翌朝、レーシュン先生が回診に訪れていた時のことでした。
いつものようにトニーくんの上を脱がせて各部を触診し、反射と運動機能の確認を終えた後。だしぬけに、先生が問いかけました。
「眠いだろう、トニー」
トニーくんはもじもじと身を縮め、頷きました。
「……うん。じつはねむいんだ」
「眠りな。無理に起きることはない」
「うん。おやすみ」
にこ、と笑い、そのままぱったりとベッドに伏してしまいました。
「トニーくん⁉」
色を失ってベッドへかじりつこうとしたわたしの袖を、先生が捕まえました。
「慌てるんじゃないよ。休眠に入っただけだ」
「どうしてそんな急に……」
まだ午前十時にもなっていません。
「別段、急ではないさ。休眠の頻度が増えていたろう。このところ、常に眠かったはずだ」
「わたしが、無理をさせていたんですか」
「いいや。学友人形はそういうものだ。友人がいれば共に学び、共に遊びたがる。だが――」
一旦言葉を切り、先生は背伸びをしてから眉間を揉みました。
「――起きていれば、それだけ感じ方の統合に失敗し続け、模倣脳に負荷がかかり続ける。なるべく眠らせてやりな。お前さんは点滴の準備を。戻るまでは私が看ておく」
点滴。もはやトニーくんは、食事さえ困難ということです。
「それは、つまり――」
「ああ。潮時だ」
できることは、もうないのだと。
このまま静かに看取ることしかできないのだと。
先生は、そう言ったのです。
以来、トニーくんはほとんど目を覚まさなくなってしまいました。
目を覚ますのは、一日に三度もあれば多い方。わたしはずっとベッド脇に待機して、飲まず食わずで付き添いました。食べたり飲んだりすれば、排泄に立つ頻度が多くなりますから。
目を覚ますと、トニーくんは青灰色の瞳をさまよわせてわたしの顔を探し、にっこりと微笑みかけます。心から機嫌が良いのか、それとも養育者に相当するわたしに気に入られるための笑顔なのか。あるいは、どちらでもあるのか。
わたしも微笑みかけ、小さな手をさすってあげます。
それも、ごく数分間のこと。青灰色の瞳は、まぶたで隠されてしまいます。
まるで、授乳の時以外は眠り続ける新生児のように。
自力で排泄に立つこともできないので、使い捨てのおむつを履いてもらいました。
わたしは手元のバインダーにトニーくんの僅かな挙動を細かく記し、レーシュン先生が訪れるたびに状態を共有するようになりました。
先生が回診に訪れるのは、他の患者さんを全員診てから。トニーくんはもはや問診に答えられず、自発的な運動もできないので、先生は時間をかけて丁寧に状態を診てくださいます。
身体各部の触診、わたしの介助を伴う手足の曲げ伸ばしから得られる僅かな姿勢反射、瞳孔にペンライトをかざした際の対光反射。最後に、唯一の自発的な運動である寝返りを確認するまで、先生はじっと待ち続けます。
回診だけでなく、先生は何かにつけて病室を訪れ、トニーくんの経過をわたしと一緒に見守ってくださいました。
まどろみの時間も、長くは続きませんでした。
トニーくんが点滴に繋がれ、眠り姫ならぬ眠り王子となって三日後。
回診の時間。
レーシュン先生はいつものように丁寧に触診を実施し、反射を確認しました。
ついに首を横に振り、乾いたしわがれ声で告げました。
「仕舞いだ。これ以上得られるものはない。ハーロウ。お前さんは次の割り当てが決まるまで待機しな。現時点をもって個体識別名アンソニーは終了フェーズに移行。自然停止を待つ」
終了。イリーナさんのように。
わたしはまた、患者さんに何一つ貢献できないまま終わってしまう。ガラティアさんのように。
「……嫌です。まだ、一つだけできることが残っています」
「やめておけ」
「お願いです。再構築するとまでは言いません。何一つ取りこぼしたくないんです」
一等人形造型技師のレーシュン先生をして直せないと言わしめた物事を、一介の看護人形が今更どうにかできるとは思っていません。
ただせめて、トニーくんが最期まで表に出さなかった苦痛、苦悩くらいは拾ってあげなければ。わたしに搭載された介入共感機関などというろくでもない機能が役に立つのは、今このような時を除いて他に無いのですから。
「やめておけと言っている。後悔する」
「やってみなければ分かりません!」
「そういう意味ではない……が、言って分かるものでもないか」
先生は眉間をぐりぐりと親指で揉んでから、わずかに疲弊感が滲む声で言いました。
「よかろう。お前さんの判断を尊重する。こちらは共感サージに備えておく」
「ありがとうございます」
片膝を突いて、トニーくんの横顔まで視点の高さを下げました。
非常時につき、対象の同意を得る過程は省略します。
本当は、介入共感機関なんて使いたくありません。使うにしても、彼の同意を得たかった。いくら救うためとはいえ、わたしがこれから解き放つのは、銃よりも暴力的な解析機関だから。
わたしは自身の誓いを囁き声で復唱します。
「わたしは、常に、人形の味方である。それが毒あるもの、害あるものであろうと……わたしは、その全てを、肯定する」
トニーくんは、ずっとその在り方を否定され続けてきました。
主義主張な方々に振り回されて。壊れたから当院に搬送されて。一等人形造型技師をして快復の見込みが無いと断じられて。今まさに看取られようとしていて。
直らないから、直せないから、壊してあげればよかった?
嫌です。そんなの、あんまりじゃないですか。
「……わたしの使命は、観察、理解、共感」
ずっと観察していました。十数日とはいえ寝食を共にして、理解に努めたつもりです。
けれどわたしはついにトニーくんを理解しきれず、欠片も共感に至らず、介入共感機関の拘束解除という最後の手段に訴えています。
わたしはあまりに無力で、役立たずで。
壊すしかないのなら、壊れるのを待つしかないのなら、せめて何か一つでも拾い上げてあげないと、トニーくんが報われないじゃないですか。
「わたしは使命に忠実であり、わたしに託された人形の、幸福のため、に、わたしっ、の……全てをっ、捧げるっ……!」
声帯が震えて、横隔膜が痙攣して、呼気と吸気が小刻みに不規則に喉を行き来します。
むりやり大きく息を吸って、痙攣する横隔膜を押さえつけました。
最後の一言くらいは、滑らかに告げてあげたい。
「いつか、ここから飛び立つ日のために」
患者さんが、いつか止まり木の療養所から飛び立つこと。わたしが望むことは、ただそれだけです。
ばつん、と意識のブレーカーが落ちました。わたしは脱力感と共に全身の感覚を喪失して、トニーくんの精神を丸ごと飲み込みました。
***
トニーくんに同化したわたしが最初に感じたのは、光と温もりでした。
どこまでも明るく、体の芯まで温かな世界。
明るさに目が慣れたとき、わたしの眼前には花畑が広がっていました。
付け根にほんのり青紫を帯びた、五枚の細く儚げな白い花弁。花弁に比べて茎は太めで、円みを帯びた濃い緑の葉が互い違いにくっついています。
一面、果てまで続く緑の絨毯と、刺繍めいた無数の花弁。
草原には何本もの道がぐねぐねと張り巡らされていて、何体ものトニーくんが歓声を上げながら遊んでいました。花と戯れながら、決して花を踏み散らしたりしないように。
「これ、が……トニーくんの、心象風景……?」
駆け回る何体ものトニーくんは、誰もが陽気に笑っていました。追いかけっこをしていたり、白い花を指先でそっと愛でていたり、甲高い笑い声を上げてお喋りをしていたり。
遠くには、広く枝を伸ばした大きな樹。吊り下げられたブランコで遊ぶトニーくん。ロープを頼りに木登りに挑んでいるトニーくん。車座になって本を開き、どうやら自習に励んでいるらしいトニーくんたち。
隅々まで、健やかで牧歌的な世界。
苦痛に打ちのめされることを覚悟していたわたしは、肩すかしを食らってしまいました。
「そんな、はず……」
だって。
昨日までできていたはずのことができなくなって、不安を覚えていたはずです。
意思疎通がうまくいかず、不快を覚えていたはずです。
誰かから怒気をぶつけられて、悲しみを覚えていたはずです。
不自然なまでの笑顔で、それをひた隠していたはずです。
なのに。
そこかしこにいるトニーくんたちはみんな、笑っています。
介入共感機関は、人形の心を丸裸にするもの。
介入共感機関はわたしに嘘を見せません。人形は介入共感機関を欺けません。
だから、わたしが体感しているこの幸せな世界は――
呆然として立ち尽くしていたわたしに、随分と大人びた、けれどトニーくんのそれと知れる声がかけられました。
「おや、おきゃくさまだ。こんにちは。あえてうれしいよ」
声の主へ視線を落としたところ、郵便人形の格好をしたトニーくんがとことこと歩み寄ってくるところでした。ぱっちりした青灰色の瞳と視線が交わり、彼は「やあ」と片手を挙げました。
わたしの眼前で立ち止まり、メールバッグから封書を取り出しました。
「おきゃくさま。これを」
「あ、はい……」
何気なく差し出された封書。わたしもまた、何気なく受け取ってしまいました。
「それでは」
郵便人形のトニーくんは帽子のつばに手をかけてわたしへ会釈し、またとことこと歩き、去ってしまいました。
手の中に残った封書へ視線を落とします。
表には、きっちりした筆致で「きみへ」とだけ、書かれていました。
裏には、ちょっと崩した筆致で「アンソニーより」と書かれていました。
ダイヤ貼りの封筒のフラップは、先端だけが五芒星型のシールで留められていました。
フラップの縁に震える指を差し入れ、シールを破って開きました。
二枚の薄い便せんが、三つ折りになって入っていました。
取り出して開くと、便せんが触れ合ってかさりと音を立てました。手触りは滑らか、ほんの少しだけ指先に摩擦を覚える程度。
便せんには、丁寧な筆致で文章が綴られていました。
目が文字を追う速さに合わせて、便せんが、トニーくんのあどけない声で喋り始めました。
やあ、君。この手紙を受け取ってくれた、優しい君。
僕、君の名前は知らないけれど、名前はあんまり大事じゃない。
君はきっと、僕の最後の友達だ。
だって、こんな所まで来て、手紙を受け取ってくれたんだもの。
それが大事なことなんだ。
最初に言うね。
僕はじきに、僕を無くしてしまう。
たぶん、体を何度か交換されたんだと思う。
僕の体が、僕のものじゃないみたいなんだ。
現実感が無くて、夢みたい。
見えるもの、聞こえるもの、触るもの、体の動き、色々、ふわふわしてる。
僕はたぶん、ゆっくり消えてっちゃう。
だからちゃんと言葉にして、何度も何度も思い出して、言葉で覚えておくことにした。
僕は毎年思い出を無くしてしまうけど、言葉だけは覚えているって気づいていたんだ。
そうしたら、さ。僕が僕を無くしてしまっても、誰かが僕の言葉を見つけてくれるかもしれない。
君は、見つけてくれたんだね。
自覚していた。
愕然とします。
トニーくんは、わたしが想像していたより遙かに聡明でした。
自身が解析される可能性を考慮して、リセットされない意味記憶に手紙を残した。
つまり、発症の最初期に自身の状態を正確に把握して、将来の自分がどうなるかを的確に予測して、自分に何ができるかを適切に判断したのです。
一枚目の便せんを読み終えたわたしは、面を上げて草原を見渡しました。
何体ものトニーくんは、わたしに興味を示しません。
郵便人形を使って届ける手紙は、「あなたのために手間をかけましたよ」という親愛の情を言外に込めるためのものです。
であれば、トニーくんは郵便人形の格好をした自分を特別に用意したのでしょうか。意味記憶と辞書で構築した、『弱い人工知能』のようなものを。
一枚目の便せんを裏へと送り、二枚目の便せんに視線を落としました。
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