エーセブンさんはどういうつもりかわたしの前へと歩み出ました。
五体の仮面は身じろぎ一つせず、じっとエーセブンさんの挙動を窺っていました。
「見事な手際であります。こうなってしまえば自分のあらゆる身分証明は役立たず。身分証明書とはすなわち、共同体における割り符でありますからな。照合する側に割り符の片割れが無ければ用を成さぬもの。青十字は実に良く分かっていらっしゃる」
両手を軽く上げ、肩をすくめて「やれやれ」のジェスチャー。
「名を奪われ、居場所を失い、関係性をすげ替えられ。さしずめ今の自分は、司書人形の七号を名乗る亡霊といったところでありますな」
わたしよりも小柄で非力な彼が、わたしの前に出てどうしようというのでしょう。
「されど。ルネ・デカルトはかく語りき。我思う故に我ありと。すなわち、自分は確かに存在するのであります」
制止されないことをいいことに、彼は朗々と弁舌を垂れます。いささかの怯えも警戒もありません。
「亡霊であろうと、自分はシェンツェン大図書館の司書人形。人類の営為を黙々と収集し、記録し、整理することこそが使命であります」
もはや逃れられない廃棄処分を目前にした思考の暴走?
あるいはこの場にいる者へ遺すメッセージ?
頼みの綱を失い、エーセブンさんの奇怪な言動に惑わされ、わたしは混乱の極みに叩き落とされていました。
わたしはまた、担当する患者さんを守れないのか。
わたしは、どう立ち回るのが最善なのか。
判断が白と黒の境をめまぐるしく反復横跳びしていたその時。
唐突に、エーセブンさんがわたしへ呼びかけました。
「さてハーロウ殿」
「はい」
脊髄反射的な返事でした。
「せんだって自分に約束してくださったことは、まだ生きておりますか?」
「約束?」
「貴殿は常に司書人形エーセブンの味方である。この約束は、未だ有効でありますか? 貴殿の上部組織、青十字の命令があろうとも?」
エリザベスさんの言葉が脳裏をよぎりました。
――連中が何を言おうと、何をしようと、どうかあなた様は常に人形の味方であり続けますよう。あなた様の誓いをお守りなさいますよう。
そうでした。
わたしは何があろうと、相手が誰であろうと、わたしの誓いを守るだけです。
先生に否定されようと、同僚の看護人形に味方がいなかろうと、わたしはわたしの誓いを守ります。
「はい。わたしは常にあなたの味方です」
「ではお頼み申し上げます」
言いつつ、エーセブンさんはなぜかジャケットを脱ぎ捨てました。薄手の白いドレスシャツが、華奢な胴体を覆っていました。
「この場から、この巨大人工浮島から、自分を逃がしてくださいますよう。自分の集積した知識を無に帰しませぬよう。手段は一切問わないのであります」
「――はいっ!」
向こう正面に立ち並ぶ五体の人形から、ぞっ、と青黒い気配が立ちのぼりました。
動く、とわたしが身構えようとした矢先のことでした。
「さあ、とくとご覧じあれ! 司書人形の七号、一世一代の大立ち回りであります!」
エーセブンさんが大音声で叫んだ瞬間。
ぼん、と小さな爆発が発生し、細い首のぐるりから煙が吹き出しました。
わたしの視線は上へ。エーセブンさんの頭部が宙を舞っていました。
冗談のような光景でした。
跳ね上がった頭部は角帽を失い、宙に弧を描き、わたしの胸元へと落ちてきました。
無我夢中でエーセブンさんの生首を抱え込んだ瞬間。
わたしの腕の中から、エーセブンさんの鋭い声が飛びました。
「そこな背中を蹴り飛ばす!」
わたしは言われるがまま、左足を前方へ送りつつ上体を引いて半身になり、右膝を曲げてぐいっと引き上げました。
「――しっ!」
首から上を失ったエーセブンさんの背中に、全身全霊で右足の踵を叩きつけました。
一般的な人形であれば背骨が砕けであろう威力の蹴り。弓なりになったエーセブンさんの胴体がすっ飛び、青十字の先頭へ覆い被さりました。
転瞬、蹴り飛ばした胴体が真っ赤に爆発四散。
猛烈な膨張圧がドレスシャツを千々に破り、循環液の真っ赤な霧が青十字の方々とわたしの間を隔てました。まるで循環液の煙幕です。
「ハッチへ、お早く」
再び腕の中から発せられたエーセブンさんの声。
わけもわからず、わたしは生首を抱えたまま反転。開きっぱなしのハッチへ飛び込みました。
緊張の極みにあったわたしの聴覚が鋭敏に捉えたのは、幾重にも重なった衣擦れの微かな音。
二ミリ秒にも満たない僅かな時間。嫌な予感がぐるんと脳髄を駆け巡りました。
視界が血煙で塞がれた状況。もし、わたしが追う側だったら?
そこへいるであろう位置へ、致命的部位を予測して攻撃します。手段は遠隔。投擲武器、悪くすれば銃。頭部は狙わない。標的が有する貴重な資源だから。
間、髪を入れず予感を行動へ転換。ハッチを閉めている余裕はありません。わたしは腓腹筋と大腿四頭筋を全力で縮め、自分の背丈と同じ高さまで跳躍しました。高密度ケイ酸カルシウムの骨がミシリと軋みましたが無視。
直後、ズドドドドッ、と五連続の鈍い着弾音。
着地。落下の勢いを反発力に変えて階段の三段目へ一歩で跳躍。全力で階段を駆け上がります。
抱えている生首から、なおものんきなエーセブンさんの声。
「鏢の投擲を視認しました。怖や怖やであります」
「鏢?」
「いわゆる暗器でありますな。両刃のナイフに長い布をくくりつけて投擲する武器であります。即効性の毒薬、あるいは筋弛緩薬などを仕込むのがセオリーであります」
ぞっとしました。
「そんなものを……」
彼らは隠し持ち、わたしに向けて投げた。
いかに彼らが本気だったか、改めて思い知らされました。
第三層まで駆け上がったところで運動の軸を縦から横へ。看護人形とメスキューくんたちには、わたしとエーセブンさんを捕縛するよう指示が下されているはず。のこのこと生産棟から出ていくわけにはいきません。
まずはでたらめに地下区画を走り回ります。各区画をジグザクに駆け抜け、ある時は階段を駆け上がり、あるときは二大株が収められた区画を素通りし、あるときは階段を駆け下り。視覚と聴覚を限界まで研ぎ澄ませ、メスキューくんや看護人形の気配を探りながら。
そうして、おそらくは敷地の中心から一キロメートル、南西に位置する第二層の区画でわたしはようやく足を止めました。
生活用品の備蓄庫でしょうか。間隔の狭い棚にポリカーボネート製の箱がぎっしりと収まり、それぞれ『病院着・大』とか『ボディーソープ・詰替』とかのラベルが貼られていました。
空いた棚にエーセブンさんの生首をひとまず置き、物資箱をいくつか引き抜いて地面へ置きます。即興の迷路を作り、非常口に向かう退路も確保したところでようやく一息つくことができました。
仮置きしていたエーセブンさんの首を持ち、わたしは物資箱に寄りかかって座りました。
「ふう……」
「ようやく一休みでありますか。看護人形はタフでありますな」
「もちろんです。看護人形は体力が資本ですか――」
そうじゃない。
エーセブンさんには言いたいことが山ほどあるのでした。
どうして首から上だけになっても喋ることができるのか、わたしの無茶な運動で動揺病になってはいないか、視覚と記憶に悪影響は無いのか。
色々ありましたが、まずは。
頭部だけのエーセブンさんをしっかりと両手で持ち、わたしに向き直らせました。
「なんて無茶をするんですか!」
「なはは。サイバネティクスの面目躍如であります」
生首がからからと笑います。喉にスピーカーを仕込んでいるのでしょう。口の形状や舌の動きで正確な『発音』を作れば、スピーカー特有の違和感を消すことができます。
セイカ先生は彼の義眼を見抜きましたが、声まで機械で生成されていたことまでは見抜けなかったようです。
「とはいえ。あれは一回こっきりのビックリドッキリ。これより先はハーロウ殿に委ねる他にありません」
「……はい。大丈夫です。それは、分かっています」
考えます。ここに留まっていてもじきに発見されてしまいます。かといって闇雲に逃げ回っても活路が開けるとは思えません。
「今のあなたに残された時間は?」
「この状態における定格稼働時間は二時間であります」
くそ。短い。たった二時間でできることなんて限られています。逃がすことはおろか、彼を存続させることさえ――
「ときに、自分が降下に利用したポッドは手つかずで残っておりますな?」
「え? はい、そうですけど、それが?」
「自分の予備義体が収納されております。自分の稼働時間が延長されることに加え、なけなしの運動性能も取り戻せるかと。さしあたり、目標に設定してはいかがでありますかな」
「あんな小さな筒に、本体とスペアの両方が入っていたんですか?」
高さ一メートル程度、直径も一メートル程度。小柄なエーセブンさんとはいえ、膝を抱えなければ入れないほどの容積しかないはずです。
「組み立てた状態で収納する必要は無いのでありますよ」
円筒の内側にバラバラの体が押し込められている様子を想像して、眉をひそめてしまいました。
「……分かりました。そうしましょう。たしか、体育館の裏手に置いてあるはずです」
気味の悪さは飲み下します。
手近にあった物資箱を漁ったところ、ベッド用のシーツを見つけました。半分に裂いて正方形の風呂敷にしました。風呂敷は結び方を工夫すれば色々な使い方ができるので重宝します。
シーツをまず半分の二等辺直角三角形に折り、長辺に属する二角を一つ結びで絞ります。絞った分だけ袋状の凹みができるので、エーセブンさんの首を置きます。あとは残った二つの直角を適度にねじり、真結びにすればショルダーバッグ代わりになります。
斜めがけにして、腰骨には当たらない程度に高さを調整。
「よし。居心地は悪いので我慢してくださいね」
「なあに、今までで一番の好待遇でありますよ」
「三半規管と視覚情報はカットしてください。酔いますから」
「了解であります」
いざ、と立ち上がった瞬間でした。
「ハーロウくーん、どっこいるのー?」
よりにもよって確保していた退路、非常口から甲高い子供のような声が近づいてきました。
今から迷路の壁を崩していては間に合いません。非常口を力尽くで押さえても、メスキューくんの出力なら簡単にこじ開けられてしまいます。
ではどうするか。
ジュリア看護長は、メスキューくんならわたしを見つけられると判断したのでしょう。
ですが、昔のわたしのままだと思ったら大間違いです。
わたしはあのエリザベスさんと正面からやり合ったのです。
誰かを出し抜く術を、少しは覚えました。
わたしは看護帽を脱ぎ捨てました。
ええ、いいでしょう。アンテナを見せることくらい、やってやりますとも。そもそも相手はメスキューくんです。見られて恥ずかしいと思うのがおかしいのです。と、自分に言い聞かせました。
じきに白い筐体がぎゅうぎゅう詰めの倉庫に現れ、下部に備えられた青いマルチセンサーがわたしの姿を捉えました。
「おー! やあやあ御用だ御用だ! 神妙にお縄につけい!」
誰が教えたんですかねあんな言葉。たぶんバンシュー先生だと思うんですよね。
「おん? ハーロウ……くん? だよね?」
看護帽を脱ぎ捨てたのは、メスキューくんの判断を一瞬だけ遅らせるため。彼が看護網絡へ報告が上げられずにいる隙に、わたしは堂々と嘘をつきました。
「いいえ、わたしはハーロウではありませんよ」
「嘘だあ。そりゃあ看護帽を脱いでるけど、一致率九十三パーセントでハーロウくんだよ」
「はい。わたしは嘘つきなんです。さて、わたしが嘘をついているなら、嘘つきだと白状したわたしは正直者ということになります。はてさて、わたしは嘘つきなんでしょうか? それとも正直者なんでしょうか?」
メスキューくんは筐体をくいっと傾げ、三本指のマニピュレータを腕組みするように重ねました。
「えっと……? ハーロウくんは嘘をついているけど、嘘つきだと白状したから正直者? あれ? でも嘘つきなんだよね? うん?」
メスキューくんの模倣人格は複雑かつ高度ではありますが、基本はコンピュータプログラムによる『弱い人工知能』です。自己言及のパラドックスを提示されると、一時的ではありますが思考が無限ループに陥ります。
「エーセブンさん」
「は。何でありますか?」
「工学にお詳しいようですが、この医療物資補給ユニットを乗っ取れますか?」
「困難でありますな。元々はツクバの軍需品運搬ユニットであります。かの技術者集団が製作する機械制御系オペレーションシステムの堅牢さは随一。手を入れたパサデナがうっかりをやらかしている可能性は無くもありませんが、今すぐというわけにはまいりませんな」
「そうですか……つい最近、乗っ取られていたようなので可能だと思ったんですが……」
となると、メスキューくんが思考ループから脱出する前にこの場から立ち去らなければいけません。なるべく遠くに、かつエーセブンさんの義体が収められたポッドに近い――
「むむ? お待ちを。前例があるなら話は別であります。乗っ取りを果たしたのはどこの誰でありますか?」
「家政人形のエリザベスさんというお方でして。メスキューくんを乗っ取って看護網絡のノードになりすましていた可能性が高いんです」
「なんと。かの主無しが、こちらに?」
「はい。まあ」
そんなに有名なんですかあのメイド。
「ならば自分は専門として取り組み――いや……おや……?」
「どうしたんですか?」
「はあ……その、見つけました」
「何をですか?」
甲高い子供の声が、風呂敷で作ったショルダーバッグではなく、真っ白な筐体から発せられました。
「バックドアであります。既にこちら、M41の管理者権限を取得した次第」
まさにメスキューくんの声でした。
「……え? もう?」
「で、あります。ご丁寧に『こちらでございます』とタグが貼られている始末」
「あんのトンデモメイド‼」
何てものを残してくれやがるんですか! いや助かりましたけど!
ドアは! 開けたら! 閉めてください!
「……看護網絡を盗聴できるはずです。この子の現在地を偽装しつつ、包囲の網を抜けましょう」
メスキューくんの姿をしたエーセブンさんがマニピュレータを持ち上げて敬礼しました。
「承知であります。余計なお節介を承知で申し上げますが、セキュリティホールの有無はこまめに点検なさるよう」
エリザベスさんが退所してまだ一週間。メスキューくんの定期検査は実施されていません。
「機会があったら先生方の誰かに伝えておきます……」
言いつつ、わたしはメスキューくんの筐体前面カバーを開き、エーセブンさんを収納しました。隙間には物資箱から抜き取ったシーツを詰めておきます。
「ぬはは。まさかツクバの機械を操縦できる日が来ようとは。人生、何があるか分からないものでありますな」
メスキューくんの筐体を器用に操り、エーセブンさんはご機嫌な様子。あなた、あと二時間も保たないって言ってましたよね?
「新鮮な体験でしょうけれど、くれぐれも視覚野と記憶野に負荷をかけないでくださいね」
「難しい相談でありますなあ。おお、これは島内マップ。ささ、こちらであります。いや、こっちだよ、ハーロウくん、でありますかな?」
どこまでも根明な言動にはもはや呆れてしまいますが、彼がメスキューくんの姿で先行してくれれば逃走はとても楽になります。
「体育館に向かいましょう。そこの裏手にポッドがあるはずです」
まだまだ、これからです。
わたしに託された患者さんが自身の安全を望むなら、わたしはどんな手を使ってでも応えてみせます。
たった一体の患者さんであろうと、わたしはわたしの全てを捧げると誓ったのですから。
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