猫と革命のディストピア

ー令和維新前夜ー
伊集院アケミ
伊集院アケミ

第五話「説得」

公開日時: 2020年11月23日(月) 14:10
更新日時: 2023年7月20日(木) 19:50
文字数:2,999

「貴方の願いを叶えるためには、同志たちとの交流を完全に断つ必要があります。私が労役に行ってしまえば、私を道具に使おうとする彼らの企みも自然に消滅いたしましょう。その代り、もし私が無事に帰って参りましたら……」

「貴方のお話は分りました」


 剣乃は悦子の話をさえぎった言った。そして、次の言葉を選ぶような様子で、しばらくの間、じっと眼を閉じていた。


「しかし、貴方は自身の健康と言うものをどうお考えなのですか?」

「健康?」

「そうです。誰にも看取られず、あの中で死ぬかもしれないとしたらどうですか?」

「そんなものが何でしょう? 私の体など、いっそ腐ってドロドロになったらいいのです」


 悦子は、はっきりと答えた。今度は本当に悲しくなって、涙がおのずと流れ出た。


「いけない。貴方はまた興奮しています。そんな乱暴な……」

「乱暴でもなんでも、これしか方法が無いのです」

「そうではない。貴方は自分で死に場所を探して居るんだ」

「だって、何も未来が見えないんですもの……」

「ウソだ! 貴方には、ちゃんと未来が見えているはずです。死ぬる時、死ぬる場所、その方法……。皆、とっく承知してしまっているんだ」


 剣乃は見抜いていた。悦子は決して『計画』を棄てるのではない。彼女は自分の人生を賭けて、自分を焚きつけているのだ。


「悦子さん。僕はむしろ、貴方の未来が不明になってしまうことを望みます。革命なんてどうでもいい。僕が貴方を愛している限りは、この希望の貫徹に向って進むべきです」


 その言葉に、悦子の心は少し揺らいだ。そして彼女は、今日の決心を打明けるに至った経緯を思い返して見た。身にあまる難問がいくつも折り重なってしまったので、たどるべき経路の発見に長い間苦しんだ。


 どうしても棄てることの出来ないのは、水落に来る前に赤瀬川にささやかれた、新たな『国家転覆計画クーデター』であった。


 前回は民意を見誤った。だから今度は、既にそれを受けている全力党と共に、革命を成し遂げる。この「計画」は決して棄てない。棄てはしないが、革命の主導者である剣乃が立たない以上、決起は不可能だろう。だから彼女は、この計画を一番遠くのものにしてしまって、近い問題の整理から考えた。


 罰金のこと、土佐波のことは、労役でカタがつく。問題は、剣乃との関係である。これが彼女には最も至難のものであった。剣乃の血色が目立ってよくなって、晴々とした気分に向ってゆくのを見ると、悦子は性の喜びの前に、全てを投げ出してしまいたいと言う心が湧き出すのであった。


 剣乃を「計画」に引きずり込むか? あるいは全てを破棄してしまって、どこか遠い土地で二人で暮らすか。


 彼が自らの意志で、もう一度、革命のために立ってくれたら、どんなに幸せな事だろう? もし立ち上がってくれるなら、いくらでも自分は道具になるのに。


 悦子は何度もそれを夢想した。吊るされたって構わない。公開処刑の場に二人で立って、大衆の罵声を浴びながら、共に首を刎ねられたいと考えたくらいであった。


 彼女はそれほどまでに、剣乃を愛して居た。この苦悩が、普通の出来事に起因して居るならば、彼女はその原因をうち破って、どうあっても男の傍に居る手段を講じただろう。


 だが、この計画は普通ではない。国家転覆クーデターなのだ。英雄となるか、希代の大悪党となるか、どちらかの道しか二人には残されていない。心身共に回復しつつある剣乃を、その計画に巻き込んでしまって良いものだろうか?


 恋愛――それを犠牲とすることに躊躇すべき理由はないはずだった。それでも女は、恋愛を棄てるに忍びなかった。もし計画を打ち捨てれれば、土佐波が娑婆に戻るまで、少なくともあと数年は剣乃と共に居られるだろう。


 両立すべからざる二つの情願を、どちらも成就させる方法はありそうもなかった。


 もし女が大胆な計画に、もう一層の大胆さを加えて、自身が革命の首謀者になってしまえば、或いは二つの情願が叶ったかもしれなかった。共に蜂起し、共に死んでしまうと言う決心さえ出来れば、革命はならずとも、彼女は満足して死ぬことが出来るのだ。


 しかし悦子は、剣乃にそれを強いることが出来なかった。自分が焚きつけねば、きっと剣乃は立たぬだろう。自身の労役中に同志たちの熱狂が覚めるかもしれない。前回の決起とは違い、今度の「計画」には全力党が噛んでいる。自分たち抜きの革命が成らないとも限らなかった。


 労役からなるべく帰って来て、剣乃の傍で平凡な人生を送る。その夢想にも囚われた。剣乃もその事を一番望んでいるはずだ。そう考えてくる時に、いつも目前に立ちはだかる一つの恐ろしい現実があった。それは病気の問題だった。剣乃はその恐怖を見抜いている。


 彼女は既に左肺を冒していた。『猫の鈴』の構成員で分に、お上がまともな治療を施すはずがない。誰にも看取られずに死ぬ可能性は十分にあったのである。先ほどは強がって見せたが、本当はそれが恐ろしくてならなかった。


 病気で死ぬ位なら、革命の為に死のう。それが無理でも、せめて剣乃の傍で息絶えたい。このような端のない糸をたぐるような考えが、ここ数日、グルグルと悦子の頭の中をめぐっていたのであった。


「まだ本当に決心した訳ではないのです」


 実際、先ほど剣乃に打ち明けた時でさえ、本当の意味で決心がついていた訳ではなかった。「死ぬ」と叫んで相手の気を引く。心を病んだ女にはよく見られる光景である。だが剣乃は、悦子には本当にその覚悟があると信じてしまった。そして、その計画を止めてしまえと折檻をした。


 しかし、革命を棄ててしまえば、自分は「ただの女」となることを悦子は知っていた。剣乃はまだ前妻を愛している。彼女がまだ闘争を続けているからだ。二人が寄りを戻すのを見るのは、きっと死ぬよりも苦しいに違いない。革命が成るか、自分の命が尽きるその日まで、胸の中の革命の炎を消す訳にはいかないのだ。



「貴方は私を、どうなさろうと言うお積り?」


 女の言葉の調子はやや荒々しかった。


「どうしようとも思いません。僕はただ、貴方に平穏を与えたいだけです。信じてください」

「そんなもの、私には必要ありません。私は革命家として闘います。最後の最後まで」


 こういった女の脣は、微かに震えて居た。


「貴方は私の言うことを誤解して居ます。労役で罰金を清算する。それもいいでしょう。私はただ貴方の体を心配しているんです。病気を放置され、獄中で命を落とした同志は大勢いるではありませんか?」


 悦子は革命のためなら、簡単に命を捨てる。だが、無駄死にだけはしたくないと恐れていることを、剣乃はとうに見抜いていた。


「毎晩の様にうなされて、寝付けば滝のように寝汗を流し、熱だって時々出ている。そんな体で労役に行って、本当に耐えられるとお思いですか? 向こうだって、済むものなら金銭の方が良いのです」

「それはそうかもしれませんが……」

「悦子さん。金銭で貴方を無駄死にさせずに済むのなら、僕は何とか工夫をして見たいと思います」

「どうやって、お金を作るお積りです?」


 悦子は尋ねた。縋るような気持だった。


「赤瀬川さんに、頼んでみます。私が勝手に工面するのです。僕は、貴方の心をどうしようとは思わない。でも、もしお金が出来たなら、貴方の身体は私に任せてくれてもいいでしょう?」

「はい……」

「話はそれで一段落だ」


 剣乃は立ち上がってそういった。女の心を転じさせるには、それしかなかった。


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