エリザベスさんが当院から退所なさって五日。
わたしが新たに加わった看護B班での勤務は、忙しく過ぎていきました。
復職して間もないということで、わたしの主担当は代理兵士のサクラバさん、もといラヴァさんのみ。
とはいえ、ラヴァさんだけに付きっきりになっているわけにもいきません。夜勤の巡回、患者さんたちに関する情報の密な共有、セイカ先生が患者さんたちを回診する際の補助、配薬のダブルチェック、ワークショップの前準備、等々。やるべきことは山ほどあります。
わたしは開放病棟内を駆けずり回り、ことあるごとにジュリア看護長に看護網絡経由で叱られるのでした。
ジュリア:@ハーロウ こら。廊下を走らない。
ハーロウ:@ジュリア すみませんもうワークショップが始まるんです!
ジュリア:@ハーロウ 走っていいことにはならない。
ハーロウ:@ジュリア じゃあ手伝ってくださいよ座ってるんですから。
ジュリア:@ハーロウ 嫌味か。手伝って欲しいのはこっちの方だっての。
看護B班の班長だったジュリア先輩は看護長のお仕事に専念するため、スキナー先輩へ班長のお仕事を引き継ぎました。かつての看護長、アンナ看護長は看護A班の班長も務めていましたが、ジュリア先輩いわく
「あんなの無理。あいつがやたら高性能だっただけ」
とのこと。
患者さん全員の状態を把握し、看護人形の勤務状態を把握し、四人いる先生たちの指示に基づいて現場を取り仕切るのが看護長です。各種書類の決裁、メスキューくんたちの管理、院内設備の管理も看護長の職責です。
大雑把な性格のジュリア看護長はてんてこ舞い。院内全体を仕切るだけで手一杯、とても個別の患者さんをケアする業務にまでは手が回らないそうです。大変ですね、中間管理職って。
閑話休題。
今日の午後は患者さんたちにとっての自由時間。
わたしはラヴァさんと一緒に開放病棟を出て、閉鎖病棟へと向かっていました。巨人と言って差し支えないラヴァさんは、わたしの歩幅に気を遣って隣を歩いてくれます。
「そりゃあ大変だったねえ」
「そうなんですよ無茶苦茶なんですよあのメイド」
「でもハーロウちゃん、時速百三十キロで投げられるのは凄いね」
「ラヴァさんなら時速百六十キロくらい出せるんじゃないですか?」
「いや、たしか時速百七十二キロが最速だったかな」
「……人類超えてるじゃないですか」
「いやまあ、ほら、手榴弾より軽いから。あとノーコンなんだよ俺は。野球のボールは軽すぎてね。だから君の方が凄い」
などと雑談を交わしながら、真夏の炎天下を歩きました。
ほどなく閉鎖病棟の出入り口へ着きました。
郵便人形のアイリスさんと、隣にちまっと突っ立っているメラニーが待っていました。
ラヴァさんいわく、アイリスさんは週に一度、閉鎖病棟の外に出てお散歩をしているそうです。
「やあ、アイリスさん、メラニーちゃん。今日も元気そうだ」
「こんにちは、ラヴァさん。そちらは……ああ、以前、少しだけ閉鎖病棟にいらっしゃった看護人形さんですね」
「はい、ハーロウです。今は開放病棟の看護B班にいます」
患者さんへの挨拶を終えて、メラニーへ。
「お久しぶりです、メラニー」
「ん」
メラニーは小さく頷いただけでした。アイリスさんを視線で促し、四体で連れ立って目的地へと向かいます。
当院の敷地は、歩道を除けばおおむね芝生で覆われています。バミューダグラスといって、耐暑性や耐乾性に優れ、塩害にも強い、当院にはうってつけの品種です。
芝生のど真ん中、他の患者さんや看護人形が近くの歩道を往来する中で、アイリスさんはくるりと振り返りました。肩にかけたメールバッグがゆさ、と揺れました。
「それでは、本日も『行』を始めましょう。ハーロウさんはどうしますか?」
いつものわたしなら「見学します」と答えていたでしょう。
ですが今のわたしにはメラニーが必要なのです。
「すみません、アイリスさん。ちょっとの間、メラニーを借りてもいいですか。それが終わったら見学させて貰えればと」
「道徒メラニーが良ければ私は構いませんよ」
「ありがとうございます。いいですねメラニー?」
「いいけど」
わたしはさっそくメラニーの手を取り、院内のあちこちにある屋根付きのベンチへと連れていきました。隣り合って座ります。暑いので少し間隔を空けて。
二十メートルほど離れた芝生の上で、アイリスさんとラヴァさんが妙ちきりんなポーズを繰り返しています。
「アイリスさん、変わりましたね」
「ふうん」
「何ですか、その反応は」
「気づいたの、意外だったから」
相変わらず手厳しいですねメラニーは。
「彼女、以前は全く話が通じないというか、他人の話を聞かない印象があったんですけど。今は何と言いますか……かなりまともな感じです。あと、ストレスも減っているような気がします。何となく、なんですけど」
「ん。退所は、たぶんもう少し先。でも折り合いがついた。だから、もう大丈夫」
わたしが寝込んでいる間に、何かしら良い進展があったのでしょう。アイリスさんとメラニーの間だけで共有された、何かが。そうでなければ、退所という言葉を想起することなんてありえません。
ここ、止まり木の療養所において、悲しい別れは多くあります。
けれど、晴れやかな別れだって確かにあるのです。
そのことを再確認できて、わたしは少しだけ嬉しくなりました。
「で。本題は何」
「あ、そうでした。ええと……どこから話したものやら」
「じゃあ最初から」
「実はですね。エリザベスさんが退所する間際に話してくれたんですけど――」
わたしはエリザベスさんから聞かされたことをメラニーに話しました。
当院が、青十字なる組織の下部組織であるらしいこと。
青十字とは、人形だけで構成された攻性の自律免疫機構であるらしいこと。
出入りの方々が、その青十字の構成員であるらしいこと。
ガラティアさんの配偶者、セリアン・エワルド氏を直接殺害したのは青十字。
シティ・プロヴィデンスが発狂した際に調査団を結成し、イリーナさんだったものを当院へ搬送したのも青十字。
当院は人形を狂わせる情報因子への抗体を得るための施設であり、誰かが世界中から抗原を集めなければならず、誰かがミーム汚染の発生を特定しなければならないこと。
そして、青十字なる組織が、近々わたしたちに対して何らかの行動を取るであろうこと。
気構えを整えろ、と忠告されたこと。
わたしの要領を得ない説明を、メラニーは黙って聞いてくれました。
「――と、いうわけなんですが」
「ん。聞いてる」
「どう思いますか?」
「荒唐無稽な陰謀論」
「……ですよね」
予想通りの反応でした。
と、思いきや。
メラニーはフムンと鼻息を一つ。見れば首筋に玉の汗が浮いていました。
「信じないとは言ってない」
「……信じるんですか?」
「信じるとも言ってない」
煮え切りませんね。
「イリーナさんのこと、メラニーも共感して知ってる。ナースキャップを見てすぐに敵だと判断するの、言われてみれば確かに変」
「ですよね」
わたしがすぐに思い当たった違和感。メラニーの同調を得て、わたしは何だか心強さを覚えてしまいました。
「根拠、他にもある。言われてみればだけど」
「え。そうなんですか」
わたしはエリザベスさんから聞かされた内容を受け止めるだけで精一杯だったというのに。
「退所した患者さんたち」
「それがどうかしたんですか?」
「……当院は、外部からの干渉を受け付けず、外部への干渉を許さない」
「はい」
「対象を知ることは対象への干渉。対象から知られることは対象からの干渉」
「そうですね」
何かを見ることは、その何かへ干渉することを意味します。
逆に、何かに見られることは、その何かに干渉されることを意味します。
「退所した患者さんたちは、当院を知ってる。当院を知ってる患者さんの存在は、外部からの干渉。退所は当院の方針に反する」
それは、そうです。
「……まさか」
「そう。廃棄処分。一番手っ取り早い」
ぞっとしました。
当院がミーム抗体の精製機構である、という点だけを考えるなら。
当院の看護人形がミーム抗体を得た時点で、もはやその患者さんは用済みです。
メラニーの言う通り、廃棄処分が最も効率的です。効率だけを考えるならば。
「……待ってください。マヒトツさんの例があります。彼女は貴重な技能人形です。処分はできないはずです」
「なら当院に関する記憶を消す」
「……エピソード記憶の改ざんですか」
思い出の記憶は改ざんできます。人形ではなく、ヒトのエピソード記憶です。
例えば、ある人が実際には犯していない犯罪の記憶を『思い出す』手伝いをしてあげると、その人には架空の犯罪の記憶がリアルに生成されます。視聴覚のみならず、触覚や嗅覚といった記憶まで生成されます。つまり、存在しない思い出を後から植え付けることができるのです。
既存の思い出を類似した別の思い出に書き換えるのであれば、なおのこと容易です。
さらに人形が相手となれば、特定の手続きを経た暗示だけで事足ります。復唱と宣誓による暗示が、人形に対して実効的な拘束力を発揮するように。
けれど、信じたくないことです。
退所する際、当院に在籍したというエピソード記憶を改ざんされるなんて。
わたしたちとの思い出を、類似した別の思い出に置き換えるだなんて。
「言っておくけど、憶測」
「それは、そうでしょうけど」
現在は状況証拠未満が積み上がっているだけです。あのエリザベスさんが、皮肉でも冗談でもなく真面目に言っていたから、何かあるに違いないとわたしが信じているだけ。
「情報が足りない。だから憶測どまり」
「そうなんですよねえ……調べようにも、わたしには知識が無いので……」
物事を調べるためには知識が必要なのです。
顔を両手で覆ったわたしへ、メラニーは簡潔で明瞭な手段を示しました。
「訊けばいい」
「訊くって、誰にですか」
「決まってる。先生たち」
正気を疑ったわたしは顔を上げ、メラニーの表情を窺いました。
メラニーはいつものように半眼で、心境が読み取れない無愛想な顔つきのままでした。
「答えてくれると本気で思ってます?」
「聞いてみないと分からない」
想像します。
バンシュー先生に尋ねたとしたら? いつものようにへらへらした口調ではぐらかされるに決まっています。
レーシュン先生に尋ねたとしたら? そんな暇があれば患者さんの兆候を見逃すなと叱責されそうです。
リットー先生は……あまり関わりが無いので反応を詳細に想像できませんが、寡黙な先生です。仕事に戻りなさい、と言われるのが関の山でしょう。
「セイカ先生」
「……答えてくれますかね」
「さあ。でもあの人は嘘をつくのが苦手だから」
セイカ先生はメラニーの創造主です。娘であるメラニーが言うのですから、ある程度は勝ち目のある賭けなのでしょう。
「その賭け、乗ります。一緒に訊きに行きましょう」
「ん」
良かった。
わたしだけではとても抱えきれない難題でした。
一緒に取り組んでくれる仲間がいる。それも、同期で当事者でもあるメラニーが。
そのことだけで、わたしの不安は随分と楽になりました。
「あ、そうだ。メラニー」
「何」
「まぶた、何か塗ってますよね? 怪我でもしたんですか?」
緑色の瞳がぎろりと剥かれ、わたしを睨みました。
「……今更?」
「今更って、何がですか?」
人形は感染症とは無縁です。ものもらいや急性結膜炎などには罹りません。考えられるとしたら怪我です。でも青紫色の塗り薬なんてありましたっけ。
「怪我じゃない。ただのメイク」
「ああ、お化粧ですか」
これはとんだ勘違いをしたものです。
「でも、あれ……? メラニーってお化粧してましたっけ?」
「してた。ずっと」
「そうでしたっけ。でもどうしてお化粧なんかを? そのままでも可愛いじゃないですか。セイカ先生の傑作なんですし」
メラニーは憤然として立ち上がりました。
「……夜に、また」
言い捨てて、アイリスさんのもとへとのしのし歩いて行ってしまいました。ぎょっとしたラヴァさんが後じさりました。メラニーはアイリスさんとラヴァさんの間に入って、例の変てこなポーズを取り始めました。
わたし、何かまずいこと言いましたかね。
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