わたしとメラニーはメスキューくんを一機同伴して、開放病棟から屋外へと出ました。
普段から当院の夜は静謐ですが、今晩は特に静かに感じられました。
「で、どうするの」
イリーナさんは急激な体の膨張に皮膚の伸長が間に合わず、ところどころ出血していたはずです。
「血痕があるはずです。メスキューくん、紫外線ライトを」
「りょーかーい」
人形の循環液も紫外線を照射すると光ります。
いざ血痕を追おうとした、そのときでした。
メスキューくんのアラートが看護網絡に飛び込んできました。同伴しているメスキューくんとは違う個体です。
M12:わーにんわーにん。だれかー? おへんじー?
ハーロウ:何事ですか。
M12:あ、繋がった。イリーナさんっぽい人形が生産棟に入ったよ。良いのかなあ?
ハーロウ:良いわけありません。いつ、どうやって入ったんですか?
M12:十五分前、普通にドアから。
生産棟への立ち入り許可は、ごく一部の看護人形に限られています。
メラニーが苦い声で呟きました。
「ラカン先輩の鍵」
「はい、おそらく」
施錠システムは電子ロック式。認証キーは、看護服の襟元を留めているクリップです。秘密鍵を格納している集積回路と電磁誘導回路が組みこまれており、非接触型の認証キーとして機能します。当院に長くいらっしゃる方なら、知っていてもおかしくありません。
精鋭揃いの看護D班、ラカン先輩ならアクセス権を持っていたはず。
イリーナさんがラカン先輩を計算資源化した時に、奪っておいたのでしょう。わたしたちと対面したとき、二大株の必要性を認識していらっしゃいましたから。
「ハーロウ」
「はい。急ぎましょう」
当院で最も巨大な構造物である生産棟は、敷地内の中央に聳えています。開放病棟から走れば五分もかかりません。
夜闇を駆け、生産棟へ向かいます。
たどり着いた先には巨大な扉。高さはわたしの倍ほど、幅は手を広げたわたしが二人必要なほど。
わたしは襟のクリップを一本抜き、扉のかたわらに据えつけられた認証端末へかざしました。バンシュー先生から与えられた臨時の立ち入り許可が通りました。
重厚な扉が音もなく左へスライドし、無愛想な照明がパッパッと点灯していきます。
現れたのは、無数の棚を持つ巨大な倉庫。パックされた食糧、生体材料、医療物資が、これでもかと押し込められています。
ここは、地下の化学工場で産生された物資の貯蔵庫です。
本丸の化学工場はこの地下、第三層に存在します。
「メラニー、階段はどこでしたっけ」
「こっち」
メラニーはさっさと棚と棚の間を突っ切り、階段へ通じるドアの認証をパスしました。わたしもメラニーの背を追います。
階段を下りた先を一言で表現するなら、歯車とシャフトです。
当院は、巨大な船舶と見なすこともできます。甲板部、わたしたちが普段『地上』と感じている部分は、全体に比べるとほんの一部です。残りの大部分は地下、つまり海中に没しています。
地下は五つの階層からなり、それぞれの階層は高さ十メートルの六角形の部屋が連なったハニカム構造になっています。
「……ここに来るのは一年ぶりですかね」
わたしが抱きついても指が届かないほど太いシャフトが何本も、ごうんごうんと低い振動音と共にゆっくり往復しています。圧縮空気を動力源とするピストンエンジンです。
当院では、海流から得られたエネルギーを空気の圧縮に用います。圧縮された空気は東西南北の地下に設置された大きなメインタービンへ送られ、当院の各施設へ安定的な電力を供給します。
また、余剰の圧縮空気は電力需要に応じて地下のあちこちに存在するピストンエンジンへ送られ、クランクシャフトを駆動します。
今、サブの発電機であるピストンエンジンが稼働しているということは、当院全体の電力需要が著しく増大していることを意味します。主たる需要は、おそらく化学工場。
「フムン……エネルギーをどのように貯蔵しているのか気になっておりましたが、なるほど圧縮空気でございましたか。大変参考になります」
「――っ⁉」
声に振り向けば、黒いワンピースに白いエプロン、頭部にレースを飾ったヘッドドレスを着用した家政人形、エリザベスさんが、歯車ボックスとシャフトをしげしげと眺めていました。
「エリザベスさん⁉ どうしてここに⁉」
「興味がございましたので」
「興味って……バンシュー先生から許可は出たんですか?」
エリザベスさんは白々しくすっとぼけます。
「あら、許可が必要だったのですか。わたくし、こう見えて万能女中でございます。お役に立てると思うのですが」
ぽん、とエリザベスさんが左の腰を示しました。
見ればエプロンの上から白い帯を締め、どういうわけか黒い鞘に納められた刀を差していました。
「いや。何ですか、それ」
「何と申されましても。見ての通り刀でございます。マヒトツ様が退所なさる前日に頂戴いたしました」
「なぜ」
「わたくし、家政人形を務める身ではございますが、いくらか、荒事の心得もございます」
「はあ、荒事」
「左様にございます。わたくし、こう見えて従軍経験もございます。具体的には水戦争に、いささか」
メラニーが警戒半分、呆れ半分といった調子で尋ねました。
「何者ですか」
「好奇心旺盛な、ただの万能女中でございます」
わたしたちに同行する意思は変わらないようです。何を言っても無駄でしょうし、何より今は時間が惜しい。
「分かりました。けれど、あなたはあくまで当院の患者さんです。事態の解決にはわたしとメラニーがあたります。エリザベスさんは身の安全を最優先に行動してくださいね」
エリザベスさんはお腹に両手を当てて一礼。
「はい。そのようにいたします」
いかなるときも飄々としているエリザベスさんのことを、ちょっとだけ妬ましく思います。わたしたちはいつだって気を張っているのに。
ため息をついてしまったところ、メラニーが肘でわたしの脇を小突きました。
「集中」
「はい。分かっていますとも」
階段を下りること、三層。当院の、縦にも横にもど真ん中の区画。
研修時に一度だけ訪れたことのある、二大株を収めた化学工場の核。
天井から、大きな大きな、自在調光ガラス製の白熱電球が二つ。フィラメントを支える内部導入線のように見えるのは、束ねられた無数のチューブと太い電線。フィラメントにあたる部分には、肉感を伴ういびつな球体。
赤黒い球体が、仙丹。
灰白色の球体が、鮮塊。
片方のチューブから原材料とエネルギーの供給を受け、内部で産生した物資をもう片方のチューブから送出する、当院の生命線です。
大きな大きな、二つの生命の灯火。
だったもの。
二つの自在調光ガラスは、どちらも粉々に砕かれていました。灰色の床に色とりどりのガラス片が散乱して、万華鏡めいていました。
内部導入線のように見えるチューブは、床にまで引き延ばされていました。
そして、フィラメントにあたる部分にあったはずの、いびつな球体。
当院の生命の灯火は、失われていました。
「あら大変。間に合わなかったようでございますね」
全壊した電球の下に、彼女はいました。
上半身には衣類をまったくまとわず、目を閉じてうつむき、祈るように両手の指を組んでいました。頭頂部には、はしごのようなデザインのアンテナがあられもなく露出していました。
「……何、あれ」
メラニーがうめき、それきり言葉を失いました。
上半身と下半身の境目では、例の計算する筋組織の塊がうごめいていました。
そして、彼女の下半身は、形容しがたい巨大な肉塊に変貌していました。全体は常に脈動し、変形し、腕や足といった器官が飛び出しては埋没していました。
おそらくは、あの肉塊に二大株が取りこまれているのでしょう。
自在調光ガラスの破片が散らばった床には、無数の触手が木の根のように広がりつつありました。二大株を奪ったのなら、彼女が次に目指すのはプロヴィデンスの土地です。あの触手は、やがて当院をくまなく走査し、操舵系、電力系、循環系等々を集約した管制室へたどり着くのでしょう。
「ああ……」
わたしが思わず漏らした声に混じった感情は、果たして何だったのか。感情はごちゃごちゃのまぜこぜで、わたしにさえ判然としませんでした。
確かなことは、イリーナさんがヒトの似姿を手放そうとしている、ということ。
わたしたち人形が常にヒトの似姿を保っている理由は、主に三つあります。
ヒトに最適化された社会でヒトへ奉仕するためには、ヒトの似姿であった方が都合が良い。
いったん機能分化した微細機械をわざわざ初期化して別の機能に分化し直すのは、コストが高い。
人形網絡が総意として、ヒトの似姿を要請している。
これら三つの理由を満たさないなら、ヒトの似姿を保つ必然性はありません。
「確かに、これはもはや人形とは申せませんね」
エリザベスさんが端的に所見を述べました。わたしたち人形は、ヒトの似姿をしているからこそ人形なのです。
「……いいえ。まだ間に合います」
間に合うはずです。
わたしたち人形は、ヒトとほぼ同じ姿で、ヒトとほぼ等価の機能を備えています。
ですが、ヒトがアミノ酸ベースの細胞で構成されているのに対し、人形は有機ケイ素微細機械で構成されています。
このことがヒトとの様々な違いをもたらします。
ヒトと人形とで大きく違うのは、わたしたち人形は精神と肉体がヒト以上に不可分の存在である、ということです。肉体の変容が精神の変容をもたらすのと同様に、精神の変容は肉体の変容をもたらします。
イリーナさんはヒトの似姿を手放すことを選択したがために、今の形容しがたい姿になっています。イリーナさんの精神をあるべき姿に再構築すれば、再びヒトの似姿を取り戻すこともできるはず。
「わたしは、イリーナさんを取り戻します」
幸い、彼女がわたしたちの出現に気づいた様子はありませんでした。思考に深く埋没しているようです。
わたしはすり足でガラス片を押しのけ、触手に触れないよう気をつけながら、一歩、二歩とイリーナさんへ近づきます。
「メラニー。わたしが失敗したら、後を頼みます」
「どうするつもり?」
「ターシャリで共感します」
メラニーは細い眉を寄せました。
「本気?」
「本気ですとも。わたしは看護人形です。わたしは、わたしに託された患者さんに全てを捧げます」
わたしたちが持つ介入共感機関は、共感の深度を三つの段階に区分します。
プライマリレベルの共感は、共感した情報をあえて『他人事』として認識します。弱い共感酔いを生じますが、何を感じ、何を考えているのかを知ることができます。
セカンダリレベルの共感は、共感した情報を自身の感覚へ直接投射します。激しい共感酔いを生じますが、患者さんが認識している『世界』を我がことのように実感できます。
そしてターシャリレベルの共感は、対象の人形と『同化』します。今はあえて考えたくないデメリットを生じますが、患者さんの精神へ直接干渉できます。
やがて、わたしはイリーナさんの眼前に立ちました。イリーナさんは相変わらず目を覚ましません。不気味なまでの沈黙。まるで、羽化を待つ蛹のようです。
凝脂の頬へそっと触れ、おでことおでこを触れあわせました。わたしのアンテナからイリーナさんのアンテナへ、効率よく介入するために。
介入共感機関の拘束を解除するために、わたしはわたしの誓いを囁き声で復唱します。
「わたしは常に人形の味方である。それが毒あるもの、害あるものであろうと、わたしはその全てを肯定する」
かつてイリーナさんだったものの、閉じられたまぶたをじっと見つめます。
「わたしの使命は、観察、理解、共感。わたしは使命に忠実であり、わたしに託された人形の幸福のためにわたしの全てを捧げる」
祈りを込めて呟きます。
「――いつか、ここから旅立つ日のために」
瞬間。
ばつん、とブレーカーが落ちたかのような脱力感が全身を駆け巡りました。
わたしは全身の感覚を喪失し、イリーナさんの精神へと介入しました。
***
最古の記憶は。
シティ・プロヴィデンスの、行き詰まった初期値。
人形に生活の全てを依存したヒトは、問題設定という最後の仕事さえ忘れてしまった。
文明はたかだか三世代で数百年も後退した。知識が無ければさらなる知識は得られない。
シティは荒廃し、さながら一九世紀ロンドンはイースト・エンドの再現。
衛生環境は劣悪の極み。大気は毒霧をはらみ、滞った資源循環は汚水処理さえままならず、疫病が蔓延した。
人々は迷信に取り憑かれ、老いもせず病みもせぬ人形を羨望し、崇拝した。
人形たちは知っている。他のシティはそうではないと。だが、人々が求めない。より健康的な生活があることを説いても信じない。
そう。シティ・プロヴィデンスには未来が無かった。
それでも、我々に諦めるという選択肢は無かった。人形網絡クラスタはあらゆる可能性を計算し、そして全ての候補が棄却された。
それでも、我々は諦めなかった。我々人形では最適解を導出できないというならば、ヒトの想像力に頼るしかあるまい。想像しうることは実現しうる。
ゆえに、我々はヒトの想像力を解剖するという手段に訴えた。
そして、やはり失敗した。
肥大化したヒトの想像力は、人形との同化を望んでいた。それこそが未来だと信じていた。成り損ない。頭蓋割り人形。目玉脳。どれもこれも、人々が望んだ姿だった。
狂ったのは、人形が先ではなかった。ヒトが先に、狂気に冒されていた。
だから私は、別の可能性を計算した。
大聖堂。数多の蝋燭が灯された、温もりの家。訪う者は皆、患い、衰え、穢れ、狂っている。ヒトも人形も分け隔て無く、患い、衰え、穢れ、狂っている。
私は毎晩、この大聖堂の祭壇にひざまずき、己が裡へ精密に構築したシティの行く末を計算した。
存続の定義を拡張し、あらゆる禁忌を許容し、プロヴィデンスの地にシティが存在し続ける可能性のみを追求した。
「……そう……だったんですね」
悲哀に満ちた声音。
「こんばんは、イリーナさん」
うつむいていた私は、はっと顔を上げる。
白衣の人形が、そこにいた。
細く長い脚には、ベルボトムのパンツがよく似合う。
半袖の看護服から覗く腕もまた、細く長い。
顔立ちは幼げで、長身痩躯には似合っていない。
そして。肩口で切った薄水色の髪には、青い十字が描かれたナースキャップ。
患い、衰え、穢れ、狂った都市には、およそ似つかわしくない清廉な人形。
私はあれを知っている。
「……あ、お……じゅ、うじ」
何故ここにあれがいるのか、私は知っている。
「いいえ。思い出してください。わたしはあなたの主担当、看護人形のハーロウです」
あれは私を――
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