「悦子さん。そんな怖い本読んでないで、昨日、赤瀬川さんから来たお金から、例の物を送ってやって下さい」
剣乃は何の気なしに悦子にいった。座卓に頬杖しながら、『腹腹時計』(かつて、『狼』と呼ばれたテロリストたちの副読本である)に読み入って居た彼女は、顔をあげて剣乃の方を見た。かけられた言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「洋子への送金ですよ」
剣乃は重ねていった。
「分かりました」
悦子は少し不愉快に感じた。自分が既に理解している事を、剣乃が押しかぶせて来たように思われたからだ。
「それは私の仕事の一つでしたわね。貴方にいいつけられた……」
静かな怒りがこみ上げて来た。悦子は佇まいを直しながら、男の正面を向いた。
「こんな残酷な……」
そういって、彼女はかすかに笑った。頬のあたりにいくらか血の気が上って、笑ったあとの眼の中には暗い影が漂って居る。
「一体、どうしたと言うのです?」
剣乃は執筆を止め、女に尋ねた。
「奥様へ送金することは、私の仕事の一つでしたわね? 先妻の洋子さんへお手当を差上げるのが……」
「それが、残酷な仕事だと言うんですか?」
「そうじゃないでしょうか?」
「私と洋子の結婚は、形式上のことです。貴方だって、これまで何もおっしゃらなかったではないですか」
「ええ。ですけど、腹が立つものは立つのです」
悦子の感情が段々と昂って来るのが見えた。何か言えば言う程、激昂の度合いは増すのだろう。剣乃は何もいわずに、女の様子をただ眺めていた。女は既に泣いていた。
最初の蜂起の失敗後、同志・土佐波の妻であった悦子は路頭に迷い、いつしか剣乃と恋仲になった。しかし、その悦子こそが、今では彼の精神を逆なでする、最も苛烈な存在なのである。
「離縁した女に、どうしてそんなに優しくするんですか!?」
悦子は声を震わせながらそう叫んだ。涙は既に止まっていたが、苛らだつ神経はまったく鎮まりそうもなかった。
「そんなことを言ったって、仕様がないじゃありませんか? 赤瀬川さんとの約束なのです」
二人がこの水落旅館で暮らしだしてから、二ヶ月近く経つ。今日まで、この仕事は何の問題もなく成し遂げられて来たのだが、今日は、ほんの些細な行き違いによって、悦子に堪えきれぬほどの悲しみを与えたのであった。原因は勿論、前妻の洋子の存在である。
彼女はいま、国分町にある『第四の市民』という名のアンティーク・ショップの二階に居る。法的には離縁したものの、剣乃はいまだ彼女に対して生活費を送る義務を負っていた。赤瀬川から送られてくる資金には、この先妻に対する支援も含まれていたのである。
「お断りになればいいじゃないですか? 貴方はもう、洋子さんとは離縁されたのでしょう? それなのに、なんだってこんな事を……」
「そんな事をいったって、悪いのは僕の方じゃありませんか。洋子は、僕の裁判を優位に運ぶために、何も言わずに離婚届に判を押したのです」
剣乃に執行猶予が付いたのは、彼がテロ行為には一切関与しておらず、『猫の鈴』との関わりを一切絶つと誓約したからであった。洋子との離縁は、それを証明するための手続きの一つだったのである。無論それは、剣乃を獄に落とさぬための赤瀬川の苦渋の決断であったが、その誓約は当然のごとく、同志たちの反感を買ったのであった。
「では、私に原因があると仰るの?」
「そこまでは言ってません。洋子と離縁し、貴方と共に暮らすことを決断したのは僕です」
「ならば、先妻の援助に貴方が絡むのは、おかしいじゃありませんか? 貴方は、『猫の鈴』との関りは一切絶つと宣言して、執行猶予を勝ち得たはずです」
「……」
「私だって、決して安心な身分ではありません。略式で終わったとはいえ、幹部である土佐波の妻で、罰金刑だって課せられたのですよ」
女の言う通りであった。組織の実質的な指導者である赤瀬川も、二人が共に暮らすことには反対していた。しかし、剣乃の精神の安定と、獄中の土佐波からの要望もあり、しぶしぶそれを認めたのである。
「これ以上、僕を困らせないでください。赤瀬川さんに支援を打ち切られたら、ここで一緒に暮らしていけないこと位、貴方にもわかるでしょう?」
赤瀬川は、二人の生活を保証する代償として、今だ逃亡を続ける洋子への送金を命じた。送られた金をある種の暗号資産に変え、洋子のウォレットに送金することが、今の二人に課せられた重要な仕事だったのである。
無論これは、悦子を使うことを前提としたものであった。支援が露呈した場合、赤瀬川は全ての責任を悦子に押し付け、剣乃を守るつもりであったのだ。洋子も剣乃も、『猫の鈴』の再建には必要不可欠な人物である。こんなところで失う訳にはいかない。
「先妻であった。ただ、それだけの理由でしょう? 今は赤の他人。いまだ逃亡を続ける犯罪者じゃないですか?」
「洋子も同志です。悪くいうのは止めてください」
食ってかかる悦子に、剣乃はそう答えた。その表情には、迷惑そうな色がありありと見てとれる。だが女は、そんなことには何ら関心がない。容赦なく、彼の弱みを何度でもついてくる。
「『猫の鈴』の再建を本気で考えているのは、今や赤瀬川さん一人だけです。貴方もご承知の事でしょう? 他の者は皆、前科者か逃亡者か囚人となり、いがみ合って居ります。こんな状態で、今さら何を志すというのですか?」
「その通りです」
仕方なく、剣乃はそう答えた。それは明らかに嘘であったが、悦子を鎮めるにはそういうしかなかった。洋子との結婚は、彼女の仕事を隠蔽するために仕組まれた、仮初のものである。しかし、偽りの夫婦であっても、二人の結びつきは本物だった。二人はかつて、【龍野ソラ】という天才工学者の元で学んだ同窓だったからだ。
ソラの得意分野は燃焼工学であった。彼女はその知見を活かして、カセットコンロや給湯器と言った民生品を発明したのであるが、洋子はそこから更に歩を進めて、爆発物に夢中になったのである。洋子はソラの孫であり、有機化合物の知見に関しては、師のソラをも凌駕していたのである。
だが洋子は、決して殺人鬼ではない。「人命には、最大限の配慮をする」という組織の意向と、自分の仕事が剣乃のためになるという赤瀬川の言葉を信じ、己の天分を尽くしただけだ。
「そうでしょう? 赤の他人の女との間に、何のしがらみも残って居ない筈ですわ。戸籍の上でも、愛情の上でも……」
悦子はようやく少し安心したのか、少しだけ安堵の表情を見せた。剣乃はすかさず言葉を継いだ
「経済上の関係だけは、勘弁してください。彼女は僕の大切な友人でもあるのです」
剣乃の言葉を聞くと、悦子は込み上げる涙を抑えながらいった。
「私が泣いてるのを、嫉妬だけだとお思いですか? 私は頭の悪い女です。家柄だってよくない。もし貴方に飽きられたら、やはり私も……」
「えっ?」
「私はたまたま、お側に居ると言うだけ。使用人と同じですわ……」
「いずれ、私も捨てられる」とでも言いたいのだろうか? ならば、こんな癇癪を起こさねば良いのにと、剣乃はいつも疑問に思う。それでも彼は、この情緒不安定な女を愛さずにはおられなかった。
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