人形たちのサナトリウム

- オーナレス・ドールズ -
片倉青一
片倉青一

3-9「とある虚無への追憶」

公開日時: 2020年10月29日(木) 18:00
更新日時: 2021年12月15日(水) 15:28
文字数:4,021

 肉体の感覚を得た瞬間。


「――あああああああああああああぁ!」


 わたしは両手で頭を抱え、絶叫していました。悲しみや怒りではなく、耐え難い肉体の苦痛に襲われたからです。ターシャリから復帰した際の共感サージです。

 視界の下端で捉えたのは、わたしのお腹に吸い込まれる金髪の頭部。


「あぶっ――!」


 お腹に巨大な鉄球がぶつかったかのような衝撃。

 わたしが漂白したのは、感覚を統合して思考する意識と、それに紐付く無意識だけです。

 あの名状しがたい肉塊は、筋組織からなる計算機を持っています。自律的に稼働していたそれが模倣脳メインプロセスの停止に反応。自己防衛のために、上半身を棒きれのように振り回したのです。

 金髪の頭部でお腹をしたたかに殴られたわたしは、なすすべもなく色とりどりな自在調光ガラスの破片が散らばる床へ吹っ飛び着地し転がりました。


「げ、ご……あっ!」


 共感サージと殴打された激痛で、わたしは陸に打ち上げられた魚みたいに痙攣しました。


 五感の全てが最悪です。

 頭のてっぺんを刀鍛冶の大槌でぶん殴られて、皮膚という皮膚に注射器をぶすぶす刺されて、全身のあらゆる骨格筋がてんででたらめに暴れて、胃から有機ポリシラン溶液が噴き出して、耳元で銅鑼を打ち鳴らされて、苦いのと酸っぱいのと塩辛いのとが唾液に滲んだら、だいたい共感サージに近い状態です。


 ぐるぐる回る視界に、ぽっちゃりした三本指のマニピュレータが映りました。


「わお。ハーロウくん、だいじょーぶ?」


 わたしには三重にエコーがかかっているように聞こえました。


「メス、キューくん……鎮静剤を、わたしに……!」

「いいの?」

「早く……投与してください!」


 メスキューくんは三本指のマニピュレータで前面のカバーをかしょんとスライドさせました。筐体の内部から鎮静剤のアンプルを取り、わたしのうなじへアンプルの針を突き刺しました。

 頸静脈を通って心臓へ鎮静剤の薬液が送られ、一気に全身へ巡ります。

 感覚器官の感度を鈍化させ、共感酔いを抑えることが狙いです。副作用で眠くなることもありますが、今は興奮の方が圧倒的に勝っているため、自分の体が思うままに動かないもどかしさだけが残ります。


 見れば、肉塊の表面には無数の割れ目が出現し、眼球がぎょろりと飛び出していました。外界の情報を効率的に得るなら、まずは光の受容器、つまり眼球を得ることが効果的です。

 視覚を獲得した肉塊は栄養を供給するチューブも、床に這わせていた触手も引きちぎり、自由に動ける状態へと変貌しました。

 一連の行動には意思こころがあるように見えますが、ただの反射的な適応です。あれにはもう、人格は宿っていません。


 あの肉塊が持つ質量は、メラニーの手に余ります。当院において武器になるものといえば、医師の先生方がごく稀に使用する滅菌メスくらいのものです。


「――エリザベスさん!」


 だからわたしは、この場で唯一、本格的な戦闘行動が可能な人形の名を呼びました。

 本来、患者さんに事態への対処をお願いするのは禁じ手ですが、なりふり構ってはいられません。


「呼ばれて~飛び出て~、不肖エリザベス、アルティメット推して参ります」


 変てこな歌声の直後、意味不明な名乗りを上げ、銀髪の家政人形シルキーが肉塊の前に立ちはだかりました。

 エリザベスさんは、普段の無機質な顔立ちからは想像もつかない、生気を帯びた微笑を浮かべていました。たぶんハイテンションなのです。なぜ。


「はてさて、名状しがたき異形と相まみえるとは、主無しオーナレスと揶揄されてまで所有者を転々とした甲斐があったというものでございます」


 エリザベスさんは右足を前方へ送りつつ、流麗な動作で刀をすらりと抜きました。あれは、かつて試し斬りのときに使われた、この世に比肩するものなしと評されたあの名刀です。


「よもや卑怯とは申しますまいね?」


 エリザベスさんの佇まいには一切の隙がありませんでした。肉塊もそれを察してか、無数の眼球をエリザベスさんに向けたままぴたりと動きを止めます。

 刀を構えたまま、肉感のある唇だけがぺらぺらとごたくを並べます。


「お見受けするに、あなた様の計算手法は筋組織の塊を活用したモーフォロジカル・コンピュテーション。まさに脳筋、なれど大変優れた計算手法でございます。ですが――」


 エリザベスさんが語っている間に、メラニーがポケットから取った滅菌メスの封を切りました。すかさず肉塊に向けて投擲します。

 肉塊が反応し、上半身の右腕を振り上げて滅菌メスを払いました。

 隙を逃さずエリザベスさんが電撃のごとく跳躍。上半身と下半身の境目、ひときわ盛り上がっていた塊に深々と切り込みました。


「筋組織を駆動する神経系を断てばおしまいでございます。ナイスアシスト」


 びくびくと肉塊が震えます。

 エリザベスさんは肉塊を蹴り、素早く刀を抜き去りました。わたしを打ち抜いたときの半分以下の速度で、上半身が横なぎに振るわれました。エリザベスさんは横へぱったりと倒れるように回避。地面と水平になった体幹をぎゅるりと回転させ、右手一本で下から上へ返しの斬撃を放ちます。

 筋組織の塊であるはずの肉塊がまるで緩んだバターであるかのように、切っ先がするりと入り、抜けました。


 エリザベスさんは左手を床へ突き、回転の勢いを利用して宙返り。両足を地に着けた時には、既に左腰の鞘へ刀を納めていました。くるぶしまで届くワンピースを着ているとは思えない機動力でした。

 ひくひくと弱々しく震える肉塊へ向け、エリザベスさんが告げました。


「わたくしが刀を持参したことが幸いいたしました。ご安心なさいませ、イリーナ様。これ以上の冒涜は、わたくしとて許しがたい」


 肉塊はなおも計算資源を求め、剥き出しの筋組織をざわざわと上方へ伸ばしました。

 最後の計算資源。上半身、頭部の模倣脳。


「――ごめんあそばせ」


 エリザベスさんは目にも留まらぬ素早さで刀を鞘の内部で走らせ、右手一本で抜き放ちました。放たれた刀の切っ先は脛骨の隙間を正確に縫い、断ち落としました。肉塊はとうとう力尽き、潰れたおまんじゅうのように剛性を失って広がりました。

 ごと、と金髪の頭が転がり落ちます。光を失った緑色の瞳が、偶然にもわたしの方を向きました。


 うつろな瞳。半開きの薄い唇。

 同化していた時に爆発した感情が、再燃してしまいました。

 わたしは確かに、あの顔を持ったイリーナさんとお喋りをしていて。わたしは彼女の幸福のために、わたしの全てを捧げるつもりでいて。だけど、彼女は人形に仇成すもので。わたしのやってきたことはいったい何だったのか。そしてわたしは、経緯はどうあれ確かに生まれた心を、この手で漂白して。後悔という名の自己憐憫にひたることは許されないのに、とても悔やみきれなくて。


 涙がとめどなく溢れて。わたしは身勝手な涙を流しているわたしを見られたくなくて。わたしは床に倒れたまま両腕で顔を隠し、ダンゴムシみたいに手足を縮めました。

 嗚咽をこらえているわたしを心配してくれたのか、メラニーがわたしの背を撫でてくれました。


「ハーロウ。もう終わった」

「……メラニー。わたし、に……共感っ、してください。これは、あなたも知るべき、です……から。わたしは、あなたの介入共感に、同意……します」


 半分は、本当です。知見は共有されるべきです。

 メラニーはわたしのお願いを素直に聞いてくれました。


「分かった。対象の同意を確認。全領域、介入共感機関の拘束をセカンダリ解除」


 メラニーが看護人形誓詞を素早く呟きます。

 わたしに共感したメラニーが、崩れ落ちて膝をつきました。


「あ……ああ……」


 残りの半分は、わたしだけがこの苦しみを知っているだなんて不公平だという、わたしの醜く勝手な八つ当たりでした。わたしは彼女の好意に甘えた、最低な人形です。

 いつもぶっきらぼうなメラニーですが、本質はわたしと同類です。わたしが今抱いている感情。イリーナさんだったものに関するあらゆる記憶。そして、シティ・プロヴィデンスが失敗した経緯の記録。

 メラニーはうわごとにもならないうつろな声を上げ、膝を突いたまま茫然自失となってしまいました。

 わたしは、謝りませんでした。半分とはいえ八つ当たりして、それをごめんなさいの一言で済ませようだなんて、恥知らずにもほどがあります。


 不意に。エリザベスさんが、自在調光ガラスの破片を革靴の底でじゃりじゃりと踏みながらわたしたちへ歩み寄りました。表情は、元の無機質に戻っていました。


「ハーロウ様。何か、わたくしめにお手伝いできることはございますか?」

「いえ……しばらく、二人きりにさせてください」

「承りました」


 エリザベスさんは深々と一礼し、きびすを返して歩み去ろうとしました。わたしはふと思い出し、太く結った銀の三つ編みへ声をかけました。


「あの」

「何か?」


 ちらりと横目をくれたエリザベスさんへ、わたしも頭を下げました。


「ありがとうございました。わたしたちでは、あれを止められませんでしたから」


 エリザベスさんは、小さく肩をすくめただけでした。


「貸し借りは無しと認識しております。本件につきまして、わたくしの好奇心は満たされましたから」


 そう言って、エリザベスさんは階段をてくてくと上り、姿を消しました。

 わたしとメラニーは、イリーナさんだったものを前に、ずっと、じっと動かずにいました。動けずにいました。



 どれほど時間が経過したのか。

 何日も座りこんでいたような気もしますし、ほんの数秒だけここにいたような気もします。

 たぶん、実際には三十分も経っていないはずですが。

 ごつん、ごつん、という、重い人が階段を下りてくる音で、わたしは我に返りました。

 階段から現れたのは、いつものように朗らかな笑みをたたえた、恰幅のいい男性。

 バンシュー先生はイリーナさんだったもの、ネオプラズムEと呼んだそれを一瞥しました。それきり興味を失ったらしく、わたしたちに歩み寄りつつ両手を広げました。


「やあやあ。お手柄だね、ハーロウ、メラニー」


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