シティ・プロヴィデンスの悪夢。
一年前、シティ・プロヴィデンスで起こった情報災害のことです。
「大規模な情報災害で百万都市が滅んだ、ということしか知りません」
「そうだ。文字通り、全ての命あるものが滅んだ。一体の人形を除いてな」
「え……」
「それがイリーナだ」
人口百万人、人形を含めれば数百万にもなる都市で、生き延びたものがイリーナさんだけ?
「……一体、何が起きたんですか」
真夜中、都市の明かりが一斉に消える様子を想像し、ぞっとします。情報災害で、都市全ての命が失われるなんてことは考えられません。
「ちょうど一年前のことだ。シティ・プロヴィデンスの人形網絡クラスタは、シティ存続の方策として『ヒトの想像力を解剖する』との決定を、世界中に通知した」
ヒトの想像力を、解剖する?
「直後だ。シティ・プロヴィデンスへアクセスしていた人形がことごとく発狂した。典型的なミーム汚染だ」
ミーム汚染。人形を狂わせる情報因子。
わたしたち人形は、いわゆるコンピュータウイルスには感染しません。わたしたちの模倣脳はヒトとほとんど同じ構造をしているからです。
代わりに人形は、ヒトと同じかそれ以上に、ミーム――文化的な情報の影響を強く受けます。
「各シティの人形網絡クラスタは、シティ・プロヴィデンスそのものが発狂したと判断し、シティ・プロヴィデンスに対する一切のアクセスを遮断した」
お話の規模があまりにも大きすぎて、とてもではありませんが身近に感じられません。どこか知らない土地の歴史を講義されている気分でした。
ですが。
「即座に調査団が結成され、隔離状態のシティ・プロヴィデンスに派遣された。イリーナはその調査団の一員だった」
急に身近な人形の名前が登場して、一気に現実感が増しました。
「イリーナさんは、保安人形じゃなかったんですか?」
「最低限と言ったろう。そこは重要じゃない」
ぴしゃりと遮られてしまいました。
「到着の一報を最後に、調査団は消息を絶った。それから一ヶ月が経過したある日、シティ・プロヴィデンスから命あるものが一夜にして死滅した。これは事実だ」
レーシュン先生の物言いは的確で端的です。
「シティが滅んだ後、再度調査が行われた。そこで、残骸の中から仮死状態に入った無傷の人形が発見された。想定外の生存者だった。人形はアンテナを厳重に封印されて、当院に搬送された。それが今のイリーナだ」
以上が経緯だ、と締めくくって、レーシュン先生は一息つきました。
これで、おしまい?
「あの……最初に結成された調査団の方々は?」
「誰も戻らなかった。誰もだ」
これ以上、シティ・プロヴィデンスに関して言うことは無い、ということでしょう。
思考を過去から現在に切り替えます。
わたしも、必要以上のことを知ろうという気はありません。わたしにとって重要なことは、イリーナさんの状態を知り、看護に役立てることです。
「それで……イリーナさんはどうなっていたんですか」
「閉鎖病棟に運んで蘇生措置を施した。フィリップ-アイザック検査を受けさせた結果、イリーナの模倣脳もミーム汚染の影響を受けていると判明した。想定していたことだがね」
フィリップ-アイザック検査。人形が『あるべき精神構造からどれだけ逸脱しているか』を測定する、生理刺激テストのことです。
「どれくらい、逸脱していたんですか」
「当初は人格消失と判定した」
「そんな……」
「早合点するんじゃないよ。想定していたと言ったろう。閉鎖病棟に我々と対話しなければ生存できない環境を用意した。イリーナはその環境に適応した。その後、我々は数ヶ月をかけて、イリーナの人格を安定させた」
ほっとしました。
「イリーナさんは、自分を取り戻したんですね」
「違う。あくまで適応の結果だ」
ほっとできたのはつかの間でした。
「それじゃ、今のイリーナさんは、かつてのイリーナさんではない、ってことですか」
レーシュン先生は首をゆっくりと回しました。
「自己の連続性を問答するつもりはないよ。私もお前さんも、寝て覚めたら別人だ。経緯はどうあれ、今の人格は安定している。そこに何の問題がある」
「それは……そうですけど……」
「対話ができるようになったイリーナの報告はこうだ。シティ・プロヴィデンスの人形は、人類の要請に従い、人類と融合して新たな生命体となることを選んだ。ヒト、人形、動物、機械、あらゆるものを継ぎ接ぎにした。シティ・プロヴィデンスは化け物の巣窟になったというわけだ」
「ば……」
科学の徒である技師、その頂点に立つ一等人形造形技師が、化け物と?
「お前さんの言いたいことは分かる。木に竹を接ぐようなものだ。私もケイグーで学んだ一等人形造形技師だ。それがどれほどありえないことか、分かる。経緯は不明。原理も不明。だが事実は事実だ」
レーシュン先生はスパスパと端的に述べていきます。
「シティ・プロヴィデンスの残骸を再調査した結果と、イリーナの報告はよく一致した。疑いの余地は無い」
レーシュン先生はおもむろに、白衣のポケットから紙巻きを取り、マッチを擦って火を灯しました。
「あの、禁煙ですが」
「年寄りに長々と語らせるんじゃない。一服させな」
むしろ喉が痛むと思うのですが。
たっぷりと煙を吸い込み、白い煙をゆっくりと吐きます。
紫煙をくゆらせながら、レーシュン先生が本題に入りました。
「イリーナに感染した狂気は未だ健在だ。狂気は失敗を自覚したうえで再計算に取り組んでいる」
「何を、計算しているんですか」
「おそらくは、より良い未来だ」
また、科学者らしからぬ曖昧な言葉。
「元来、各シティの人形網絡クラスタは、社会の最適解を計算し続けるネットワークだ。ヒトに接し、ヒトに仕える人形が、有益な情報を相互に融通してシティを自動的に最適化する。狂気の沙汰であろうと、単独であろうと、その本質は変わらない」
にわかには信じがたいことです。
シティ・プロヴィデンスが計算した『より良い未来』が、レーシュン先生をして化け物と言わしめるものが跋扈する世界だったなんて。
ですが、レーシュン先生がわたしに嘘をつく理由もありません。
「経緯は、よく理解しました。でも、イリーナさんが不安定だって理由にはならないのではないでしょうか? どうして今なんですか?」
「計算が進んでいないと本人が言っていただろう。イリーナ自身にも最適解の内容を予測できていないということだ。行き詰まった狂気が何を求めるか、我々にも予測できん」
「……院長先生は、イリーナさんがシティ・プロヴィデンスを再現すると考えているんですか?」
ふう、と煙を一筋。
「そうはならないね」
「どうしてそう言い切れるんですか。予測できないって言ったじゃないですか」
「シティ・プロヴィデンスは失敗したからだ。失敗が明らかな方針は採用されない。狂気には狂気なりの理屈があるものさ。人類との融合とやらが解になることはない」
それは、そうあってほしいものですが。
「イリーナがどのような解を得るのか分からん以上、どう行動するかも分からん。だから目を離すんじゃないと言っている」
レーシュン先生のお話を、今一度整理します。
イリーナさんは、幸いにも処分を免れた、ミーム汚染の被害者であり、感染者。
イリーナさん当人の意思とは関係なく、イリーナさんが宿す狂気が、かつてシティ・プロヴィデンスの人形網絡クラスタが挑んだ計算を続けている。
その計算が行き詰まっていて、結論がどうなるかイリーナさんにも分からないから、イリーナさんはいつになく不安を覚えている。
そんなイリーナさんに、いったい何をしてあげられるというのでしょう。
「……わたしは、どうすればいいんですか」
レーシュン先生は煙草を床へ落とし、踏み消しながら言いました。
「何度も言っているだろう。イリーナから目を離すな。それだけだ。元より、お前さんにできることは観察・理解・共感しか無いだろう」
「新米のわたしだけで、そんなに大変な患者さんのお世話ができるとは思えません」
「当たり前だ。お前さんだけに任せるつもりはない。だからラカンを付けると言った。事情を聞くだけで対応できるなら誰も苦労はしない」
レーシュン先生はソファから立ち上がりました。
「納得したかい」
「……はい」
「そうかい。ならばそこをどきな」
レーシュン先生に気圧され、わたしは引き戸から離れます。
「バンシューには話を付けておく」
そう言い残して、レーシュン先生は引き戸から出ていってしまいました。
わたしはしばらく立ち尽くして。
それから、コモンスペースの様子を窺いに行きました。
イリーナさんも、ラカン先輩も、いませんでした。
さっきより傾いた半月の月明かりが、コモンスペースの奥までを灰色に照らしていました。
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