イリーナさんの白い頬を、ひと塊の涙が滑り落ちていきます。
ほっそりとした顎を伝って、おとがいからぽとんと落ちます。
「ど……どうしたんですか? 何か嫌なこと思い出しちゃいました?」
「大丈夫、です……」
涙があふれたのは一回きりで、すぐにイリーナさんはいつもの伏し目がちな、沈鬱な表情に戻りました。
「ハーロウさんが、笑えることを笑えるのは良いことだって、言ってくれて。それが、凄くほっとして……」
「イリーナさん……」
「ずっと、計算してるんですけど。リソースは、確保できたのに。どうしても何かが足りなくて。いくら本を読んでも、手がかりが無くて。私、駄目な人形だなって。あの時も、今も、ずっと役立たずのままだなって。だから笑ったり泣いたりしちゃ、いけないんだって」
イリーナさんの小さな背に、長い手を回します。大抵の患者さんの肩を抱いてあげられるのは、わたしの数少ない長所です。
「大丈夫。大丈夫ですから。ずっとここにいてもいいんですから」
いつか、この止まり木の療養所から飛び立つ日のために。
わたしたち看護人形はそう誓って、日々の看護に励んでいます。
けれど、少なくともイリーナさんは、まだそのときではありません。
「笑ったり泣いたりしても良いじゃないですか。これは初めてお会いしたときにも聞きましたけど、イリーナさんはどうして本をいっぱい読んでいるんでしたっけ?」
「少しでも情報が必要だから……です」
「それなら、色々な感情を表に出した方が良いんじゃないでしょうか。だって、物語って、読む人の感情を揺さぶるために作られているじゃないですか。感情に共感できれば、もっと多くの情報が得られると思いますよ」
「そう……ですね。そう、ですよね」
わたしは、イリーナさんが抱えている不安や不調を瞬時に解決できる特効薬なんて提供できません。観察・理解・共感を通して、イリーナさんの存在を肯定することだけしか、わたしにはできません。
「ありがとう……ハーロウさん」
「どういたしまして。わたしは何もできませんけど、いつだって当院にいます。ずっと当院にいます。それがお仕事ですし、それが好きですから。だから、何も遠慮しないで頼ってください。できることは何だってやります。できないことは……先輩に頼ります」
ふふ、とイリーナさんがまた笑ってくれました。
何が面白かったのかわたしには全く分かりませんが、笑ってくれるならそれで良いかな、とも思います。
今晩は日勤までイリーナさんにお付き合いしようかな、と思った、その時でした。
不意に、よく通るしわがれた声がかけられました。
「落ち着いたかい」
「――っ⁉」
驚き、わたしは勢いよく立ち上がってしまいました。ひっ、とイリーナさんが息を詰まらせます。やってしまいました。
いつの間にか、杖を突いた白衣のお婆さんと、背の高い男性型の看護人形がコモンスペースに現れていました。
「い、院長先生……と、ラカン先輩?」
白衣のお婆さんは、当院の院長にして閉鎖病棟の看護D班を率いる医師、レーシュン先生。御年は八十を超えているそうですが、背筋はしゃきっと伸びていますし、真っ白なおぐしも乱れなくすっきりまとめられています。
砕けた敬礼で返事をしてくれた背の高い男性型の看護人形は、看護D班のラカン先輩。細っこいわたしとは違い、がっしりした体格です。男性型の看護人形は、頭をすっぽり覆うつばの無い帽子を着用しています。
「バンシューの娘だね」
「こんばんは、院長先生。ハーロウです」
「そうだったね」
「院長先生も夜のお散歩ですか?」
優しげな目の奥に、力強い反射光。じっと見つめられると、心を見透かされている気分になります。
「もう夜更かしできる歳じゃないよ。悪い夢が流行り始めたからね。様子を見に来たのさ」
「悪い夢が、流行り始めた?」
何かの比喩でしょうか?
レーシュン先生はイリーナさんへ近づくと、わたしとは反対側に座りました。ラカン先輩は威圧感を与えないようにするためか、レーシュン先生からちょっと離れて立っていました。
「しばらくだね、イリーナ」
「あ、はい……ご無沙汰してます。レーシュン先生、ラカンさん」
「うーす。久しぶり、イリーナさん。元気……だったら当院から出てるわな」
イリーナさんは元々、レーシュン先生が管理する閉鎖病棟にて、看護D班のお世話になっていた患者さんです。当時の主担当がラカン先輩。
状態が落ち着いたということで四ヶ月ほど前から開放病棟に移り、看護A班が彼女のお世話を担当しています。現在の主担当がわたし。
ラカン先輩からは、イリーナさんへ接する際の注意事項を引き継いでいます。夜を怖がるから気をつけろ。怖い話をするな。等々。
「計算の具合はどうだね」
「うまく、いきません……何が足りないのか、分からなくて……」
「ま、そんなことだろうと思ったよ」
レーシュン先生がわたしに視線を転じました。
「バンシューの娘。ラカンをしばらくお前さんに付ける」
「え? 先輩を、わたしに? イリーナさんに、ではなく?」
「この子の主担当はお前さんだろう。ラカンは閉鎖病棟の知見をお前さんに共有するだけだ」
レーシュン先生はわたしとの会話を打ち切り、再びイリーナさんへ優しく話しかけます。
「イリーナ。焦らなくて良い。お前さんが気づいていないだけで、計算は着実に進んでいる」
「そう……なんですか?」
「そうとも。うまくいかないと感じるのは、計算で得られた候補を棄却し続けているからだ。存外、棄却した経路に最適解が眠っているかもしれない。前提を見直して再検証してみるといい」
「やって、みます……」
違和感を覚えます。患者さんの言う『よく分からないこと』、つまり妄想は、否定も肯定もしないというのが原則です。
レーシュン先生はイリーナさんの言う『計算』が何なのか、理解していらっしゃるのでしょうか。
「どれ、私はそろそろ寝させてもらおうかね」
レーシュン先生は左手に持った杖を突いて立ち上がります。背筋は伸び、足取りも確かなのに、杖を持っているのは妙なことですが。
「あれ、もうお帰りですか?」
「もう見て回ったからね。最後にイリーナの様子だけ見に来たのさ」
イリーナさんは座ったまま、レーシュン先生へ頭を下げます。
「ありがとう、ございました、レーシュン先生」
「ああ。さようなら」
すれ違いざま、レーシュン先生はわたしのナース服をくいっと引っ張りました。ついてこい、ということでしょう。
「すみません、わたしもナースステーションに戻ります。呼ばれてしまいました。イリーナさんはここにいてもいいですし、お部屋に戻ってもいいですよ。ラカン先輩、イリーナさんをお願いしてもいいですか?」
「任された。あ、次の巡回担当に伝えといてくれよ。サボり扱いされたら傷つく」
ラカン先輩はおどけた調子で両手を広げます。
「もちろん伝えておきます」
「よろしく。イリーナさん、隣、いいかな」
ラカン先輩はイリーナさんから体一つ分を空けた所に座りました。大きな体を持つ者同士、相対する者へ威圧感を与えないようにする工夫はよく分かります。大変ですよね。
ラカン先輩にぺこりと一礼。コモンスペースを後にして、レーシュン先生を追います。
バンシュー先生の診察室へ入ったのは、単にコモンスペースから一番手近な密室だから、という理由でしょう。
「失礼します」
引き戸を開くと、レーシュン先生は立ったままわたしを待っていました。
後ろ手に引き戸を閉じます。
「バンシューの娘。昼行灯気取りか、ただの間抜けか、どっちだね」
「ハーロウです。何のことですか?」
コツン、と杖が床を一度きり、軽く突きました。
「イリーナのことさね」
「ええと……イリーナさんが、何か?」
レーシュン先生が眉をひそめます。
「お前さん、バンシューからどこまで聞いてる」
「イリーナさんについてですか? シティ・プロヴィデンスで起きた災害から唯一、生還なさった保安人形さん。PTSDに難儀なさっている。本がお好き。あとは――」
「もういい。つまり何も知らないわけだ。まったくあのボウズ、何のつもりなんだか」
む。途中で遮られてしまいました。ちょっと不満です。
いつもはバンシュー先生が使っているソファへ、レーシュン先生が座りました。
小柄なレーシュン先生が座ると、見慣れたソファが大きく見えます。
どこか投げやりな声で、レーシュン先生が告げました。
「イリーナは今、とても不安定だ」
「どういう、意味ですか?」
「言葉通りの意味さね」
「確かに、不眠症や強迫症は認められます。ですが、他に目立った問題は見受けられません」
目立った問題というのは、例えば錯乱や興奮といった、手がつけられない状態のことです。
「間抜けで節穴か。薬の付けようがない」
どうしてここまで言われるのかさっぱり分かりません。
「もう一度だけ言う。イリーナは今、とても不安定だ。だから目を離すんじゃない」
わけが分かりません。
「わたしが不出来なのはごもっともです。だけど……いえ、だから、教えてください。イリーナさんが不安定って、どういうことですか。先生は何を懸念しているんですか」
一つ息をついて、レーシュン先生は冷たい声で言いました。
「今更だ。お前さんは成すべきことを成すべき時にすればいい」
もう、わけが分かりません。何が今更なのか。何が成すべきことなのか。
ですが、一つだけ分かることがあります。
レーシュン先生がわざわざ閉鎖病棟から開放病棟まで出向いてきたということは、その不安定さは良くない方に転ぶ可能性が高い、ということです。
「……院長先生がご存じのことを話してください」
「今更だと言ったろう」
「話してください。今のイリーナさんの主担当は、わたしです。不十分な情報で、成すべきことを成せと言うのはできない相談です」
わたしは引き戸の前に立ちはだかります。
相手が院長先生だろうと関係ありません。
聞き出すまで、あの杖で叩かれたって動くつもりはありません。
しばらく睨み合ったのち。
レーシュン先生が、ため息を一つつきました。
最低限だ、とだけ前置きして、不吉な言葉を口にしました。
「『シティ・プロヴィデンスの悪夢』について、お前さんはどこまで知ってる」
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