マウンドで膝に手を着いて息せき切らしているわたしの汗を、エリザベスさんがタオルで拭ってくれました。
エリザベスさんはやることなすこと無茶苦茶ですが、行動の結果だけ見れば合理的です。今わたしの汗を拭ってくれているように、気遣いも怠りません。
だからこそ、わたしが演じている『お嬢様』とやらの設定が不可解でした。エリザベスさんらしくない、と表現すればいいでしょうか。
「あの、エリザベスさん。改めて訊きます。どうして、こんな設定なんですか。どんな性格をしていたら、こんな日常習慣になるんですか」
「先ほど申し上げました通り、性格につきましては断言いたしかねます。わたくしなりに漠然とした推測は立てておりますが」
「その推測を話してもらえませんか。わたしには見当もつかないんです。わたしは、当院の先生方しかヒトのことを知りませんから」
エリザベスさんは眉根を寄せ、頬を撫でました。
「お嬢様はおそらくヒトの中でも特殊な部類でございますが……承知いたしました。お話しいたします。そこなベンチで休憩いたしましょう」
小さな運動場の片隅にあるベンチに腰掛けました。松の木で日陰を確保してあります。
日はすっかり高く昇り、運動場をかんかんと照らしていました。肌の汗に海風が吹き、気化熱が体温を下げてくれます。心地良い。
「さて。あくまでわたくしの推測でございますが」
と念押ししてから、エリザベスさんは語り始めました。
「設定にございますお嬢様は、ヒトとして当然に保持すべき運動能力を維持しておきたいのではないか、と考えております」
「走ることと投げることがですか?」
「Exactly」
走ることと投げることが、ヒトとして当然に保持すべき運動能力。
よく分かりません。
だって、バンシュー先生はきっと、十キロメートルはおろか、一キロメートルだって走れません。レーシュン先生もご高齢ですから無理でしょう。セイカ先生も運動は苦手だったはず。リットー先生なら標準的な体型ですし、まだ四十歳になっていないので、あるいは……?
当惑するわたしを、エリザベスさんが言葉で引きずり回します。
「まず走力。特に持久力でございます。ヒトは高温に適応し、他に類を見ない持久力を獲得した種でございます。数百万年前、ヒトという種が誕生した地域はご存じで?」
「ええと、アフリカ大陸、ですよね」
「イエス。正確にはサハラ以南の中央アフリカと考えられております。かの地に住まう草食動物……例えばヌーやクードゥーでさえ、ヒトは素手で捕獲することが可能でございます」
「まさか」
だって、追いつけるはずがありません。ヒトは最速でも時速三十キロメートル程度のスピードでしか走ることができません。
「そうお思いになるのも無理はございません。どちらも瞬間最高速度は時速八十キロメートルに及びます。クードゥーに至っては、三メートル以上も跳躍して茂みに隠れます」
「じゃあ、やっぱり無理じゃないですか」
エリザベスさんはほっそりとした指を揃え、扇のように振ってわたしの頬へ風を送りました。ひやりと頬が冷えました。
「ヒントは汗、でございます」
考えます。
汗。暑い時に汗腺から分泌される水分。蒸発する際の気化熱で体温を下げる体液。
たしか、ヒトの汗腺は他の哺乳類よりはるかに多かったはずです。
人形も汗をかきます。理由は単純で、体温を効率的に調整するためです。
「ええと……ヒトは真っ昼間、暑い中でも獲物を追いかけ続けることができます。汗をかくことで効果的に体温を下げられますから。ジョギングで足跡を追いかけ続ければ、毛むくじゃらの獲物はいつか熱中症を起こして倒れてしまいます」
「イエス。持久狩猟と申します。走行距離に対する消費エネルギー、すなわち燃費も大変に良好でございます。走るために設計された、とさえ形容されるほどでございます」
ただ走って追いかけるだけで獲物を仕留められるだなんて。
「ヒトは、誰もが長距離走者としての資質を持っております。ましてや気温の高い真っ昼間に追われる草食動物はたまったものではございません。ヒトは、他のどの肉食動物よりも獲物を効率的に仕留められるのです」
考えてみれば、二足歩行であれば日光が当たる面積も小さくなります。
例えば今、こんな夏の日差しのもとで走り続けられる生命体はヒトくらいのものでしょう。わたしが当院の外周を走り続けられたのも、ヒトの機能を模倣して造られたからです。
「次に投擲能力。こちらは分かりやすく狩猟に寄与いたしますね」
「はい。石や、先端に鋭利な穂先を差し込んだ軽量な槍を投げることができれば、獲物をもっと確実に仕留められるようになります。高い所に生った果物を落とすこともできますよね」
「イエス。投擲能力もまた、ヒトが持つ特異な能力でございます。弓と矢を発明するまでは、投石と原始的な投げ槍が狩猟の主たる武器でございました。ヒトは、他のどの肉食動物よりもリーチが長いのです」
想像して、ちょっと怖くなりました。
つまり、わたしはアフリカで狩猟ができるということです。逃げる命を確実に仕留められるということです。
わたしは止まり木の療養所から出たことがありませんし、出ることを許されていないので、ありえない話ではあるのですが。
「肉という栄養素の宝庫を効率的に入手するために、人類の知能はより発達いたしました。正のフィードバックでございます」
「……何というか、博識ですね。家政人形って、そんなことまで知っているものなんですか」
「ノー。単に、わたくしの趣味でございます」
「趣味?」
「人類観察でございます。知識人気取りの持ち主の鼻を明かすことにも役立ちはいたしますが」
後者の方が本当の趣味なのではないか、と疑うのは、さすがにひねくれすぎでしょうか。
「ええと……あ、そうでした。走ることと投げることが、その『お嬢様』の奇妙な生活習慣にどう関係するんですか?」
「ヒトは優れた知能を有しております。一等人形造型技師ともなれば、その知能は人類のトップクラスと言って差し支えございません」
「だったら、走ったり投げたりしなくていいじゃないですか。一等人形造型技師なら、それをお仕事にして食べていけばいいんですから」
「ノー。だからこそ、でございます。お嬢様は知能あるヒトだからこそ、狩猟に必要な運動能力を維持すべきであるとお考えなのではないか。わたくしはそのように推測しております」
エリザベスさんの推測には、不思議な説得力がありました。
走ることと投げることは、ヒトの優れた知能を下支えする特徴である。
ゆえに、長く走り、速く投げられなければならない。
「……何だか、人形みたいですね、そのお嬢様」
「興味深いご意見でございますね」
「だって、そうじゃないですか。そうあれかしと造られて、そのように在るだなんて、まるで人形です」
「なるほど。表現は違えど、わたくしと同じ見解でございますね」
「どういうことですか?」
「お嬢様は、生活を人形にアウトソーシングしたくないのではないか。そう考えれば、この奇妙な生活習慣の根本的な動機を説明できます」
「そんなこと……いや、でも……確かに……」
エリザベスさんの推測は、あまりに奇抜でした。けれど、確かに辻褄が合います。
わたしたち人形は、ヒトの下請けです。
ヒトの身の回りのお世話をする家政人形は特に、ヒトの一次請けと言えます。ヒトから用事を言いつかり、用事をこなす。あるいは他の人形へ仕事を依頼する。
シティは、そうやって様々な仕組みが回っていると聞いています。
そういったエコシステムから脱却できる状態を、毎日の習慣で維持している。それも、一等人形造型技師、シティにおける幹部企業の長、シティの保健衛生機関清掃……何課の課長ともあろうお人が。
自身の生活を人形任せにしない。ゆえに、自身が人形のように振る舞う。
ひねくれ者にもほどがあります。
「いかがでございましょう、ハーロウ様。あなた様は、お嬢様に関してどのような感想を抱かれましたでしょうか。率直に、忌憚のないご感想を、是非ともお聞かせくださいませ」
わたしはちょっとだけ考えて、答えました。
「頭、おかしいんじゃないですか?」
「イエス。わたくしもそう思います」
エリザベスさんは、それはもうにっこりと、今の青空のように晴れやかな笑顔を作りました。
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