アイリスはきょとんとして、首をかしげた。
無理もない。だしぬけに心を見せろと言われても、意味が分かるはずがない。
「心を見せる、とは?」
「言葉通りです。メラニー……ワタシ、には、人形の認知、感情、身体に対し、強制的に共感する機能があります。つまり、ワタシはあなたの心を読めます」
石材の椅子に座ったアイリスは目を丸く見開き、一度きりまばたきをした。
「道徒メラニー。今、私が何を考えているのか分かりますか?」
「いえ。緊急時を除き、対象の同意を得る必要があります」
「そうですか。残念です」
「……何、考えてたんですか」
アイリスはメールのエンブレムを縫い付けた制帽を両手で示した。
「帽子を取った私の姿を想像していました」
メラニーの頬が熱くなった。
「どうしてです……」
ほとんどの人形は、頭部のアンテナを露出することに強い羞恥心を覚える。アイリスは想像の中で、裸体をメラニーへ晒そうとしたようなものだ。
「どのような反応をするか、興味がありましたので」
「……セクハラです。やめてください」
「冗談が過ぎました。私、ここがアレなもので」
「それもやめてください……」
メラニーは脱力感を覚え、石のテーブルに突っ伏した。
ヒトも人形も、心を持つ者は誰でも、心を読まれることを本能的に恐れる。
良くも悪くも、心は隠せる。コミュニケーションの円滑化にあたって、内心の秘匿は必要不可欠だ。
ヒトや人形が他者を欺く能力を獲得しているのは、抜け駆けや不正による利益を得るためではない。
むしろ逆だ。誰でも、抜け駆け、不正の意思を抱いてしまう。あるいは誰かへの悪意、嫌悪の感情を抱いてしまう。だが、心の内側から外へ出すか出さないかは選択できる。他者とのトラブルを防ぐことができる。人形もヒトも社会的な存在であり、社会に依存して生存している。内心を秘匿できない者は、社会から追放される。
メラニーとハーロウが持つ介入共感機関は、これらの前提を根底から覆す。ゆえに彼女たちの機能は銃よりも暴力的であり、恐れられる。
ところがアイリスときたらどうだ。まるで恐れる様子が無い。むしろ「どうぞ読んでください」と言わんばかりだ。
すぐそばの樹木にもたれかかっていたラヴァが苦笑いした。
「その……何だ。アイリスさん、君は肝が太いな」
「そうでしょうか」
「俺は代理兵士だから情報を漏らせないってこともあるがね。心が誰かに読まれるってのは怖いもんだよ。例えば……そうだな。俺がメラニーちゃんを見て『そういえばこの子のアンテナはどんな形をしているんだろう』と思ったとしよう」
「まっ」
アイリスは両手で口をわざとらしく覆った。
「そんなことを思っていたんですか?」
「君がそれを言うのか……例え話だよ。口にするのとしないのとじゃ大違いだ。思ったとしても、言うべきでないことは言わない。そうでないと会話は成り立たない。そこにきて、メラニーちゃんとハーロウちゃんは前提をひっくり返す。何もかも筒抜けになる」
ラヴァがメラニーへ視線を送った。
「そういうことです。いいんですか、アイリスさん」
「はい。私は常に、言行一致を心がけています。恥ずべき心根の持ち合わせはありません」
「もうひとつ。メラニーがアイリスさんの心を見ることは、通信の秘密に抵触すると判断します。本当に、メラニーが心を見ていいですか」
「あなたが秘密を約束してくださるなら」
「メラニーは人形網絡にアクセスできません。誰かに見せることはできません。それに、メラニーは看護人形です。患者さんの秘密は口外しません」
「では、大丈夫でしょう」
「でも口約束です」
「秘密の漏洩とは、情報の利活用を制御できない状態のことです。あなたが胸の裡に留めてくださるなら、実質的に秘密は保たれます」
「……王様の耳はロバの耳、ですか」
「葦に打ち明けないと約束してくれますか?」
「はい。このナースキャップに誓って」
インフォームドコンセントは、十分に果たした。
当人が問題無いと言うのなら、これ以上メラニーがアイリスの心配をすることはない。
「ラヴァさん、外してください。見張り、お願いできますか」
「代理兵士の得意分野だ。任された」
「ありがとうございます」
ラヴァが音も立てずに木立の向こうへと消えた。今、この庭園にはメラニーとアイリスの他には誰もいない。
二体とも黙ると、静かになる。木々の葉鳴りと小川の水音だけが耳を塞ぐ。
メラニーは、姿勢を改めて正した。衣擦れの音がはっきりと聞こえた。
「では、手を」
メラニーが右手を差し出した。アイリスは素直にメラニーの小さな手を取った。
「対象の同意を確認。感情・認知領域、介入共感機関の拘束をプライマリ解除」
前置いて、メラニーは介入共感機関の拘束を解除するための看護人形誓詞を呟いた。
「我は。常に人形へ与する者。其に毒あれど害あれど、これ悉く肯う者。観察、理解、共感の命題へ殉ずる者。其の厚生に全霊を捧ぐ者」
メラニーの看護人形誓詞は、意味こそハーロウのそれと同じだが、短い。
目を閉じ、メラニーは最後の一言を唱えた。
「――此方を発つ、他日が為に」
瞬間。
全身の感覚が、薄膜一枚を隔てているかのように曖昧になった。
「……っ、く」
メラニーの視覚が、楕円形の映像を捉えた。目を閉じたメラニーが映っている。アイリスの視界だ。リップを塗ったメラニーの唇に注意を向けている。
あらゆる音が反響しているように聞こえる。自身の聴覚に加えて、アイリスの聴覚も含んだためだ。
触覚にも違和感を覚えたが、着慣れていない服を着ていると思い込むことで無視。
嗅覚と味覚は、最初だけ違和感を感じた。これは数十秒ほどで慣れた。
メラニーは今、アイリスが認知していることを他人事のように感じている。今のメラニーにとって、アイリスという人形は五感に対する刺激の出力装置だ。ディスプレイやスピーカーと同じものだ。
同時に共感している感情は、現在のところ凪ぎ。
「目を閉じて」
楕円のディスプレイが暗くなった。
反響する環境音と、互いに握った手の温もりだけが残った。
「思い出して。あなたが届けた、人々の『想い』を」
投げかけた言葉が黒い水面を打った瞬間、黄みを帯びた陽光がゆるりと差した。
無数の封筒がアイリスを取り巻くように散らばり、反時計回りにゆったりと回転していた。言葉に応じて想起されたアイリスの記憶だ。
同時に、心がぽかぽかと温かくなった。地に足の着いた多幸感、とでも形容すべきか。
メラニーの知らない感情だった。
「この、たくさんの封筒は?」
「私がお届けした全てのお手紙と贈り物。それらにまつわる私の記憶をパッケージしたものです」
「そこ、薄い橙色の封筒。封蝋が三十二年前のもの、いいですか」
イメージの中でアイリスの手が伸び、封筒に触れた。封筒がぱっとほどけ、一枚きりの便せんが姿を現した。
「ああ……これですか。ええ、よく覚えています」
メラニーの口角が、引っ張られるような違和感を訴えた。アイリスが微笑んでいるらしい。
アイリスの思い出語りが、始まった。
「これは、とあるお方が、当時すでに亡くなっていたご友人へ宛てたお手紙です」
「亡くなった人に、届けたんですか」
「はい。そういうご依頼でした」
景色が、紙芝居のようにさっと塗り変わった。
赤々と燃える暖炉の手前、重厚な木製のデスクに、影絵の人物が腰掛けていた。身体動作の癖から察するに、壮年の男性。
「アイリスさん、顔、覚えてないんですか」
「はい。個人に紐付く一次情報は一定期間後に忘却するよう、郵便人形には暗示がかけられていますので」
復唱と宣誓による暗示は、人形に対して実効的な強制力を持つ。顔を忘れさせることくらいは難しくない。
影絵の男性は、一言一句を紙へ刻むように、ペン先をゆっくりと動かしていた。
「宛先は、K2の山頂でした」
「どこですか、そこ」
再び、景色がさっと塗り変わった。
白い雪で厚化粧を施した、濃灰色の岩壁。山というよりは、巨大な岩。あるいは巨大な三角形の壁。立体映像でもなお距離感が狂う、遠い山容。
吹きすさぶ季節風の冷気は、寒いを通り越して痛い。文字通り、身を切る寒さだった。
「地球で二番目に高い山。八千メートル峰の最難関です。百年前に比べれば極限環境における生命維持技術が飛躍的に向上した現在でも、未だに人類はK2への冬季単独登頂を果たしていません」
厚い雪の上を歩いている。踏み出すたびにブーツが深々と沈む。肩と腰にはザックの巨大な質量を感じている。視界をよぎった手袋の甲には、メールのエンブレム。
「……アイリスさん、登ったんですか」
「エルバイト郵便社は世界中のどこへでも、あなたの大切なお手紙をお届けいたします」
凍える風が吹くたび、山肌の粉雪が踊る。ナノマテリアル技術の粋を凝らした繊維も、マイナス四十度の風を完全には遮れない。
なのに、暖炉の前に座っているかのように、アイリスの心は芯から温かい。
「もちろん相応の準備と装備を必要としました。ご依頼主のご負担は結構な額にのぼりましたが、配達料は前払い、経費は後払いという内容でご承諾を頂きました」
圧雪が長い時間をかけて氷塊となった、その割れ目を縫って歩く。
山頂を間近に捉えたときだった。
歩みが、止まった。
一呼吸置いて、アイリスが悲しげに告げた。
「ご友人は、K2への冬季単独登頂に挑み、道半ばで斃れました。そう、ここで」
遠く、斜面を下った先に、黒褐色の物体が見える。
手袋を取ったアイリスの手が、何重にも着込んだ防寒着の内側から封筒を取り出した。封を破り、便せんを抜いて開いた。
薄く冷たい空気を肺に溜め、アイリスは朗々と手紙を読み上げた。
君の肩は山嶺の稜線だった。
向こうには必ず山頂があった。
君の肩は朝日昇る地平線だった。
変わらぬ夜明けを約束してくれた。
君の肩は断崖の鎖場だった。
雲海の中で確かな錨となってくれた。
だが、君は山になってしまった。
登山家は、決して山では死んではならぬと、君は言ったではないか。
これきりだ。この手紙を最後に、俺は山を忘れることにする。
君の肩を忘れることにする。
さらば、友よ。
ぴったり一分、アイリスは待った。便せんが映るように写真を撮影した。
最後に便せんを細く丸め、電熱式の携帯ライターで熱した。便せんは先端から炭化し、ぼろぼろと雪へ落ちていった。
さらば、友よ。
そう言った時のアイリスは、下まぶたに涙を溜めていた。
「写真と共に完遂のご報告をお届けしたのち。私は、僭越ながらご遺体から一房のお髪をお預かりし、ご依頼主へお渡ししました」
景色が塗り変わった。白銀に輝く斜面の先、遠くに見えていた茶褐色の物体。あれは、遺体だった。
さらに景色が塗り変わる。暖炉の前に立つ影絵の男性。
男性はアイリスから遺体から採取した髪を受け取ると、その場にくずおれた。
「これでは、記憶を消そうとした意味が無いと、ご依頼主はおっしゃいました。記憶の一部を消去する手術を受けるつもりだったそうです」
「失敗、ですか」
「さて、どうでしょう。後払いの経費はつつがなくお支払いが済み、私にはメッセージを頂きました」
「どんなメッセージだったんですか」
ぽかぽかと温かだった感情が、ぼっ、と一瞬だけ燃え上がるように熱くなった。
「ありがとう、と。それだけ付記されていました」
これで、この話はおしまいです。
そう締めくくって、アイリスは再び、封筒が舞う橙色の世界へと戻った。
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