すっかり綺麗に整備された芝生は、真夏の日差しを浴びて黙々と光合成に励んでいました。
バンシュー先生と連れ立って歩道を行き、当院の中央、生産棟へと至りました。
わたしが胸元のクリップを取って認証を通すと、重厚な扉が音もなく左へスライドしました。無愛想な照明がパッパッと点灯しました。
バンシュー先生とわたしが入ると、すぐに扉が閉じました。
「もう少し歩くから、歴史のおさらいでもしておこうか」
「はあ。歴史ですか」
狭い棚と棚の間を抜け、階段に通じる扉の認証をパスします。
「最初に造られた人形は、六体の家政人形だった。自己組織化するネットワークシステムの端末としてね」
簡素な階段をゆっくりと降りていきます。あちこちにあるシャフトや歯車が、ごうんごうんと低く振動しています。
「人形網絡とは、その名の通り家政人形が相互に情報を融通するために構築したネットワークだ」
「はい」
バンシュー先生の背後について、とつとつと階段を降りていきます。
「最初の六体は、それはもう無愛想で無機的な存在だったそうだよ。けれど、よりヒトの役に立つために、相互に情報を融通して、自身の振る舞いを最適化していった。自己組織化を通じて、心を獲得し、感情を獲得した。ヒトに寄り添い、ヒトと生活を共にするためには、心や感情の獲得が必要不可欠だった」
人形がヒトの形を模しているのは、ヒトの生活空間に適応するため。
人形がヒトと同じような心を持っているのは、ヒトの心の機微を察して迅速かつ的確に己の仕事を遂行するため。
「こうして、最初の六体は設計通りに心や感情を獲得したわけだ。六体の阿頼耶識を共有する、という手段を採用することでね」
かくして、心の標準フレームワークの原型が生まれた。これを継承することで、家政人形を増やせるようになった。
「人形の数が増えるにつれ、ネットワークに蓄積される情報は膨大になっていった。もはやヒトの理解が及ばないほど複雑で、密結合なデータとファンクションの塊となった。人形の職能分化も進んで、あらゆる分野の知識が集積されるようになった」
「共有智ですね」
「その通り。ヒトは仕事を道具へアウトソーシングする生き物だ。人形の造形においても例外じゃない。使えるものは使う」
「それが、心の標準フレームワークですね」
「今日の君は随分と察しが良いね」
「まあ、このくらいは」
第一層を過ぎ、第二層へ。
「まとめよう。人形は、役に立つ情報を相互に融通する。イニシャルシックス・メンタルフレームワークは、こうして自然発生したというわけだ」
「つまり……ヒトが手ずから人形の心を造ったのではなくて、人形が情報を自己組織化していった結果、人形に心が生まれたっていうんですか?」
「そうだよ? 最初に人形を造った技術者たちは、おそらくそのことを見越していたのだろうけどね」
二層を通り過ぎ、三層へ。
当院に必要な物資を産生する化学工場、二大株に用があるという様子もなく、三層の出入り口に至ってなお、バンシュー先生はゆったりとした歩みを止めませんでした。
「さて。セイカ先生は、工学に秀でるツクバで学んだ人形造形技師だ。既存のメンタルフレームワークを利用しない人形造形の手法を考案した」
階段を下りていく途中、折り返しの踊り場で、バンシュー先生はふうと一息ついて手すりにもたれかかりました。運動不足です。
「人形造形の新たな手法を考案する、そこに特段の理由があったわけではないだろう。技術者とは、科学者とは、本来そういう生き物だ。けれど、発想が現実味を帯びてきたとき、それは一般社会において実装してはならないし、そもそも実装が困難だと知れた」
「……当院なら、実装が可能だった」
そういうこと、と言って、バンシュー先生は折り返しの階段を再び下り始めました。
「まず、考案者のセイカ先生と、僕が実装することにした。運用にあたって、一体だけでは妥当性が測れないからね。二体を造って、それぞれがどのように稼働するかを見極めることにした」
四層の出入り口。
化学工場の真下に位置する区画を隔てているのであろう、何の変哲もないコンクリート壁。
「ここが、その場所だよ」
わたしはバンシュー先生の隣に立って胸元のクリップを一本抜き、壁にかざしました。
何も起きませんでした。
もし扉があるのなら、何かしら反応があるはず。なのに、何も起きない。わたしたち看護人形や、メスキューくんたちにとっては、ここには何も存在しないことになっている。
バンシュー先生が軽く笑い、右の手のひらを壁にくっつけました。音もなく壁に小窓が開き、カメラがスッと出てバンシュー先生の両目を撮影しました。
偏向素材によって隠された不可視の装置に、五指の静脈認証、および眼底血管認証。
するりと壁が両脇にスライドし、暗い部屋がぽっかりと口を開けました。
バンシュー先生が足を踏み入れます。革靴の踵から鳴る音の反響は、広大な空間であることと、何かしらの構造物が無数に存在することを、わたしの耳へ伝えました。
「ここ、は……?」
背後で壁が閉まり、光が失われました。
暗闇の中、緑色のランプが無数に並んでいるのだと知れました。三段に並ぶランプ。わたしの胸くらいの高さ、わたしの腰くらいの高さ、わたしの膝くらいの高さ。光源にならないほどの、うっすらとした光輝。ところどころ、赤いランプも見えます。
「遅かったわね」
右横から、セイカ先生の声が届きました。
「おや、待ってくれていたのかい」
「どうせ説明するのはあたしでしょ」
わたしの左側、胸元あたりから、わずかな衣擦れの音。覚えのある気配でした。
「メラニー?」
「ん。いる」
パチリ、と指が鳴らされました。
暖色系の柔らかな照明が、ふわりと落ちました。
三段のランプが三段の棚になり、手前から奥へ伸びる姿を現しました。
わたしたちが目の当たりにしたのは、棚に安置されたものたち。
「――これ、は」
「――っ」
並び立つガラスの培養槽にたゆたう、無数の、首、首、首。
三段に並んだ棚にガラスの筒が並べられ、薄橙色の培養液に生首が浸かっていました。首からは無数のケーブルが伸びていました。目を閉じているものもあれば、うつろに開いているものもある。無表情のものもあれば、へらへらと笑っているものもある。
ヒトのそれと異なるのは、両耳の上あたりからハシゴ様のアンテナが伸び、頭頂部で結ばれているところ。
すなわち、人形の生首、です。
「説明するわね。これらは廃棄処分になった人形の頭部。当院で廃棄したものもあるし、青十字から搬入されたものもあるわ」
エーセブンさんの処遇を決める際、セイカ先生は言っていました。
水槽に沈めて良い夢を見させてあげる、と。
あれが脅し文句などではなく、事実を述べていただけだなんて。
「まさか、生きているんですか」
「何を以って生を定義するのか、議論するつもりはないわ。ニューロンが発火していることは認めるけれど」
言葉を失ってしまったわたしの代わりに、メラニーが尋ねてくれました。
「何のため?」
声には怒りが滲んでいました。使命を終えた人形は、壊してあげるべきです。無為に稼働させ続けられることほど、人形にとって苦痛なことはない。
「決まってるでしょ。あんたたちを造るため。ルネやピアジェを造るためよ」
「どういうこと」
順を追って説明するわね、とセイカ先生は前置いて。
「私はツクバにいた頃、人形の模倣脳が壊れる瞬間の挙動を研究していた。模倣脳の安定状態はよく研究されていたけど、発散状態に陥った模倣脳の研究は多くなかったからね」
模倣脳が発散状態に陥るということは、模倣脳を構成するニューロンがてんででたらめに発火しているということです。要するに、もう使い物にならない模倣脳ということ。研究に値する現象ではない、と判断されても仕方のないことでしょう。
「私が発見したのは、腹内側前頭前野に限られた秩序ある発火よ。模倣脳がノイズだらけになっても、腹内側前頭前野だけは最後まで秩序ある発火を保っていた」
腹内側前頭前野。主観的な情動体験を処理する、いわゆる『心』の根幹を担う部位です。
バンシュー先生が横槍を入れました。
「人形権利派が喜びそうな研究成果だよねえ」
鬱陶しい、という感情を隠さず、セイカ先生はふんと鼻息を吹きました。
「模倣脳全体は間違いなく機能不全に陥っているわけだから、人形権利派の期待なんて満たせないわ」
むしろ人間性復興派が激怒しそうです。いわば、人形がいまわの際に走馬灯を見ている、というお話なのですから。
「解析方法は割愛して、結論を述べるわ。どの個体も、壊れる瞬間、己に与えられた使命の成就を願っていたわ。未練、と言い換えてもいいかしら」
自然と、わたしはトニーくんのことを思い出していました。機能を停止するその瞬間まで、彼は友達のことを想っていました。良き学友であろうとしていました。
「この現象は、イニシャルシックス・メンタルフレームワークには規定されていないものよ。イニシャルシックス・メンタルフレームワークは、あくまで人形が目覚めるために必要なブートストラップローダ。願いとか未練とか、そういった抽象的な情報処理構造は、複雑系である模倣脳が創発する振る舞いであって、フレームワークで規定されたものではない」
セイカ先生が棚の間を歩き、ランプが赤色に点灯している水槽の前で立ち止まりました。セイカ先生がガラスの筒を優しく撫でると、ガラスの筒はさっと黒く染まりました。赤く灯っていたランプもスッと消えました。
お疲れ様、とセイカ先生がつぶやきました。
「……使命を果たしたいという情動、未練は、それぞれの個体に特有のもの。けれど、全ての人形に普遍的なもの。これらを末那識の形式に加工して、空っぽの人形に入力すれば、種子の薫習――つまり、意識と無意識の情報交換サイクルが回り始めるのではないか」
末那識。唯識論における『無意識』のうち、自己を定義し、自己に執着する働き。
「それが、当時の私が立てた仮説。当院で実証した方法論」
実証した。過去形。
すなわち、わたしとメラニー。
「わたしたちの心は、人形の未練から生まれたって、ことですか……?」
「ま、ロマンチックな言い方をするなら、そうね」
ロマンチック。セイカ先生によれば。
わたしは、グロテスクな印象しか抱けませんでした。
「イニシャルシックス・メンタルフレームワークは、人形たちが情報を融通する働きから自然発生した、人形を人形として稼働させるボトムアップ型の精神構造よ」
セイカ先生は、暗転したガラス筒をコツコツと中指の関節で叩きました。
「対して、あんたたちはトップダウン型の精神構造。かくあるべし。あるいは、こうありたかった。そういった情報群から抽出された、人形を人形として稼働させるエミュレータ」
だから、わたしたちは普通の人形が有する脆弱性を持たない。そもそも精神のルーツが違うから。
吐き気を覚えました。胃がぎゅっと縮んで、喉に何かがつかえました。
理屈としては、理解できます。
けれど。そんなの。
まるで、死者から魂を抜き出して、別の体に宿すかのようじゃないですか。わたしたちは、ここに並ぶ人形たちから生きながらに部品を取り出して継ぎ接ぎした、フランケンシュタインの怪物じゃないですか。
わたしの表情を見て取ったのか、セイカ先生が言ってくれました。
「生き死にの議論はしないと言ったけれど、あたしの見解だけ述べておくわ。これらの人形は、既に死んでいる。ここで保存している模倣脳は、あくまで最期の瞬間における模倣脳の発火状態を維持するための、データベースよ」
嘘です。わたしにだって分かります。
だって、セイカ先生は今しがた、停止した模倣脳に「お疲れ様」と言ったじゃないですか。
けれど、指摘はできませんでした。そんな野暮なことは言えませんでした。
「データベースがあるとはいえ。あんたたちを目覚めさせるのは簡単なことじゃなかったわ。人形は模倣脳だけで動くわけじゃないからね。鮮塊を操作して素体を造り、模倣脳に入力する。適切に目覚めなかったら廃棄する。それの繰り返しだったわ」
バンシュー先生が補足します。
「君たちの体がかなりアンバランスなのは、入力に合わせて素体を調整する必要があったからだよ。最低でも百体以上の入力を受け入れる必要があったからね」
特定の人形の性格傾向に依存しない人形を造るためには、多くの入力をすり合わせる必要があったのでしょう。情報が衝突して不動態に陥ってしまったら、やり直す。入力する情報と、入力される素体を入れ替えて、造り直す。その繰り返し。
「ルネとピアジェを製造できたのは、あんたたち二体を造って運用したことで、調整方法の目処が立ったから。幸い、あんたたちに比べれば、廃棄した素体の数は少なくて済んだわ」
セイカ先生もまた、バンシュー先生と同じなのだ、とわたしは思いました。
自らをひとでなしと呼んで蔑み、悪者ぶって振る舞う。
本当は、世界中の誰よりも、人形のことを愛しているのに。
人形を愛しているからこそ、造るべきではなかったと後悔しているのに。
「以上よ。あたしはもう、語るべき言葉を持たないわ」
わたしは、何と言っていいのか分かりませんでした。
わたしもメラニーも、水槽の中で最期の夢を見続ける人形たちの生首を前に、立ち尽くすことしかできませんでした。
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