それからも、郵便人形のアイリスは配達にまつわる様々な思い出を、次々と、懐かしげに語った。
アイリスは、どの思い出も細部までよく覚えていた。視覚、聴覚はおろか、嗅覚や触覚、場所ごとの雰囲気、そういった『経験』を克明に記憶していた。
一つとして同じエピソードは無く、彼女が届けた人々の『想い』はどれもこれも温かかった。誰もが、手紙や贈り物に、他者への『想い』を込めていた。
どのエピソードも、メラニーの心臓に早鐘を打たせた。
止まり木の療養所に入所する患者は、誰もが少なからず心に傷を負う背景を持っている。
アイリスの語る心温まるエピソードは、止まり木の療養所から出たことのないメラニーにとってこの上なく新鮮で、ひたすらにまぶしかった。
「……苦しいこと、なかったんですか」
「どういうことでしょう?」
「アイリスさん、明るすぎます。嫌なこと、苦しいこと、あったはずです。どうしてそんなに、良いことばかり覚えてるんですか」
「楽しかったこと、嬉しかったことを覚えていた方が、得ではありませんか?」
メラニーは改めて、アイリスが思い描いている記憶のイメージをよくよく観察した。橙色の世界には、相変わらず無数の封筒が散らばり、アイリスを取り囲んで反時計回りに漂っていた。
全てが特別で、全てが温かな思い出ばかりだった。
アイリスは強く願っていた。尊く大切な人類の営みを、いつまでも覚えておきたい。
だが、彼女は郵便人形だ。人形の平均的な耐用年数は約六十年。耐久性を重視して設計されているとはいえ、いつかは動かなくなる日が来る。
「これ……この、思い出。人形網絡に、共有しなかったんですか」
ちょっとだけ、間があった。
「……ああ。あなたは人形網絡にアクセスできないのでしたね」
アイリスは首を横に振った。
「共有は、できません。理由は二つ。個々の人形が人形網絡に提供する情報は、経験から抽出した本質的な情報だけです。私の経験を細部に至るまで共有することは不可能です」
「……二つ目は、何ですか」
「人形網絡は常に、社会の最適化を図ります。無駄を削ぎ、効率化し、合理化を進める並列計算機です。私のような無駄な存在の記憶、提言、経験は、最適化を妨げる外れ値として弾かれます」
にわかに怒りがこみ上げてきた。アイリスの穏やかな感情とメラニーの怒気が混ざり合い、衝突した。感情の混濁と衝突は共感酔いを発生させ、吐き気をメラニーへもたらした。
「そんなのって、ないです。こんなに、温かくて。こんなに、幸せなのに。こんなに、尊いのに。無価値だって、人形網絡は、言うんですか。どうして。あなたは。平然としてられるんですか」
言葉が喉につかえた。
語気を強めなかったのは、アイリスの感情に諦念が混じっていたからだ。
きっと、アイリスだって考えた。メラニーの何倍も考えて考えて、やがて諦めた。
「道徒メラニーは、変わっていますね」
「おかしいですか」
アイリスは、目の前に現れた封筒を指先でそっと撫でた。慈しむように。愛おしむように。
「普通の人形にとって、重要なことは持ち主にまつわることだけです。人形は持ち主を愛しますし、持ち主と親しい人々や人形とは親しくなります。ですが、赤の他人には然して興味を示しません」
一拍置いて、アイリスは少しだけ寂しげな声音で続けた。
「私の宝物は、他の誰かにとっての宝物ではありません。私と同じ喜びを分かち合う仲間が欲しいとは常々思ってはいますが、同時に、きっと誰からも理解されないだろうと理解もしています」
それはそうだ。生まれて二年と数ヶ月のメラニーにだって理解できる。あなたは私ではない。私はあなたと違う。だから、大切なものも、私とあなたでは違う。理屈は分かる。
「でも――」
納得できないメラニーの反論を遮り、アイリスは静かに、されど力強く告げた。
「それでも。世界から見れば塵芥のようなものだとしても。私の思い出は、私が届けてきた人々の『想い』は、私の心を構成する大切な要素です」
アイリスの感情が躍動した。
そう。だからこの『想い』は、誰に認められないとしても決して失いたくない。
叶うならば、素敵な営為の記録を永遠に残したい。
私は郵便人形だから。人々の『想い』を受け取り、携え、届ける人形だから。荷主の喜びこそが、郵便人形にとっての幸福だから。
やっとメラニーは、アイリスを理解し、心の底から共感できた気がした。
「だからあなたは、天空の記録を求めた」
アカシック・レコードとは、過去、現在、未来の全てを永遠に記録するもの。かつて神智学の徒が提唱し、現在では幻想として語られるもの。
「はい。もし天空の記録があるのなら、私の願いは叶います。だから、私は信じました」
「幻想と親和性の高いあなたは、容易に信じることができた」
「はい。それに、天空の記録は未だ科学的に存在を確認されていないだけで、絶対に存在しないとは言えません。シティが私に対し『消極的な否定』との見解を示したのも、それが理由です」
「……たとえ、可能性がゼロに限りなく近いとしても、ですか」
「はい。私の大切な思い出が未来永劫に渡って残されることを確認できるなら、私は天空の記録へアクセスする手段を模索し続けます。私の宝物を、永遠に残すために」
何かが違っていたら。
例えば、シティがアイリスの経験を『ノイズとなる外れ値』ではなく『貴重な例外ケース』と認めたなら。
あるいは、どこかの技術者集団がアイリスの言動に目を付けたなら。
アイリスは『壊れた』と判定されることなく、個性を活かすことができたのではないか。
もちろん、郵便人形としては異常だ。メラニーの経験はミーム抗体の精製に役立てられるのだろう。だが、メラニーはアイリスの『異常』をミーム抗体により未然に防ぐことが正しいことだとは思えなかった。
アイリスの異常を未然に防ぐということは、ヒトの『想い』を理解し、大切に思う心の芽を潰すということだ。そんなこと、正しいわけがない。
悔しかった。
メラニーには何もできない。ちょっと規格外の機能を持つだけの、一介の看護人形だ。
メラニーには何も言えない。アイリスの救いとなる言葉を思いつけない。
すっかり黙りこくってしまったメラニーを訝しんだのか。アイリスが、穏やかな声音で語りかけた。
「……道徒メラニー?」
無数の封筒が回転する橙色の世界が、急に見開かれた。
楕円形のディスプレイの中に、石材のテーブルセットに座るメラニーがいた。目を閉じたまま、アイシャドウが流れるほど涙をこぼしていた。
「なぜ、泣いているのですか?」
言われて、ようやくメラニーは自身が泣いていることを認識した。
「あ……え……そ、の……」
目を開けてしまった。アイリスとメラニーの視界が重なり、視覚が混乱した。共感酔いの悪化を避けるため、反射的に介入共感機関を拘束してしまった。
途端、回転中の独楽が急に軸を失ったかのように、メラニーの感情が暴れた。身に染みついた対応が裏目に出た。
「――っ!」
メラニーは石のテーブルに突っ伏した。
共感酔いによる吐き気を覚えていたからでもあり、行き場の無い感情を持て余してしまったからでもある。
地に足の着いた多幸感は、アイリスのものだった。メラニーは感情の制御をアイリスに倣っていた。
メラニーは、この感情の扱い方を知らない。
全身にぎゅっと力を込めて縮こまり、暴れる感情が落ち着くまで耐えた。
メラニーは十分ほどそうしていた。やがて看護服のポケットから滅菌ガーゼを取って封を切り、アルコールスプレーを吹き付けてから目元を拭った。青紫色のアイシャドウが滅菌ガーゼにべったりと付着していた。
「……すみません。取り乱して」
言いつつアイリスへ視線を転じた。アイリスはいつものように泰然と微笑んでいた。
「あなたは、優しい人形ですね、メラニーさん」
「そうですか」
「はい。何千通ものお手紙をお届けした私が保証します。あなたは、優しい人形ですよ」
そう言われて、悪い気はしない。
しかしあいにく、メラニーは褒められ慣れていない。笑顔に慣れていない。
結局、無愛想なまま、ぶっきらぼうに答えることしかできなかった。
「ありがとう、ございます」
「そんなあなたに、お渡ししたいものがあります」
「何ですか」
アイリスは肩に掛けたメールバッグから、一通の封筒を慎重に抜き取った。
封筒の端を両手で持って、すっとメラニーの手元へ差し出した。
「……メラニーに、ですか。誰からです?」
「私です。いつか私がここから退所したら、読んでください」
言った後。珍しく、アイリスが頬を赤らめ、もじもじと縮こまった。
「……実は、自分から手紙を書くことは初めてでして。だから、私が退所してからですよ。絶対ですよ」
メラニーは自然と、自覚なく、頬を緩ませていた。
「ありがとうございます。アイリスさん。あなたの『想い』、確かに受け取りました」
アイリスは、はにかみながら頷いた。
頓珍漢な理屈を説いて回る、導師アイリス。
人々の『想い』を届けるために世界中を旅する、郵便人形アイリス。
今の彼女はどちらだろうか、と少しだけ考え、どちらでもいいとメラニーは結論した。
どちらも、アイリスであることに変わりはないのだから。
というのも、そういう瞬間、高次の生が満潮になり、私の身のまわりにある日常的な対象を器のようにして、満たすわけですが、その日常的な対象というやつが、まったく無名のものであり、ほとんど名付けるに値しないものだからなのです。私の話は、具体例がないと理解していただけそうにありません。馬鹿ばかしい例ですが、どうかご容赦ください。たとえばそれは、如雨露であり、畑に置き去りにされた馬鍬であり、日向ぼっこをしている犬であり、みすぼらしい教会墓地であり、からだの不自由な人であり、小さな農家です。これらすべてが、私にとっては啓示の器となる可能性があるのです。これに似た何千という対象が、普段なら当然のことながら無視されるわけですが、私の力では呼び起こすことのできない瞬間、突然、私にとって崇高で感動的な相貌を帯びることがあるのです。
Hugo von Hofmannsthal (1902). Ein Brief.
(フーゴ・フォン・ホーフマンスタール. 丘沢静也 (訳) (2018). チャンドス卿の手紙/アンドレアス. 光文社)
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