために使われるものですが、釘を打つ義務は負いません。もし金槌の質が悪くてまともに釘を打てないなら、文句は製造者である金物屋さんに言うべきです。金槌をいくら叱ったところで問題は解決しません。


「貴様があの人形を野へ放逐することで、少なくとも三百体の人形へ悪影響が及ぶ」

「だからエーセブンさんを廃棄処分して、お上品な手続きに基づいて代わりの誰かを当院へ寄越すと?」

「その通りで――」

「くそくらえです。よりにもよってこの看護人形ハーロウに、眼前の患者さんを見捨てろと言うのですか? あまりにもを見る目が無さすぎやしませんか?」


 喩えるなら、患者さんは毒矢に射られた傷病者です。

 毒矢がどこから飛んできたのか。誰が毒矢を射たのか。

 原因は何か。犯人は誰か。

 そんなことは、患者さんを救った後で考えれば良いのです。わたしがなすべきは、矢を抜き、毒を抜き、健康を回復するべくお世話をすること。悩みを聞き、患者さんにとっての幸福を共に探すこと。


「あなた方との相互理解は不可能と判断します。わたしは看護人形です。わたしに託された患者さんのために、わたしはあらゆる障害を排除します」


 わたしは右腕を上げ、先頭に立つ仮面の人形を指差しました。

 五体の人形もわたしと同様に右腕を上げ、わたしを指差しました。


「貴様……!」

「命までは取りません」


 意識の中枢、あらゆる感覚刺激の高次処理情報が集約される前頭前野をターゲット。

 彼らの意識こころをわたしが読み取るのではなく、彼らにわたしの意識こころを読み取らせました。強引に。


「ぐ……うっ」


 自分のものではない膨大な情報を受け取った彼らはぶるりと震え、一様にうめき声を上げました。それはそうでしょう。わたしが見聞きしているもの、わたしが肌で感じていること、わたしの怒り、そういったものを全て読み取らせたのです。


「これ、が……きさま、の……かち……かん、か」

「そうです。あなた方は、ただ当院へ患者さんを搬送すればよろしい。あなた方の望むミーム抗体は精製してあげます。ただし、よそもののあなた方が、うちの患者さんに手を出すことは許しません。あなた方のお仕事ではありません」


 当院は外部からの干渉を受け付けず、外部への干渉を許しません。

 青十字の方々は、当院の運営にほとんど関わっていません。患者さんの搬送、メスキューくんの整備、退所なさる患者さんの輸送。その程度です。

 当院の患者さんについて、青十字の方々からどうこう言われる筋合いはありません。


「ですから、今はしばらく倒れていてください」


 頃合いを見て、わたしは介入共感機関を再拘束。

 わたし一色に染められていた彼らの意識こころに、彼ら自身の意識こころが取り戻されます。情報と情報が衝突して、彼らの前頭前野は大混乱に陥ります。あらゆる五感が狂い、パニックに陥った脳は「毒か何かを飲んだ」と勘違いします。


「お……おお、お……」


 五体の仮面人形が折り重なって崩れ落ち、びくびくと痙攣しました。仮面の端から吐瀉物がしたたり、コンクリートの床を汚しました。

 共感サージは生理現象です。どれほど冷静であろうと、己の内から生じる強大な苦痛には抗えません。乗り物酔いを気合いで乗り切ることなどできないように。


 ふう、と一息。

 遅れて、自分がしたことの恐ろしさを自覚しました。

 今までは、共感に伴う苦痛は全てわたしが引き受けていました。看護人形として、それが介入共感機関の正しい使い方だと信じていました。心を読み取るという暴力を得るための、代償だと思っていました。

 けれど、『相手をわたしに共感させる』という使い方にすれば、複数の人形をノーリスクで無力化できてしまいます。共感酔いや共感サージも、相手の生理現象として生じます。

 もっと上手に使えば、それこそ悪性のミームを集団に伝播させることさえできるでしょう。人形に対する特権を持つということは、そういうことなのです。


 首筋に、嫌なざらつきを覚えます。

 怖い。

 こんな危険物が、わたしとメラニーに搭載されているだなんて。

 わたしが自身がはらむ暴力性におののいていたところ、背後からのんきな声がかかりました。


「いやはや。五体もの青十字を睨むだけで屈服させるとは。鎧袖一触どころか、真の英雄は眼で殺す、といった具合でありますな」

「ん? エーセブンさん?」


 振り返ると、学者然とした小柄な人形がハッチをくぐってこちらへ歩み寄ってきていました。


「合図するまで顔を出さないでくださいと言ったじゃないですか……」

「何を合図とするかは聞いておりませんでしたからな。ばたばたと人型の物体が倒れたのであろう音を聞き、これを合図と判断した次第であります」


 エーセブンさんに失礼だと思って内心で否定し続けていましたが、もう限界です。

 この司書人形さん、エリザベスさんに似ています。無茶苦茶を平気な顔でやってのけるところとか、言葉を自分にとって都合良く解釈するところとかが、特に。


「こちら、青十字の面々はどうなさるおつもりで?」

「考えてません。そんなことより、早く脱出を。潜水艦の操縦、できるんですよね?」

共有智コモンに登録が無いだけで、仕様は存じております。シティ・アイラはクロス・マリン・プロダクト製のざとう級・原子力/生体機械複合潜水艦でありますからな。ところで、こちらの面々は、どれほどの間無力化されるのでありましょうか」

「はあ。今の状態なら一時間くらいだと思いますけど」


 共感サージの苦痛を何度か経験しているわたしでさえ、鎮静剤の効能を借りなければ立ち上がることすらままなりません。何の心構えも服薬もなく、いきなり共感サージを受けたなら、気絶しても不思議ではありません。


「ふむ。では、そこの小顔な青十字を支配して頂けますかな」


 小顔?

 倒れ伏している仮面の方々は誰も彼も似たような姿形ですが。


「じゃあ……この方で。看護人形ハーロウは、介入共感機関の拘束を無制限に解除します。あなた、立ち上がってください」


 気を失っているのか、ふらふらとおぼつかない足取り。


「そこな桟橋を渡らせて、そう……そこがハッチであります。認証は眼底静脈パターン認証でありましょうな」

「認証を通してください。あと、エーセブンさんを乗組員として登録してください」


 白いローブに身を包んだ人形が、黒々としたクジラ型の潜水艦、その背びれに対して、仮面を外した顔を近づけたり、撫でたりしました。確かに小顔でした。女性か男性かは判別できませんでしたが。

 じきに、命令を遂行し終えた人形がぱたりと動作を停止しました。


「つつがなく完了、でありますな。さてさて、いざ南太平洋の大海原へ漕ぎ出さん、といきたいところでありますが」


 操っていた小顔の青十字をプールサイドへと誘導していたわたしへ、エーセブンさんが思いも寄らない言葉を投げかけました。


「最後の最後に、貴殿に試して頂きたいことがあります」

「何でしょう?」


 エーセブンさんは青十字の方々から、わたしへと視線を移しました。

 彼の眼球は、断続的に素早く動いていました。

 トントンと角帽を指で叩いて示し、口角をわずかに上げました。


「自分の治療、であります」


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