「君が僕を捨てることはあっても、僕が君を捨てることはありません」
「信じられません」
「何故?」
「私が洋子さんに勝ってるところなんて、何一つないもの……。貴方に抱かれているときだって、愛情を感じたことなど、一度もありません」
女はだんだん自棄になって、泣きくずれた。剣乃の方も真顔になった。癇癪を起している女性に対して理屈をいっても仕方のないものだが、それでも黙って居ることが出来なかった。
「愛情がどうのこうのって、そんなことを言うのはおかしいじゃないですか。僕がいつ貴方に背きました?」
「えっ?」
「洋子とは、幼い頃から家族同然に付き合って、同じ師の元で学んだのです。こうして別れ別れになってる事は、彼女の本意ではないでしょうよ」
「ではやはり、私をお恨みなんじゃないですか!」
「違います! 貴方と共に暮らす事を決断したのは僕です。女性として愛しているのは貴方だけだ。ですが……」
土佐波が逮捕された後、最初に接触を図ったの剣乃の方であった。当時の彼にはまだ金があり、同志の妻を助けるつもりで、悦子の生活の面倒を見ていたのである。だがそのうちに、二人は本気で愛しあってしまった。最初から、全く邪な気持ちがなかったかといえば、自信はない。
「自分の妻だ」と土佐波から悦子を紹介された時、微かに胸がうずいたのを、剣乃はしっかり覚えていた。二人は今やお上に付け狙われているだけでなく、同志たちからの軽蔑も受けていたのである。
「君と一緒になるために、僕がどれほどの犠牲を払ったか、よく御承知でしょう? 貴方は土佐波も承知の上だとおっしやったが、本当のはどうだったんでしょうか? 僕にはよく分からなかったのです」
剣乃の声は、しわがれた中にも熱を帯びて来た。
「君と連名で、土佐波へ発信した事があったね? 投獄された彼に比べれば、今の僕の狭い自由もまだマシな方で、彼は手紙を書く事すら容易に許されない身でした」
『略奪者め! 反革命の裏切り者め!』
ある時、こう薄墨に書いた葉書が届いたのである。剣乃は、真っ赤に熱を帯びた銑鉄を掴んだ様な気持ちであった。
「友に背き、組織を売った。そう思うと、胸が張り裂けそうな気持になります。それでも僕は、今の生活を選んだ。それから僕の困窮が始まり、沢山の人たちが僕を中傷しました。同志の妻を掠めた男、権力に買収された売女だとまでね」
剣乃の行動の自由は、旅館から一キロ四方に限られていた。しかし、組織の指導者であったにも関わらず投獄を免れた彼は、多くの同志から官憲との司法取引を疑われた。彼らの殆どは投獄されたか、今だ逃亡生活を続けていたからである。
「祖先の遺産を食いつぶし、貴重な蔵書や美術品を売り払い、ついには自宅までも処分せねばなりませんでした。それでも僕は、貴方を裏切りはしなかったでしょう?」
ふり落ちる涙を払って、剣乃は言葉を続けた。彼には、扇動者としての素質が確かにあった。今や主客が、完全に逆転していた。
「自由が『猫の鈴』の信条です。貴方が僕から離れようと、僕は何も言いません。もし妻と言う言葉が従属的な意味を持っているとするなら、貴方は僕の妻ではない。僕は貴方の人格を、一人の女性として、これまでずっと尊重して来たつもりです」
自らの言葉に酔い、その言葉に殉じる心がなかったとしたら、彼は悪質な詐欺師と何ら変わるところがなかっただろう。しかし、彼の真心は本当だった。同志たちの軽蔑を受けようとも悦子を傍に置くことを決めたのは、彼女に従属を強いるためではなかったのである。
彼女を官憲の監視下に置き、いまだ武力闘争を諦めぬ『猫の鈴』の過激派たちと完全に手を切らせるつもりだったのである。だがその気持ちは、悦子には全く届いてはいなかった。
「もう疲れました。今は二人とも、軽からぬ病気を抱いています。私たちは一体どうなるのでしょう?」
少しばかり落ち着いた悦子が、彼にそう尋ねた。
「だからこそ、僕らは助け合う必要があります。弱い人たちを救うためには、先ず僕たちが強くならねばならぬのです」
「そうでしょうか? 革命の成就のためには、私たちが率先して犠牲になるべきではないのですか?」
「確かに、いざという時には、我々が率先してそうあらねばならない。しかしそのためにこそ、今はお互いを労わり、心身の健康を取り戻すことが第一なのです」
その言葉とは裏腹に、彼の目の中には、今だ革命家としての焔がくすぶっているように、悦子には思えた。そして訳もなく、ただ悲しくなってしまった。こんな風になるはずではなかったのだ……。
コロナショックで経済の基盤が完全に崩壊し、それまでの常識が常識ではなくなった。政府への不満が高まり、各地で都市封鎖が行われ、戒厳令の発動までもが検討された。【戒厳】とは国民の権利を制限し、行政権・司法権の一部を軍部の指揮下に移行することをいう。
だが、この国を戒厳下に置くことは、自衛隊を軍と認めさせるための大きな足掛かりにもなる。彼らの蜂起の本当の狙いは、現政府の打倒ではなく、実際に戒厳令を出させることにあったのだ。
「『猫の鈴』の蜂起は、決して自暴自棄なものではなかったと思います。勿論、それは犯罪ですが、少なくとも、憲法改正を願う国民の支持は得られるはずでした」
「その通りです。だからこそ、僕も支援しました。大事なのは、自衛隊という暴力装置を手に入れる事であって、血を流すことではないですからね」
実際、防大出身の青年将校たちや、自衛隊の国軍化を狙う政治家たちからの密かな支援が、『猫の鈴』という組織を支えていた。中でも、最も熱心にその活動を支持し、過激な言動を繰り返していたのが【徒呂月】という男である。
青年将校たちのカリスマであった彼は、自身の管理下にある自衛隊の精鋭部隊を動かすことを幹部たちの目の前で公言し、同志たちの士気は上がった。革命の火は、今にも立ち上るかのように思えた。
戒厳下の東京で徒呂月が決起すれば、国家転覆すら不可能でなくなる。たとえ破れようとも、自分たちに続く者が出るはずだと、組織の皆が思っていた。『猫の鈴』の蜂起は内乱ではあったが、中共の支援を受けたものではなかったのだ。
だが、彼らの起こした武装闘争は国民からはまったく支持されなかった。彼らは新たな給付金にしか興味がなかったからだ。約束通りに徒呂月が立つこともなく、同志は次々と官憲の手に捉えられ、剣乃自身も逮捕された。
『猫の鈴』は、戒厳令を実際に発動させるという、最低限の目的すら果たせなかったのである。
「いいですか、悦子さん。命は捨てるためにあるのではありません。『抗う』ためにあるのです」
少し落ち着いた悦子の前で、剣乃は優しく、そう諭した。組織への多額の献金が内乱幇助と見なされ個人財産の全てを奪われたが、それでも彼は、革命そのものを捨てた訳ではなかった。
「抗う?」
「そうです。革命を完遂するためにこそ、我々はまず体を直さなければなりません。ねえ、もういいでしょう? また神経が昂るといけない」
悦子はその言葉を受け入れた。剣乃に抗っても何にもならないからだ。だが彼女は、国家に対して抗う事を、今だ諦めてはいなかった。剣乃の心の中には、今だ革命家としての焔がくすぶっている。その焔に、自分が火を付けなければならない。
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