猫と革命のディストピア

ー令和維新前夜ー
伊集院アケミ
伊集院アケミ

第六話「屈辱と激励」

公開日時: 2020年11月24日(火) 03:51
更新日時: 2023年7月9日(日) 12:36
文字数:3,234

 その翌日、剣乃は見張りの監察官を伴って、東京の教団本部へ出かけた。監察官は中に立ち入る事はしなかったが、彼の逃亡を阻止するために周到に準備をしていた。黒い服の人々が、本部の周囲をびっちりと取り囲んでいたのである。


 危険を顧みず集まった同志たちは、疑り深いまなざしで彼を迎えた。


「政府から出して貰ったらいいでしょう。貴方は彼らに気に入られているようだから」


 剣乃の話を聞いた徒呂月は、吐き捨てるようにこういった。かつて、水魚の交わりであった二人の仲は、今では急速に冷え込んでいた。『猫の鈴』の指導者でありながら、武力闘争を否定する剣乃の態度に、内心腹を立てていたのである。


 剣乃の方にも言い分があった。約束通りに都呂月が立っていれば、蜂起はこんな簡単に鎮圧されなかったはずだ。それは再起の為の戦力温存であり、赤瀬川の同意も得たものだったが、剣乃の方には梯子を外されたという思いがあった。


 同志たちの対応はまちまちだった。正確に言えば、剣乃に対して不利であった。革命の指導者であったにも関わらうず、裁判で執行猶予が付いたことで、「自らの保身のために、組織を売ったのでは?」という疑惑が同志たちの間で広がっていたからだ。


 破壊活動の実行部隊の中には、悦子のような素人だけでなく、徒呂月が密かに放った元陸自の連中も大勢いた。徒呂月自身、起訴こそされなかったものの、今だ『猫の鈴』への関与を強く疑われている一人であった。


「一度しか抜けない剣をいつ抜くか?」


 実際彼は、『猫の鈴』のテロ行為が国民の支持を得られるようであれば、自身の部隊を動かす気でいた。彼は慎重に事を見定めていたのである。


「お題目を唱えていても仕方がありません。あの時とは状況が違う。貴方が暴力革命の旗を振って最前線に立つというのであれば、我々も力を貸しましょう。それとも、執行猶予が明けねば駄目ですかね?」


 徒呂月はそう挑発した。剣乃は血のにじむ思いでこの恥辱に耐えた。この汚名は、何としても濯がねばならぬ。だが、今の目的は、悦子の罰金を借り受けることだ。余計な争論をひき起すまいと、忍耐の上にも忍耐を重ねたこの日の苦痛は、彼の骨身に染みわたった。


 赤瀬川には、もういい出すことが出来ない程、たくさん世話になっている。けれどもやはり、この人に縋る他はない。自分には小菅で脱稿した獄中記と、水落で新たに書いた集産主義に関する草稿がある。それを担保に入れるから、前貸りをさせてくれと頼んでみた。


「私は今でも、貴方を我々の指導者だと見なしています。原稿を買えと言うんなら、買いもしましょう」


 赤瀬川は、前後の話をよく聞きとった上で、こういった。


「ですがその金が、悦子を救うために使われると言うのなら、この話はお断りせねばなりません」

「何故ですか? 彼女は自身の命を賭けて、僕の仕事を支えてくれてます」

「わからぬというなら説明しましょう。私と貴方は、義兄弟の盃を交わした仲だ。歳はが上だが、私は貴方の事を兄だと思っている。だからこれは、弟の心からの忠節だと思って聞いてください」

「はい」


 そういうしかなかった。剣乃は相場の運用益から何十億もの金を『猫の鈴』のために上納してきたのだが、今では完全に立場が逆転していた。


「この際、悦子を労役にやるべきです。私はあの女を君から切り離すために、これまでわざと送金の仕事をさせてきたのですよ。貴方が男子としてこの上もない汚名を着せられて居るのも、元はといえば悦子の所為じゃないですか?」

「その事は、なんとなく分かっていました」


 剣乃は何とかそれだけ言った。前妻への送金を、悦子が平常な心地でやれるはずがないからだ。


「私は今でも、貴方の事を信じています。しかし、あの女が土佐波を裏切り、君の下に駆け付けたせいで、沢山の同志が『猫の鈴』から離れてしまった。執行猶予だけなら、何とでも説明がついたのに……」


 その点に関しては、剣乃は何の反論の材料も有していなかった。悦子の美貌と、革命に邁進する無邪気さに惹かれ、援助を申し出たのは自分の方だ。そこに邪な気持ちがなかったとはいえない。悦子に責任を擦り付ける訳には行かなかった。


「貴方の生涯の事業を、あの女がふみにじってしまったのです。率直に申し上げるが、私は貴方があの女と距離を置かない限り、これ以上の援助を与えるつもりはないですよ」


「支援を断つ」とまではいわないのが、せめてもの情けであるように、剣乃には思われた。


「あの女が貴方の傍にいることで、貴方を狙う同志すらいる。それでも、どうしても手放したくないというのなら……」

「組織のために、もう一度私に立てと?」

「その通りです。貴方には、何としても再起して貰わねばなりません。そのための援助ならいくらでも致しましょう」


 無論、赤瀬川とて、悦子一人が悪い訳ではない事は承知していた。だが『猫の鈴』の再興のために、これ以上、剣乃を汚すわけにはいかない。同志たちの怨嗟は、全て悦子に背負ってもらう必要があった。


「汚名返上の絶好の機会が到来してるじゃないか? 洋子も君の事を怒ってはいない。君が組織のために立つというのなら、大いに力にならせてもらおう」


 徒呂月がそう口を挟んだ。


「そもそも、あの女が君の傍にある間は、とても心の平和なんて得られはしないよ。勿論、この国の革命もだ」


 たとえ幾百の不満があろうとも、剣乃には同志たちの忠告に言葉を付き返すことは出来なかった。彼らの支援がなければ、明日の飯にも事欠く立場なのだ。


「もう一度、よく考えてみます」


 何とかその一言を口に出した。


「せっかくここまで来たんだ。金は渡せないが、代わりにこれを持っていきたまえ」


 赤瀬川は懐から小さな機械を取り出すと、それを剣乃に渡した。小さな通信機のようだった。


「これは?」

「これがあればお上に通信を傍受されることなく、今この瞬間にもすべての同志たちに号令をかけられます。いまだ、逃亡中の者たちも含めてね。君の妻である洋子が開発したものです」

「洋子が……」

「もっとも、一方的に支持を伝えるだけで、会話は出来ないがね」

「それでは意味がないのではないですか?」

「あるよ。君は天才だが、自分の価値をまったく理解していないようだね」


 赤瀬川はそう言って、煙草を燻らせた。


「同志たちは皆、君の掲げる集産主義の理念に共感したからこそ、テロ行為に加担したのだです。君には、彼らをそう仕向けた責任があるのではないですか?」


 その責任については、彼も自覚していた。悦子が今おかしくなっているのも、多くの同志が投獄されたり、逃亡生活を続けているのも、すべては自分が革命を煽り立てた所為だ。だが、どうしたらその責任が取れるのか、剣乃にはまったく見当もつかなかった。


「相場を奪われた今の僕は、愛する女の労役の金すら工面できない無力な人間です。再起なんてとても……」

「それは違う。君はまだ価値を失ってはいない。ただ気づいていないだけだ」


 彼の心を見抜くかのように、赤瀬川がそういった。


「ここで止めたら、君は大勢の人間の運命を狂わせたただの扇動者だ。大事なのは、正しくある事ではない。目的を完遂することだ。理念で動かない人間は、結局、金と暴力で動かすしかないと思わないかね?」

「金と暴力……」


 暴力はともかく、金の力は剣乃がずっと否定してきたものだった。確かに彼は、ずっと相場の世界で金を稼いできたが、それは自身の能力や、信じる理念の価値を衆人に理解させたいからである。金そのものを欲しいと思ったことは、一度もない。


 だからこそ、自身の相場に不必要な金は、全て組織のために貢いできたのだ。


「天は人に、その才能を最大限に発揮することを望んでいます。天賦の力を与えられていながら、自身のためにしかそれを使わない者が、本当の悪党です。そうではないですか?」

「はい」

「天が貴方に与えた本当の能力は相場ではなく、扇動者としての力ですよ。つまり言葉だ。そして、それを紡ぐのに、金は大して必要ありません」


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