わたしが、エリザベスさんのお嬢様になる?
エリザベスさんが、わたしの持ち主? 人形が人形の持ち主?
「……あの。意味が分かりません」
にたりと笑っていたエリザベスさんが、すっと表情を無に戻しました。
「失敬。わたくしとしたことが、ちゃっかりしておりました」
うっかりでは。
「わたくし、ドクター・バンシューより、課題としてハーロウ様の身の回りのお世話を言いつかっておりました。リハビリ、でございます」
「ああ……」
最近になってエリザベスさんが保護室に出入りするようになった理由が、ようやく分かりました。
エリザベスさんは家政人形。持ち主の身の回りのお世話をすることがお仕事です。世界で最も普及している人形、それが家政人形です。
「……でも、どうしてわたしなんですか」
わたしなんかより、適切な対象がいるでしょうに。当院に務める四人の先生、あるいはもっと日常に近しい人形の方が、エリザベスさんのリハビリに役立つはずです。
「ハーロウ様がうってつけでございましたから」
「どこが、ですか」
こんな、何の役にも立たないごくつぶしが、万能を自称する人形さんのお役に立てるはずがありません。
「色々でございます。ユニークな機能。自己評価の異常な低さ。基本的には甲斐性無し。だというのに献身的なご性格。何より、解くべき問題の捉え方あたりが特に適任でございます」
よく、分かりません。
考えることに疲れて、わたしは壁に立てかけた枕に体重を預けて目を閉じました。
このまま、また気だるい疲労感と共に休眠に落ちて――
不意に。ぎゅるり、とお腹が鳴りました。心臓が早鐘を打ち、循環液が全身をざあっと巡る音が鼓膜にまで届いてきました。
「あ、れ……」
「ようやく効いてまいりましたか」
わたしの語彙、持ち合わせているあらゆる言葉が乱舞して、結合と分解を猛烈な勢いで繰り返しました。辞書をばらばらに裁断してばらまいたかのようでした。
目を開けば、目の奥に痛みを覚えるほど視界の解像度が冴えていました。床に落ちた化学繊維の一筋がはっきりと認識できました。
思い当たるのは、先ほど経口補液と一緒に飲まされたカプセル。
「わたし、に……何を、飲ませたんですか……⁉」
「向精神薬のダーリントン、およびごくわずかな初期化済微細機械でございます」
「ばっ……⁉」
馬鹿なんですかこのメイド⁉ そんなものを断りもなくしれっと飲ませただなんて!
「念のためお断りいたしますが、ドクター・バンシューの処方でございます」
全身が飢餓状態にある人形へ初期化済微細機械を投与すると、真っ先に消化器系が修復されます。栄養素を取り込まないことには、活動を再開できないからです。
ダーリントンは人形向けに製造された精神刺激薬の一つ。強い覚醒作用と興奮作用をもたらします。
結果、どうなるか。
「気分など、しょせん生化学的トリックがもたらす虚像に過ぎません。さて、本日の昼餉はいかがなさいますか、ハーロウ様」
消化管が蠕動して、激痛を伴う空腹感がわたしを襲いました。
食べたい。
食べたい。
食べたい!
食べたい食べたい食べたい食べたい――‼
空腹は、わたしの怒りをかきたてました。
どこにそんな体力が眠っていたのか。わたしは枕を片手に持ってベッドから飛び降りました。
「あら。お立ちになられましたね」
腕を振り抜き、エリザベスさんの顔面めがけて枕を叩きつけました。ひょいと避けられ、掌底で鋭く肘の内側を打たれました。手が痺れ、解放された枕がすっ飛んで引き戸へぶつかりました。
とうとう体力を使い果たしたわたしは、その場にへたりこんでしまいました。
「かえ……して……!」
わたしの心が、怒気と空腹感で満たされることが、我慢なりませんでした。
たかが空腹感なんてもので、わたしの思考リソースが食い尽くされるなんて!
たかが向精神薬なんてもので、わたしの感情が左右されるなんて!
「返して……! 返してください! わたし……の!」
「そもそも存在していないものをお返しすることはいたしかねます」
「返しっ……げほっ、う、げ……ほっ……がえ、して! 返して、ください!」
喉が猛烈に渇いて、粘ついて、わたしは咳き込みながらわめきました。
エリザベスさんの低く冷淡な声音が、わたしの背筋を逆撫でします。
「あなた様が何を『返して』とおっしゃるのか、その正体を言い当ててさしあげましょう」
あくまで淡々と、無造作に、エリザベスさんはわたしの急所へ深々と刃を突き立てました。
「アンソニー様が幸福だった物語。イリーナ様が幸福だった物語。ガラティア様が幸福だった物語。あなた様が甘んじていらっしゃるものの正体は、そんな物語でございます」
「……っ!」
わたしはへたりこんだまま、言い返せませんでした。
「ええ、ええ。そう在ってほしかった想像上のアンソニー様とお戯れになる時間は、さぞ甘やかだったことでございましょうね。アンソニー様を失った瞬間の記憶もまた、さぞ甘やかだったことでございましょうね」
「何ですって……!」
精神刺激薬の作用で興奮していると分かっていても、わたしは激情を抑えることができませんでした。見上げれば、エリザベスさんは灰色の瞳でわたしを冷徹に見下ろしていました。
「何も……何も、何も! 何もあなたは知らないくせに!」
「当然のことをさも特別であるかのようにおっしゃる。あなた様のお気持ちなど存じあげませんとも。わたくしはハーロウ様ではございませんから。介入共感機関とやらも持ち合わせておりません。他者の心を真に把握できる者など、世界中のどこにも存在いたしません」
息継ぎのついでに、エリザベスさんは肩をすくめました。
「ですが、長く生きていれば否応なしに様々な人々を見るもの。あなた様のようなお方は、胸焼けがするほど拝見いたしました」
「あなたに、わたしの何が分かるって言うんですか!」
エリザベスさんは軽く顎を引いて目を閉じ、わたしの気炎を受け流しました。
「ハーロウ様はご自身の問題と世界の問題を一緒くたになさっていらっしゃいます」
わけが、分からない、はずなのに。
水を含ませた滅菌ガーゼが詰まったかのように、喉から声が出なくなりました。
自分の問題と、世界の問題を、混同している。
幾度となく繰り返しても一向に解を導出できなかったわたしの思考に、何かしらの重大なヒントが割り込んだような。
「……それが、何なんですか。何だっていうんですか」
「ご自身の問題と世界の問題を一緒くたになさっていらっしゃった方々は、例外なく同じ末路をお辿りになりました」
「末、路?」
「はい。ありていに申し上げれば、絶望、でございます」
エリザベスさんが言外にわたしを含めていることくらいは、わたしにも分かります。
「さもありなん。世界など、個人、個体では荷が勝ちすぎます。さしずめ蟷螂の斧。一匹のカマキリがバッファローの大移動に立ち向かったといたしましょう。その志はまさに英雄。されどその光景はまさに絶望。ぷちっ、てな具合でございます」
へたりこんだわたしの入院着の裾を、エリザベスさんは革靴の踵でトンと踏みました。
「誰も彼も、どなたもこなたも、飽きもせず簡単に絶望いたします」
「よくも、簡単だなん――」
言い返そうとした、その機先を制されました。
「繰り返しますが。ハーロウ様の苦悩が下らないとは申しません。ですが――」
エリザベスさんはエプロンの隠しポケットから、またもやカプセルを取り出しました。
青いカプセルと赤いカプセル。
「苦悩も絶望も、強い依存性を有する甘美な神経毒でございます。今のあなた様がダーリントンの服用によって興奮なさっているのと、本質的には同じこと。己の心でさえ、意のままにはなりません」
あの青いカプセルは鎮静薬。中枢における神経伝達を阻害し、興奮を抑えるお薬です。
あの赤いカプセルは精神刺激薬。先ほどわたしが服用させられたダーリントン。
「冷静な者が常に過たず判断を下せる、とは申しません。ですが、冷静を欠いた者が正しい判断を下した試しもまた、ございません」
「わたしが、間違っているって言うんですか」
「より良い解を得られる可能性があるのではないでしょうか、と申し上げております。少なくとも、絶望は比較的簡単であり、かつ依存性の高い局所的最適解でございます」
エリザベスさんは、わたしを立ち直らせたいのでしょう。
でも、わたしはもう、立ち直るべきではないはずです。
ずっと、ずっと考えて、何度も同じ結論に至ったのですから。
「……何を言っても、わたしが、人形に仇成すものであることに変わりはありません。わたしは、取り返しのつかない間違いを犯し続けてきたんですから」
ぎゅっと握ろうとした拳には、まるで力が入りませんでした。奥歯を噛もうにも、顎にさえ力がこもりませんでした。
「間違いを犯し続けた、とおっしゃいましたか?」
「……はい。トニーくんだけじゃないんです。ガラティアさんのことも、イリーナさんのことも、わたしがもっとちゃんとしていれば。もっと良い結末があったはずなんです。わたしが関わったら、患者さんはみんな不幸になるんです」
エリザベスさんは目を細め、眉根を寄せました。
「みんな、不幸に? よもや……ハーロウ様はマヒトツ様のことをお忘れでいらっしゃるのですか?」
思いもしない名前を耳にして、わたしは首をかしげてしまいました。
「マヒトツ、さん……?」
「あらまあ。本当にお忘れでいらっしゃるとは。薄情者でいらっしゃいますね」
「お、覚えてます! ただ……」
「ただ?」
「……ちゃんと考えたこと、ありませんでした」
エリザベスさんはまたもや嘆息を一つ。
「ツァイガルニク効果。ヒトも人形も、失敗したこと、やりかけのことを、より強く覚えるもの。まあ生存戦略としては妥当な認知バイアスでございますが。看護人形のあなた様ならご存じでしょうに」
「う……」
必死に言い訳を探しました。
結局、言い訳にさえならない言葉で逃げを打つはめになりました。
「……知っていても知らないうちに陥るから、認知バイアスと言います」
「左様でございますね。ハーロウ様はとても物知りでいらっしゃる」
皮肉ですよね。
「さておき、マヒトツ様でございます。あれなるは人類の至宝。万能のわたくしではとうてい及ばぬ超一流。科学と芸術の両極を修め、なおも高みを探る真の求道者。人類が決して失ってはならぬ存在でございました。決して、でございます」
意外でした。口を開けば毒舌と皮肉と揚げ足取りばかりのエリザベスさんが、手放しで誰かを褒めるだなんて。ご本人に直接言えばよかったのに。
「マヒトツ様が再び刀を打てるようになったのは、ハーロウ様の献身があってこそ。ハーロウ様でなくてはなりませんでした。他の何者にも成し得なかった偉業、でございます」
わたしまで褒められてしまったようです。
でも、エリザベスさんの褒め言葉は過剰です。事実ではありません。
「立ち直ったのは、マヒトツさんです。わたしはただ、マヒトツさんが……悲しんでるって知って、寂しそうだったから。何かしてあげられればって思って。でも、結局はマヒトツさんの凄さを、見ている世界の違いを思い知らされただけで。だから、結局のところわたしは何もできなかったんです。うまくいきましたけど、たまたまです。運が良かった、それだけです」
「ご謙遜も過ぎれば傲慢。すなわち卑下慢、でございます。もっとも、あなた様は心の底からご自身が取るに足らない存在であるとお考えのようでございますが」
「だって、わたしはただの看護人形です」
エリザベスさんは目と目の間をぐりぐりと揉みました。
「わたくし、驚きました。極東の技術者集団、ツクバを小馬鹿になさるとは。ただの看護人形に直せるものを、お前たちは直せないのかと。ハーロウ様はそうおっしゃるのですね」
「う……」
これまた揚げ足取りの皮肉。
最初にマヒトツさんの不調を調べたのが、工学において世界をリードする技術者集団のツクバでした。ツクバでは原因が分からず、マヒトツさんは当院へ来所なさいました。
「あれらは人間性を学究に捧げた変態ではございますが、先鋭の技術者集団でもございます。そのような技術者集団でさえ成し得なかったことを、ハーロウ様は実現なさった。これは動かぬ事実でございます」
わたしの認識とは違う事実。
確かに、わたしはマヒトツさんの鍛冶に協力しました。結果としてマヒトツさんは刀を打てるようになり、当院から退所なさいました。
でも実際は、わたしは身の程を知らずにダイダラの代わりになると言って、介入共感機関を濫用しただけです。わたしは、マヒトツさんが見ている世界とわたしが見ている世界の違いに圧倒され、がむしゃらに鉄を打ち続けただけでした。
完成した刀もどきも、試し斬りでぽっきりと折れてしまいました。
そんな体たらくだったのに、ツクバの方々がどうの、人類の至宝がどうの、ということなんて言われても実感が湧きません。
今だって、そうです。わたしはぽっきりと折れてしまった人形もどきです。
と。
エリザベスさんは何度目かの溜息をつき、かがみました。
「お立ち上がりなさい、ハーロウ様」
エリザベスさんがわたしの両脇に手を入れ、強引に立たせました。
灰色の瞳が、わたしの琥珀色の瞳をまっすぐに見つめました。
「わたくしどもは道具でございます」
「……急に、何ですか」
「道具でございます」
「分かってます」
「いいえ。お分かりになっていらっしゃいません。存在するだけで存在を認められるのは、人間様だけでございます。人形は、心があるだけの道具でございます。利用価値がある限り直され、使われる存在。利用価値を失えば、廃棄される存在」
それは、そうです。
理由なく存在を認められるのが、ヒト。
利用価値があるからこそ存在を許されるものが、人形。わたしたち人形は、利用されることが誇りであり、廃棄されることもまた誇りです。
「……こんなわたしに、まだ利用価値があるっていうんですか」
「そうでなければ一ヶ月も生きながらえさせたりはいたしません」
エリザベスさんはきっぱりと、心強さを感じさせる声音で断言しました。
心がぐらぐらと揺れました。
わたしは、存在すべき。エリザベスさんの主張。
わたしは、廃棄されるべき。わたしの主張。
「フムン。大変結構。揺れていらっしゃいますね」
エリザベスさんは、立たせていたわたしをベッドへ寝かせました。背中と膝の裏にしっかり手を回し、お尻を軸にして回転させる、お手本のような寝かせ方でした。
体は疲れ切っているのに、ダーリントンの作用で意識だけははっきりしています。
「わたしに……どうしろって言うんですか」
「まずは、ごゆっくりお休みくださいませ。ダーリントンの離脱症状で落ちますので、お気構えもなさいませ」
「わたしはもう、ずっと休んでます」
「いいえ。あなた様はやはり、長らくお休みになっていらっしゃいません。先日も申し上げましたのに。ですので、ごゆっくりお休みくださいませ。本日こそは、あなたのご意思で」
また、見解の相違。
エリザベスさんとわたしとで、いったい何が違うのでしょう。同じ人形なのに。
いつでも自信満々であることを差し引いても――
ぎゅるる。ぐるぐる。
活性化したわたしの消化器系が蠕動して、栄養素をよこせと訴えました。
「お体は正直でございますね」
「……セクハラです」
「お嬢様となって頂くのは三日後にいたしましょう。まずはお体の修復に専念なさいませ。初期化済微細機械のペーストをお持ちします」
エリザベスさんがぱちりと指を鳴らしました。
「メスキュー」
「あいあいサー?」
引き戸の向こうで待機していたのでしょう。すぐにメスキューくんが現れました。
「ハーロウ様にお食事をお持ちいたします。留守にいたしますので、緊急時にはメラニー様にアラートをお願いいたします」
「あいあいマム」
ぽっちゃりしたマニピュレータで敬礼するメスキューくんを置いて、エリザベスさんは保護室を後にしました。
具体的にどうすればいいのかわたしが考え始めたところ、図ったかのようにエリザベスさんが戻り、引き戸を小さく開けて顔だけを覗かせました。
「失敬。一点、お伝えしそこねておりました。おつむだけでお考えになるのはお止しなさいませ。人形はお体も動かさねばなりませんよ、ハーロウ様」
「あ……は、い……」
変形する物体の形状や構造を解とみなす計算手法。人形が解を得るために利用するのは、模倣脳だけではありません。身体の形状や動作も、解を導く演算器として利用するのでした。
より良い解を得るためには、体を動かさなければならない。
そんなことさえ、わたしは忘れていました。
とはいえ。
まさか三日後に、ベースボールにおける一流選手レベルの投球術を要求されるだなんて、予想だにしませんでしたが。
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