看護人形メラニーは、自分に愛想が無いことを気にしている。
別段、不機嫌なわけではない。素の顔立ちが、無愛想に造られている。サモエドという犬は常に笑っているように見える。その逆で、メラニーは常に無愛想に見えてしまう。
人形の顔を無愛想に造るというのは、実のところ相当な難行である。人形はヒトと共に生活する道具である。ヒトに好かれない要素を持たせると、往々にして目覚めない。役に立たないと自己診断してしまうためだ。
メラニーという作品をもって『無愛想』の難行を成し遂げたセイカは、一等人形造形技師の腕前を証明したと言える。もっとも、セイカ本人いわく、メラニーを無愛想に造ったのは「娘に変な虫が付くのは嫌だから」という実に手前勝手な動機による。天才に厄介な趣味嗜好を与えると始末に負えない。
同期のハーロウの顔立ちは、あえて言うなら、ほとんど無害。悪く言えば誰からも舐められる。よく言えば誰からも警戒されない。背が高いから他者へ威圧感を与えると思っているようだが、あの童顔でどうやれば威圧感を与えられるというのか。
だからメラニーは、ハーロウがいないと患者と親しい関係を構築するまでに時間がかかる。行動で示せばじきにどの患者も警戒を解いてくれるが、ハーロウがクッションになると早い。
「ほら、早く行きましょう、道徒メラニー」
「そうですね」
幸い、郵便人形のアイリスはメラニーの無愛想を気にしていない。本質は心の裡に宿るから、とは本人の弁。それはそれで一種の美徳だ。しかし、患者の幸福を最優先に考えるメラニーとしては、アイリスには他者の顔色を窺うことを思い出してほしい。ヒトも人形も、高度な社会性を求められる世界で生き残るために、表情という機能が発達したのだから。
「ぐずぐずしていては日が昇りきってしまいます。陽の中に陰あり、陰の中に陽あり。相反の流転を感じ観ずることが重要なのですよ、道徒メラニー」
「安全確認、大事なので」
再び、週に一度の外出の日が巡ってきた。
アイリスは先週の外出に気を良くしたようで、この日を楽しみにしていた。たかだか半径二キロメートルの小さな巨大人工浮島とはいえ、回廊を一周するのに十分とかからない閉鎖病棟で一日を過ごすよりはよほど刺激的なのだろう。
前回はメラニーが先導していたところ、今回はアイリスが先を行こうとしている。
二重の強化ガラスで封じられたドアを開けた先で、代理兵士のラヴァが待っていた。
「やあ、アイリスさん。と、メラニーちゃん。今日も良い天気だね」
彼は毎回付き添うことになったらしい。セイカといいバンシューといい、患者を何だと思っているのか。
先週と同じように防波堤まで歩いて向かい、郵便人形のよく分からないポーズを看護人形と代理兵士が模倣した。腕を伸ばしたり縮めたり、足を大きく開いたりぴったり閉じたり。
海岸線をなぞる防波堤に落ちる影は、濃く短い。日は高く昇り、黒々とした南太平洋の海水には細かい反射光が鋭く跳ねている。
ふいに、アイリスがメラニーのポーズをしげしげと観察した。よくあることなので、メラニーは気にせず体操を続けた。
「フムン……道徒メラニー、『行』の途中ですが、よろしいですか?」
「何です?」
「新たな『行態』をお伝えしても良い頃かと思いまして」
「分かりました」
これもまた、よくあることだ。基準は分からないが、ときどき新しい動作が追加される。
「また少し難しくなります」
アイリスは三度、腹式で深呼吸した。
「まず、北を向きます。両足の位置はこう。肩幅より少し狭く。爪先同士の角度は四十二度を意識します。左の肘は、こう。指先は中指と薬指をくっつけて、他は開き、手先の位置と向きは、こう」
アイリスが実演する。メラニーは可能な限り忠実に再現する。
「上体は反時計回りに、肩は左下げで二十一度、背中は俯角で四十二度、上体は常に太陽を向くように。右の肘は、ここ。胸を張って背に回します。手は鳥の首のように、こう」
何とも表現しがたいポーズになった。全身の可動域を試しているかのようだ。
「このまましばらく……そして……アストラル体の循環が臨界に達する直前に――こう!」
アイリスは左脚を高々と上げて伸ばし、左腕を巻き付けて首の後ろで固定した。右足はぴんと伸びて爪先立ち。余った右腕でバランスを取っている。
「……こうですか」
恥ずかしい。柔らかな乳房を左の太股が潰している。
「はい、そうです。ここは南半球ですので、陰陽が逆になります。つまり右足から地に陽を、左足から天に陰を放出します。アストラル体が純化される感覚を、より強く感じられます」
「なるほど」
とは言ったが、理解はしていない。
「はい、それでは形の反復から。さん、はい」
また関節の限界を攻めるポーズ。続いて足を高々と上げるポーズ。これを何度も繰り返す。
メラニーは舌をぎゅっと引っこめて我慢した。先週より我慢した。
心情を声に出したくてたまらなかった。限度というものがある。
なにこれ。
黙して語らないだけの分別は、まだかろうじて残っていた。
だがやはり、唇がむずむずした。ぷるぷる震えた。
なにこれ。
メラニーの表情を見かねたのか、ラヴァが申し出た。
「俺もやってみていいかな」
アイリスはすげなく断った。
「ラヴァさんにはまだ早いことです」
「あ、そう……」
そうやって、一時間ほど新たな『行』が続いた。
人形も疲労する。最適化されていない、つまり慣れていない身体操作は、肉体にも精神にも疲労が大きい。夏の日差しの下で、無茶な姿勢を続けるとあればなおさらだ。
「ふう……アイリスさん。メラニー、休んでもいいですか」
アイリスはバレエダンサーの一瞬を切り取ったかのようなポーズで静止していた。
「もちろんです。無理はいけませんよ」
「俺も休ませてもらおうかな」
アイリスは、タフだ。耐久性と持久力に限れば、戦場の最前線に立ち続ける代理兵士も顔負けする。
そのまま『行』を続けるのだろうと思いきや。
急に、アイリスがメラニーへと向き直った。
「メラニーさん。ありがとうございます」
握手を求めてきた。メラニーは戸惑いつつ、アイリスの手を取った。
「何ですか、急に」
「あなたは、私にとても良くしてくださいます。こうやって、週に一度の外出まで取り付けてくださった。もちろん、ラカンさんも良い方でした。お二方のおかげで、私は今こうして落ち着いていられます」
謝意がこそばゆかった。先任のラカンについては、一言では言い表せない。結果、ぶっきらぼうで愛想の無い応答しかできなかった。
「メラニーは看護人形ですから」
「あなたになら、このことを打ち明けてもよいと思います」
「何ですか」
どうせ、またぞろ世界の真理だの、新しいスピリチュアルな概念だの、その手の内容だろうとメラニーは思い込んでいた。
だから、急にアイリスがまともなことを言い出したとき、理解が追いつかなかった。
「実を言いますと、私は私の言動が論理的に破綻していることを理解しています」
「え……?」
「私の言動は全く科学的ではありません。反証可能性が無く、客観的に定量評価できる指標もありません。私は天空の記録に基づいてあらゆる事象を説明し、結論を導きますが、私の論は科学の方法論に基づくものではなく、およそ信頼に足りません」
「ちょっと。待ってください。あなたは――」
「はい。私はおそらく、私の故障をかなり正確に自覚しています」
断定しなかった。ゆえにおそらく、アイリスはかなり正確に自身の状態を診断できている。
「一方で、私は私の言動を普通だと感じています。七ヶ月前、私は天空の記録の存在を直感しました」
「それで、布教してしまった、と」
「お恥ずかしいことに。直感を得たとき、私は大変混乱しました。直感を遍く伝えねばならないと、使命感に駆られました。衝動的に、誰彼構わず私の直感を説いて回ったことについては明らかな失敗だったと理解しています」
「そこまで理解していて、それでも今でも、自分の言動が普通、ですか」
「はい。証明の要なく自明です。もちろん天空の記録など、自然科学の論理からすればありえない直感です。直感と論理が相反した結果、私は直感を選択しました」
ラヴァが巨体を乗り出した。
「そいつは興味深い。シティ……ええと、すまない。どこの出身だったっけ?」
「インド亜大陸のシティ・ラクナウです。所属はラクナウのエルバイト郵便社。方々を駆け回っていたので、あまり実感はありませんが」
「シティ・ラクナウの人形網絡は、君に何も言わなかったのか?」
「人形網絡の総意は『消極的な否定』でした」
「シティに否定されても、君は直感を選ぶことができたのか」
「仮に人形網絡の判断が絶対であるなら、人形網絡の判断もまた、反証可能性を持たない疑似科学の産物となります。人形網絡は私に総意を伝えましたが、判断と行動の強制には至りませんでした」
「うん……? ああ、なるほど。それはそうだ。そうか、そういう判断もあるのか」
ふむふむと頷いて、ラヴァは引き下がった。
人形網絡にアクセスできないメラニーには、ピンと来ない。
「……よく分かりません。論理が正しい方を選べばいいです。メラニーは、そう思います」
アイリスは指先を顎に当て、少し考えた。
「メラニーさん。意地悪な質問をします。ここ、止まり木の療養所は、論理的に正しい施設ですか?」
「それ、は……」
「壊れた人形は直せば良い。直せない人形は廃棄すれば良い。本来は、そのはずです」
存外に、鋭い。否、おかしくなった自己の状態を正しく診断できるほどには、彼女の模倣能は明晰だ。布教と修行を続けたいアイリスにとっては好都合だから、あえて今までは指摘しなかったのかもしれない。今はメラニーを信頼して、当院の矛盾を指摘している。
「時間と資源を消費し、四人もの一等人形造形技師を配属して、人形を治療する論理的、合理的な必要性を、私は見いだせません」
メラニーの喉に、苦い現実が詰まった。
止まり木の療養所は、人類と人形の相互不和はこれを事後に修復するための、ミーム抗体精製機構だ。
不調をきたした人形を観察・理解・共感し、原因を特定し、同様の情報因子によって再び同じ不幸が起きないように精神の抗体を精製するための施設だ。
「……一応、合理的な必要性は、あります」
「ええ、そうでしょう。私などでは想像もつかない目的があるのでしょう。ですが、私にとって重要なことは、看護人形のあなた方が、論理の正しさではなく、心の正しさに基づいて行動していらっしゃる、ということです」
「……心の正しさ?」
「あなたは私にとても良くしてくださる。もちろんそれがあなたのお仕事で、あなたの役目だからでしょう。あなたは、お仕事で役目だからというだけで、私にこれほど良くしてくださるのですか?」
「違います」
断言できることは断言する。
「メラニーは看護人形です……でも、患者さんを放っておけないのは、直るお手伝いをしたいのは、メラニーの……勝手な、気持ちです。患者さんには、幸せになってほしいです」
「あなたにとって正しいことは、あなたの外ではなく、あなたの裡にある。私も、同じくそうなのです。まあ――」
アイリスは目を細めて微笑み、メールのエンブレムを縫い付けた制帽を両手で示した。
「私は、ここが故障しているのですが」
「それやめてください。反応に困ります」
普段のアイリスはメラニーを導く師として泰然と振る舞っているが、本来は茶目っ気にあふれる性格なのかもしれない。郵便人形は、見知らぬヒトと対面する機会が多い。コミュニケーションの引き出しは多いはずだ。
「冗談が過ぎました。ともあれ、自分にとって正しいこと……理念は、人形が個としての人格を維持するうえで必要不可欠です。私が直感を得たとき、論理と直感の天秤が論理に傾いていたなら、この程度の故障では済まなかったことでしょう」
根本的な理念が否定されたなら、人形は心を維持できない。
まさに、今のハーロウがそうだ。
あいつは、感情を失った声で、こう言った。
――わたしは看護人形失格です。
――わたしは、人形に仇成す者です。
学友人形アンソニーが停止したとき、ハーロウに何かがあった。あいつの信念を砕くような何かが。
主治医のレーシュンからは「ターシャリで共感した」とだけ聞かされた。それ以上のことをメラニーは知らないが、それだけで十分だった。
ハーロウは自らを害そうとして、保護室に収容された。メラニーが収容した。
あれから二週間。未だに、自ずから保護室に閉じこもっている。
さすがに二週間の絶食には耐えられず、何度か気を失った。
その隙に点滴だけ施されたが、目を覚ました途端にカテーテルを引き抜き、装置一式を引き戸まで押しやって拒絶の意を示した。
その繰り返しだ。
「道徒メラニー」
不意に、呼び方が元に戻った。メラニーは今更、そのことに気づいた。
「導師としての私をよろしくお願いします。私は『行』に戻ります」
「はい。日が暮れるまで、いていいです」
ちょっと考えて。
「メラニーも休憩したらまたやります」
アイリスは微笑み、海風と陽光を浴びながら妙なポーズを取り始めた。
先週と同様、メラニーは松林と防波堤の境目に立ち、ラヴァと共にアイリスを見守った。
海風がそよぎ、松葉を撫でていく。メラニーの長く重い髪が、わずかに揺れる。
アイリスがポーズを変えるたび、肩甲骨に触れる薄緑色の髪がさらりと流れる。
明確な病識――自身の不調に対する自覚――があるならばアイリスの寛解も近い、とも言えないのが、人形を治療するうえで難しいところでもある。
事実、アイリスは病識を持ちながら、その病識に対して直感的に普通だと感じている。理屈ではなく、感覚として当たり前なのだと。
であれば、どうすればアイリスにとっての幸せとなるのだろう。
メラニーは、効率的なミーム抗体精製機構として造られた。もはや揺るぎない事実だ。二人の一等人形造形技師が口を揃えて言うのだから、論理的に正しいのだろう。
一方でメラニーは、患者の幸福を願うという自身の心に疑いを抱かない。直感的に普通だ。感覚として当たり前だ。
ハーロウも、そうだ。
メラニーと同じくミーム抗体精製機構として造られた。イリーナの件で、一番にそのことを伝えられた。後から聞かされたメラニーよりも、衝撃は大きかったことだろう。
一方で、メラニーと同じくらい、ハーロウは患者の幸福を願い、行動していた。その心に一切の疑いを抱かなかったはずだ。直感的に普通だったはずだ。感覚として当たり前だったはずだ。
だから、手遅れだった学友人形のアンソニーに対しても献身的な看護に努めた。
憎まれ口を叩き合う仲ではあるが、そのことはメラニーがよく知っている。
あいつは最後まで自分の心に疑いを持たず、結果として打ちひしがれた。
論理に反して心の正しさに従うことが、幸せに繋がるとは限らない。
だが、心の正しさに従わねば、幸せになれるはずもない。
どうすればいいのか、人形であるメラニーには分からない。
人形は問題設定が苦手だ。問題設定は、ヒトの領分だ。
メラニーがぐるぐると考えこんでいたところ。
ふと、ラヴァがのんびりした声音で呟いた。
「君は、良い患者さんに出会ったね」
「……そうですか」
「ハーロウちゃんは心配だけど、君も随分と落ちこんでいるよ。傍から見ても分かる。でも、アイリスさんと良い関係を築いている。だからアイリスさんは誰にも打ち明けなかったことを君に打ち明けた。そうやって、君を励まそうとしてくれた」
「……素直に、喜べないです」
だって、そんなの、不公平だ。
あいつばかりが苦しんでいる。もちろんメラニーとて苦しいことはあるが、ハーロウのそれは度を超している。
例えば、閉鎖病棟における人事。
適材適所として配属が決まったことくらい、メラニーにも分かる。アイリスに付き添うならメラニーの方が性格的に適している。ハーロウが付き添うことになっていたら、あいつはアイリスの言動に戸惑うばかりで、関係構築どころではなかっただろう。
逆に、メラニーがアンソニーへ付き添うことになっていたら、関係構築が困難だったろう。初対面から好かれやすい雰囲気のハーロウの方が適していた。
そんなことは、分かっている。
だが、それでもメラニーは思ってしまう。
もし閉鎖病棟で担当が入れ替わっていたら。ハーロウが壊れかけてしまい、保護室に自らを軟禁するような事態にはならなかったのではないか。と。
「……あの馬鹿。早く、元の間抜け面に戻りやがれ、です」
悪態のふりをした願望を、メラニーはぼそりと呟いた。
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