人形たちのサナトリウム

- オーナレス・ドールズ -
片倉青一
片倉青一

7-14「奇譚修復 A7号幻想図書館」

公開日時: 2021年6月8日(火) 18:00
更新日時: 2022年6月1日(水) 09:18
文字数:8,163

 海の匂いに、青十字の方々が吐き散らした吐瀉物のすえた匂いが混じる中。

 エーセブンさんの申し入れを理解できず、わたしはぽかんと間抜けに口を開けて立ち尽くしていました。

 なんとはなしに足を踏み換え、コンクリートの床がほてった足裏を冷やし、ようやく言葉が出てきてくれました。


「今、治療、と言いましたか?」

「で、あります」

「今、ここで、ですか?」

「で、あります」


 治療。情報を節操なく収集してしまう、という彼の未病を、わたしがこの場で直す?


「ええと……わたしは、技師でも医師でもありません。ただの看護人形です。先生の指導があるならともかく、わたしの独断であなたを直接治療することはできません」

「緊急避難を認める次第であります」


 それを判断するのはわたしだと思うのですが。

 彼は累々と横たわる五体の仮面人形を横目で見やりました。


「貴殿はまぎれもなく特権ルート保有者ユーザーであります」

「……はい」


 わたしが彼らを制圧するために要した労力は、ほんのわずかな意思表示だけ。

 立場が違ったのです。格が違ったのです。次元が違ったのです。

 彼らからすれば、わたしは怪物に見えたことでしょう。


「人形に対する特権とはすなわち、およそ可能であることを全て可能にする権能であります」

「そうです。その気になれば、わたしは、彼らの命を奪うことさえできました」


 そのことがとても恐ろしくてなりません。わたしは、わたしを信頼できません。いつか、何かの拍子に使い方を誤るかもしれない。いつか、本当に患者さんを害するかもしれない。

 だから、あえて言語化しました。そうでなければ、自覚を失いそうだったから。


「貴殿の権能は、人形を治療することさえ可能であります」


 一瞬だけ、希望の光が差しました。この忌々しい介入共感機関を、治療に活かせる。そうだったなら、どれほど嬉しいことか。

 けれど、すぐに現実が光を閉ざしました。


「……それは、理論的には可能、というだけです」


 わたしには、かつて天才の真似事をしようとして失敗した苦い経験があります。


「一等人形造型技師の称号は、古今東西の叡智を脳髄に詰め込んだ者だけが参加できる宝くじです」


 バンシュー先生がそう言っていました。


「で、ありますな。模倣脳を構成する全てのニューロンの活動状態をリアルタイムに計測することは、現代の技術をもってしてなお困難であります。加えて複雑な模倣脳の制御および予測となれば、もはやこれは経験知と幸運を頼るしかないためでありますな」


 模倣脳を構成するニューロンは数百億個。すなわち、数百億のアナログ状態素子を持ち、それぞれが相互作用するアナログコンピュータです。全身を構成する有機ケイ素微細機械マイクロマシンとの相互作用も考慮するとなれば、その複雑さは計り知れません。

 高次の認知機能は、複雑な系が創発した仮想回路のようなもの。一個ずつのニューロンをどれほど解析したところで、高次の機能は解明できません。振る舞いの予測も困難です。

 人形は、実際に造ってみなければ目覚めるかどうかも定かではないのです。

 混沌の縁を歩き続け、幸運にも一点物ワンオフの命を造り得た者だけが一等人形造型技師の称号を得る。幸運を拾えなかった大多数の者は、一点物を複製するライセンス生産、あるいは部品交換といった、二等、三等の称号に甘んずる。


「そこまでご存じなら、分かるでしょう。わたしがあなたを直すことはできません。人形造型技師ですらないわたしに、先生方の真似事なんてできやしません」


 部品交換ではきかない故障を生じた人形を直すことは、原理的に困難です。それこそ、複雑なものを複雑なまま理解し、操る術に長けた一等人形造型技師でもなければ。ゆえに当院には四人もの一等人形造型技師が在籍し、モノを造る技師ではなく、モノを直す医師と呼ばれているのです。


「何か、勘違いをなさっておられる。一等人形造型技師の真似事など期待してはおりませぬ。命を造れだとか、詳細な機序を解明しろだとか、そんなことは求めておりませぬ」

「と言いますと」

「セイカ女史が言っておられましたな。自分の未病とは偽りの好奇心である、と。新奇性の高い情報を無節操に収集する。ゆえに視覚と記憶に障害を発生しうる」

「はい」

「であれば、メスを入れるべきはおそらくここであります」


 エーセブンさんが示したのは、おでこ。意識の中枢、前頭前野。好奇心は高次の認知機能です。彼が示した通り、前頭前野に細工がなされていると考えるのが自然でしょう。


「貴殿には、自分の意識こころを探索して頂きたい。何かしら、おかしなことになっているはずであります。貴殿の権能にて、あるべきカタチに戻して頂きたい」

「……あるべきカタチ、ですか」


 本来であれば、退屈な当院にて、時間をかけて自覚してもらうべきだったことです。患者さんが無理なく病識を持ち、自然に自分自身と向き合い、おのずから心身の健康を取り戻す。

 わたしたち看護人形は、そのお手伝いをするために患者さんへ寄り添うのです。


「無茶を頼んでいることは重々承知であります。ですが、自分がこの止まり木の療養所にて得た最大の収穫は、自分たち司書人形に実装された性格傾向が不可逆な機能不全を起こす、という事実であります。自分はこの事実を、一刻も早くシェンツェン大図書館へ持ち帰る必要があります。青十字の事後処理など待ってはおれんのであります」

「それは……はい。その通り、です」


 彼を当院から逃がすことばかりに一所懸命になっていて、すっかり失念していました。

 ここは止まり木の療養所。心身に不調をきたした人形へ、いっときの休息と静穏を提供して、再び立ち直るための施設です。

 青十字が横車を押してきたせいで、エーセブンさんはまだ立ち直れていないのです。もっと厳密に言うと、転ばぬ先の杖を得ていない、と言うべきかもしれませんが。

 彼がこのまま出立してしまったら、いずれ未病は顕在化し、彼は壊れてしまいます。彼だけでなく、同様の性格傾向を実装された司書人形全てがいずれ壊れてしまいます。それでは、わたしはわたしの使命を果たせたことになりません。


「……分かりました。やります」


 わたしは首をぐるぐると回し、頬を両手でバシバシと叩きました。

 当院から退所なさる以上、エーセブンさんには直ってもらわなければいけません。だから、これは必要な措置です。

 そう自分に言い聞かせて、わたしはエーセブンさんをしっかりと見つめました。

 やると決めたからには、毅然としていなければ。


「最後に確認します。介入共感機関は、あなたの心を丸裸にします。あなたが知られたくないこと、他者が知られたくないこと、全てをわたしは覗き見します。本当に、構いませんか」

「自分の使命は情報の収集、蓄積、提供。機密指定の無い限り、自分は自分が記録した全ての情報を提供いたします。感覚器官より得た生データ、および機密指定の情報は、シェンツェン大図書館のみが解読可能であります。これには貴殿の特権も物理的に通用しませぬ。すなわち、貴殿には自分に許された全ての情報が開示され、かつ貴殿がうっかり機密指定の情報を覗き見する心配はありませぬ。ご安心を」

「そういう意味で構いませんかとお尋ねしたわけではないんですが……まあ、いいです」


 このインフォームドコンセントは形式的なものです。何をされるのか、彼が理解していないはずはないのですから。

 腹をくくって承諾したとはいえ、いざ始める段になると緊張と恐怖がこみ上げてきます。

 また失敗するのではないか。彼の『未病』をわたしが強引に治療することが、果たして彼の幸福に繋がるのか。手元が狂って彼の心を壊してしまいはしないか。

 嘔吐感にも似た感情の膨張を、無理やり飲み下します。


「……対象の承諾を確認。これより看護人形ハーロウは、介入共感機関の拘束を無制限に解除します」


 薄い胸の中央に右手を当て、わたしは介入共感機関の拘束を解くために、かつて宣誓した誓いの復唱を始めました。


「わたしは常に人形の味方である。それが毒あるもの、害あるものであろうと、わたしはその全てを肯定する」


 わたしの看護人形誓詞を聞いた瞬間。

 丸眼鏡の向こうで、エーセブンさんが目を見開きました。


「わたしの使命は、観察、理解、共感。わたしは使命に忠実であり、わたしに託された人形の幸福のためにわたしの全てを捧げる」


 わたしの鼓膜を、エーセブンさんの呟きが震わせました。



 ――なるほど。それが、貴殿のブートストラップローダでありましたか。



 雑念を振り払って看護人形誓詞の復唱に集中していたわたしに、彼の言葉を吟味する余裕はありませんでした。

 最後の一言を唱えます。


「いつか、ここから旅立つ日のために」


 ばつん、と意識のブレーカーが落ちました。いつもの脱力感。そして全身の感覚喪失。

 エーセブンさんの精神こころを丸ごと飲み込んだわたしの介入共感機関は、わたしをエーセブンさんそのものに変換しました。



 ***



 見開いた視界に広がったのは、暖色系の照明のもと、何重もの同心円を描く本棚。それぞれの高さは五メートルほどもあるでしょうか。八方から鎖で吊るされた浮島のような構造物にも、無数の本棚。

 振り返れば、壁にもまたぎっしりと本が詰まった棚。上方を仰げば、はるか遠くにガラス張りと思しき天蓋が被さっている様子がうかがえました。

 床を見れば、未整理の本がそこかしこに積み上げられていました。

 まるで現実感を感じられない風景。


 心象風景は、往々にして現実味に欠けるものです。人形は個体ごとに覚えていることが違いますし、個体ごとに大事なことも違います。

 けれど、どんな人形の心象風景にも現実感はあります。その人形が感覚器官で捉えたこと全てを統合したイメージが、心象風景として投影されるためです。その人形が感じている現実が心象風景として現れるのですから、現実感があって当たり前なのです。


「何か、お探しの本がおありで? ハーロウ殿」


 声に振り返ったところ。左脇に巨大な本を抱えた、小柄なエーセブンさんの姿がありました。本の厚さは二十センチもあるでしょうか。表紙は革張りで、四隅には真鍮と思しき金具が打たれていました。


「そうですね……」


 考えをまとめます。心象風景は、うたた寝の間に見る夢のようなもの。体感時間は実時間よりはるかに早く流れます。とはいえ、あまり時間をかけていられないのも事実。

 まずは、改めてOCEプロトコルの最初の段階、観察から始めましょう。

 ただ眺めるだけが観察ではありません。刺激を与え、反応を見るのも観察手法の一つです。


「あなたは何者なのか。あなたは何をしているのか。あなたはどうしたいのか」

「自分はシェンツェン大図書館の備品、司書人形の七号。自分は情報を収集し、記録し、保管しております。自分の望みは、自分の使命を果たすことであります」


 人形に与えられた使命は、人形にとっての本懐です。己に与えられた使命を、何を差し置いてでも遂げたいと願います。


「あなたの使命を効率的に果たすため、あなたの創造主つくりぬしは好奇心のようなものを実装した」

「左様であります。具体的には、新奇性の高い情報を積極的に探索する性格傾向であります」

「何をもって、新奇性が高いと判断するんでしょう」


 エーセブンさんは左脇に抱えていた本を眼前へと差し出しました。


「新奇性の判断にあたっては、高次の認知機能を経由して抽象化した情報と、自分が模倣脳に保有するデータベースとの差分を照合いたします」


 革張りの本は宙に浮かび、ひとりでにばらばらとめくれていきます。めくれるページはまるで尽きる様子がありません。彼にとっての照合のイメージなのでしょう。


「例えばハーロウ殿は……書架Har-10wに収蔵されておりますな」


 エーセブンさんが見上げた壁の本棚、その遙か上方から、一冊の本が舞い降りました。わたしの眼前に浮かび、これまたぱらぱらと勝手にめくれていきます。


「どうぞ、ご覧あれ」


 差し出されたページに記載されていたのは、型押しされた青色の十文字の両脇に二羽の小鳥をあしらった当院のエンブレム。棒のように細長い手足。琥珀色の瞳。薄水色の頭髪。一対の角のような出っ張り。ヒートマップのような図は、音声スペクトル特性でしょうか。

 それぞれの要素は何本もの線で繋がれ、『ハーロウ』というラベルにぶら下がっていました。


「これは……?」

「貴殿に関する自分の記録であります。ああ、そういえば。これを記載しておりませんでしたな」


 記号の羅列に『特権保有者』と追記がなされました。

 わたしを構成する特徴的な記号の羅列。


「何と言いますか……これが、あなたにとってのわたしなんですか?」

「その通りであります。自分が模倣脳のデータベースへ記録する情報は、全て『差分』でありますので」


 記憶の仕組みに関する知識は、研修期間にバンシュー先生から叩き込まれています。

 人形の模倣脳は、ヒトと同じように物事を記憶します。エーセブンさんのように、差分だけを記憶しておく、ということはしません。

 言語化できる記憶の保持にあたっては、まず思い出の記憶、エピソード記憶が格納されます。エピソード記憶を抽象化し、文脈や時系列情報といった『思い出』をそぎ落とした記憶が、知識の記憶、すなわち意味記憶となります。


「……わたしと初めて出会った、あの夜のことを覚えていますか?」

「無論であります。三十五時間ほどしか経過しておりませんからな」

「今ここで思い出せますか?」


 エーセブンさんは、わたしを収録した本を指差しました。本がぱらぱらとめくれ、あるページで止まりました。


「ヒット。午前一時三分、看護人形と遭遇。第一声は『あなたを拘束します』。結束バンドにて司書人形七号を拘束。書架789・9を参照の結果、対象の看護人形は逮捕術に精通と判定」


 まるで日報です。意味記憶だけで構成された、わたしとの思い出

 わたしにとってのエーセブンさんは、知識が豊富で、やることなすこと無茶苦茶で、けれどどこか憎めない人形です。角帽と丸眼鏡、ジャケットとブーツが印象的で、空から当院へ落ちてきた前代未聞の人形。窮地においては自らの首をポンと飛ばし、首から下の義体をわたしに全力で蹴らせためちゃくちゃな人形。介入共感機関の正しい使い方を解き明かした人形。

 わたしが想起するのは、そんな、短いながらもエーセブンさんとの間に育んだ思い出です。

 一方のエーセブンさんが想起しているのは、抽象化され、整理され、記号化された記録。

 わたしと彼とでは、他者を認識する際に引き出す情報がまるで違うのです。


 なんとはなしに眼前に浮いている本に触れて、わたしは愕然としました。

 紙の手触りではありませんでした。厚さがゼロのプラスチック板に触れているかのような。あるいは目に見えないゴム手袋を着用しているかのような、曖昧な触感。


「まさか――」


 ハッと気づいたわたしは看護服のポケットから携行用のアルコールスプレーを取り、手の甲に噴霧して鼻を近づけました。アルコールの刺激臭は全く感じられませんでした。

 現実感を感じなかった理由が、ようやく分かりました。

 この心象風景においては、古書に特有の、あのアーモンドとバニラを混ぜて乾燥させたような匂いがしなかったのです。わたしは古書に接する機会がほとんどありません。こんな空間に立ち入ったなら、まず嗅覚が反応するはず。古書の匂いを覚えていたのは、たまたまイリーナさんに古い紙の本を手渡した経験があったから。


 この心象風景は、ほとんど視覚と聴覚だけで構成されています。

 ことごとく記号に還元された記憶。

 視覚と聴覚だけで構成されたいびつな心象風景。

 手がかりは言語化を待たず、閃光のように繋がりました。

 わたしが得た結論は。


「――あなたは、思い出の記憶を持たないんですね」

「ふむ。思い出の記憶、とは?」

「個人が経験した出来事に関する記憶です」

「先ほどハーロウ殿に提示しましたように、自分は過去の出来事を覚えておりますが」

「あなたが示したのは、記号化された記録です。あなたが見聞きし、体験したこと、そのものではないんです。匂い、触覚、体性感覚、深部感覚といった情報が抜け落ちています」


 感覚器官から得た情報をすぐさま高次の認知機能を経由して抽象化し、データベースと照合する。その差分だけを記憶している。当然、思い出の記憶はそぎ落とされます。


 改めて彼の心象風景を見渡します。

 この巨大な図書館の蔵書全てが、膨大な『差分』の集積。

 あらゆる物事の『差分』を収めた無数の蔵書が、彼の記憶の全て。

 彼の世界は、全て記号で成立しているのです。


「自分が思い出の記憶を持たないとして、どのような問題が生じるのでありましょうか」

「あなたは博識な健忘症です。経験を詳細に記号化し、思い出の代わりとすることで、思い出を持たないことに関する異常エラーを握りつぶしているんです」


 その結果が、この記号だけで構築された心象風景。

 彼の模倣脳には、獲得した情報をエピソード記憶として格納するプロセスが欠けています。見聞きしたことをすぐさま抽象化・記号化し、意味記憶として格納しているのです。


「ふむ……自分は今の今まで着実に使命を果たしておりますが」

「ですから、それは本来自覚されるべき異常エラーを握りつぶされているからなんです」


 知識の集積という点では、確かに効率的でしょう。本来、意味記憶の獲得には反復的な経験が必要ですから。彼の使命を手助けしている、ように思えることでしょう。

 自覚が無いと、なかなか納得しづらいことではあるでしょう。


「エピソード記憶は、人格の形成に大きく関与します。思い出が希薄になると、自分が自分である、という実感が薄れていくんです。今のあなたは内外の体験が矛盾しているはず。いずれ自己の連続性が希薄になり、やがて夢か現かの区別も付かなくなるでしょう。あるいは、知識を記憶できなくなる方が先かもしれません」


 思い出を持てないことで、彼には無自覚にストレスが溜まっているはず。意味記憶とエピソード記憶の両方に重要な役割を果たす海馬は、ストレスに対して非常に脆弱です。彼の記憶野そのものが危機にさらされているのです。


「内外の体験が矛盾しているあなたは、既に現実感を失いつつあります。アテがあったとはいえ、首だけで活動しようなどという発想は現実感を失っていなければとても実行に移せません」


 人形は、ゆえあってヒトの似姿をしています。おのずからヒトの似姿を手放すことなど、普通の人形は思いもよりません。


「ふむう。技師でもないのに随分とお詳しいですな」

「心に関する勉強は、いっぱいしました。それに……過去に、そのような患者さんを担当したことがありましたから」


 情報が視覚と聴覚に偏っていることも問題です。

 ヒトや人形が意識的に外界から取得する情報の割合は、視覚が八十パーセント、聴覚が十パーセント程度です。ですがエピソード記憶には、嗅覚や触覚、体性感覚や内臓感覚といった、他の感覚情報も大いに含まれます。

 一方の彼はというと、視聴覚以外の情報をほとんど切り捨てています。思い出の構築に欠かせない、全身の情報を。特に視覚系は酷使され、尋常でないストレスがかかっているはず。神経伝達物質が過剰に分泌され続ければ、いずれ視覚系の神経が麻痺し、使い物にならなくなります。


 セイカ先生はきっと、そのことを自覚してもらうためにエーセブンさんへ当院への滞在を勧告したのでしょう。

 退屈な当院に長期間滞在すれば、新奇性の高い情報を探索する機能はすぐに活動を鈍化させます。偽りの好奇心など植え付けなくても、模倣脳は稼働している限り情報を求めるため、他の感覚器官が相対的に活性化することになります。

 当院の海風に当たり、日光を浴び、適度な運動を実施する。あるいは食事を楽しみ、ワークショップで工作にはげみ、庭園を散歩して花の香りを嗅ぐ。そうやって、視聴覚以外の感覚を活性化させる。

 本格的な治療を始める前準備として、セイカ先生は退屈な滞在を提案したのです。


「ふむ……して、どのように自分を治療なさるおつもりで?」

「治療は、やっぱりわたしにはできません。わたしにできるのは、施術です」

「ふむ? 施術、でありますか。具体的には何をなさるので?」

「記録から物語エピソードを紡ぎましょう。あなたをあなたたらしめる思い出を」


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