こうしては居られない。進むべき道は、死を賭した一事である。我々は、国民に再び目を覚まさせるための礎となるのだ。
そんな雰囲気が、『猫の鈴』の同志たちを深く包んだ。本物の扇動者は、自らの言葉にも酔う。知らず知らずのうちに、剣乃も過激な言動をするようになった。ものは勢いである。
ある夜、彼の妻であった洋子が、彼にある秘密を囁いた。剣乃は当時、それを諌止することをし得ない程、自らも高揚して居たのであった。
その時の彼の態度が曖昧であったのを、同志たちは『計画』に賛同したものと判断した。無理もない。実際、彼はそう思わせるような態度を示していたからである。徒呂月に対しても、赤瀬川に対しても、彼は同じ様な対応をしてしまった。
同志たちはいつの間にか、共通の意志を持ったらしい。それも剣乃には分っていたが、どうすることも出来なかった。こうして『猫の鈴』のテロ活動は始まり、やがて鎮圧されて、同志たちの多くが投獄された。自身も今は咎人となり、お上の許可なくしては、移動すらままならない身である。
すべては自分である。今もなお水面下で進んでいる、戦慄すべき『計画』を醸造したのは、この剣乃征大だ。自分はその責めを負わなければならない。
進んで身を渦中に投ずるか? それとも、退いてその原因を打ち断ってしまうか?
彼は、この二つのいずれかを選ばなければならなかった。革命が成就すれば、同志たちは皆、咎人から英雄に変わるのだ。
国民の心は金にあるとはいえ、人は正義に酔いたいものだ。国家転覆を果たすためには、大義名分が必要であり、そのためには、なんとしても剣乃に再起して貰わねばならなかった。だからこそ赤瀬川は、今も剣乃に対して援助を与えて続けていたのである。
前回の蜂起とは違い、国民の支持は取り付けつつある。活動資金も、教団の金庫にうなるほど眠っていた。だが赤瀬川は、そこに剣乃の理想主義を何としてでも付け加えたいと思っていた。
この赤瀬川の目論見は、後に現実のものとなる。彼の言葉は、知識層からポピュリズムと揶揄された全力党の綱領にある種の格調をもたらすことになり、『令和維新』をほとんど無血で成功させる一因ともなったのだ。
悦子の機嫌が良かったある日の事、二人は散歩に出かけた。つま先上りの緩い傾斜を作って、山は南の方へ深く延びて居る。まるで鋏を入れたかのような青草の中の小道を、二人は登って行った。
道が頂上に達する所に、一本の松が立って居る。その向うは眼界がひろくなっていて、十日町の全体がすぐ間近に見えるのである。二人はそこまで行って、ビニールシートを敷いて腰を下した。
さわやかな風が、二人の少し汗した肌を心持よく冷ました。起伏する丘陵が、霞の中から初夏の姿を現している。二人は暫く、黙って景色に見入って居た。悦子が突然、こう切り出した。
「私、いよいよ決心しました」
「何をだい?」
「労役へ行こうと思います」
悦子はこういって剣乃の手をとった。その手を自分の膝の上までもってきて、男の指を一本ずつ折るようにして、まさぐった。
「今、決しなくともいい事です」
剣乃はわざと空々しくいった。労役とは、罰金の金額を完納できない者を留置して、軽作業を行わせることをいう。その生活は、懲役囚とほぼ同じである。刑務所や拘置所の中に収監され、作業時間が終わっても外に出ることは許されない。手紙も週に一本だけだ。
「とても罰金が払えそうにありませんし、それに……」
「金なら作る。きっと僕が作る」
剣乃は皆までいわせず、そう断言した。罰金を弁済すれば、悦子はすぐに開放されるが、その資金が今の二人にはない。一円も治めずに済まそうとするなら、四〇〇日は帰ってこられない計算だった。
「色々考えることがありますの。第一、金銭の事でこれ以上、貴方を苦しめたくないんです」
「相場さえ張れれば、それくらいの金……」
剣乃がそう言おうとするのを、今度は女が遮った。
「本末転倒ですよ。貴方は相場操縦で捕まったのです。執行猶予が取り消されては、身も蓋もありません」
そう言って、悦子は少し笑った。久しぶりに見る彼女の心からの明るい笑顔だった。
「それは、まあそうだけれど……」
少しばかり気が削がれた。
「まあ聞いて下さい。私いっつも、『少しは落ち着きなさい』って貴方に叱られましたね? 私もどうにかして心の平和を得たいと思って、色々反省もしたのですけど、どうしてもダメなんです」
「何がダメなんだい?」
「私の心の中には油が沢山注がれていて、それについた火が消えないんです。どんなに水を浴びせられようと、火事の炎が風で煽られるように、その火は勢いを増すばかりなのです」
そう言って、悦子は寂しそうに笑った。
「ここで静かな生活をしていたんじゃ、ダメかい? 革命を捨て、僕と共に老いていく生活じゃ不満かい?」
「不満だなんて、とんでもない。だけど貴方と一緒に居ると、時おり、騒がずに居られないような心地がして来ますの。私には、お傍に居る資格がないように思います」
「資格?」
「私、ダメな女なんです」
悦子はこう続けた。
「爆弾を置いて、建物を壊して、それで褒められる世界があるだなんて、想像さえしていませんでした。革命が鎮圧されるまでのあの二週間が、私にとって、本当の幸せな日々だったと思います。私はどうしても、あの時の気持ちが忘れられないんです」
「……」
「人を殺す訳ではない」といって、同志たちが悦子を道具に使った。悦子が黙秘を貫いた事と、『人の身体を害せんとする目的はなかった』という弁護士の主張が認められて、彼女は起訴されずに済んだのだ。
被疑事実は爆発物不告知罪のみとなり、裁判では執行猶予が付いた。しかし、その罰金を払う資力までは彼女にはなかったのである。
けれども、問題の本質はそこにはなかった。悦子は既にテロ行為の快楽を知ってしまったのである。やってはいけない行為をやって、他人に褒められる快楽。国家転覆に成功すれば、新国家設立の英雄になれるという夢――その妄想に抗える人間は、多くはない。
「私ね、貴方のお傍に居なければ、とうにどうにかなっていたと思います。この二か月間、本当に幸せでした。ありがとうございます」
そういって、悦子は涙をこぼした。
「貴方はまた興奮しましたね。いけません」
剣乃は女の膝から、自分の手をもぎとる様にしていった。
「大丈夫です。私はしっかりして居ります。私が労役に行くということも、結局は貴方のお意思に沿うことなのです」
「僕はそんなこと望んじゃいませんよ」
「いいえ。それしか、私の中にくすぶる願望を抑える手段はないのです。あそこは別世界です。全く世間とは没交渉の場所です。毎日が同じ日々の繰り返しで、何も考えずに体さえ動かして居れば、いつしか時間が過ぎて行く場所です」
悦子はそう言うと、更にこうまくしたてた。
「革命、革命と、どんなに絶叫して居ても、そんな日は来やしないんですもの。いっそ不自由のうちに身を任せてしまえば、却って革命が成るかもしれませんわ」
「脳天気にも程がある! 貴方だって、あの中の空気をよく知っているはずだ!」
剣乃はとうとう、声を荒げてしまった。
「常に薄暗い明かりのついた場所で、十分おきに刑務官が監視に来るような生活の中で、袋貼りや単純作業ばかりしていて気が狂わない訳がありません。貴方はそのことをどうお考えなのですか?」
半ば以上、自分に対して言っていた。無罪で争っていた彼は保釈が認められず、判決が出るまで一年近くも小菅暮らしをしていたからである。未決囚は、懲役囚よりはまともな暮らしが出来るが、それでも娑婆に帰って来た時には、いささか頭がおかしくなっていた。
赤瀬川が温泉での療養を勧めたのも、それが理由の一つだったのである。
「落ち着いて聞いてください。私にはまだ大きな理由があります。夫のことがその一つ……」
悦子はそっと、剣乃の体にひたと身をよせた。
「土佐波が私達を呪っております。私があちら側へ行けば、彼の憤激も少しは和らぐでしょう」
「……」
黙るより他なかった。悦子の方も、今日に限って涙が出ない。ここまで語るのに一滴の涙も出ないことが、彼女には何だか不思議に思われた。ものをいってる人間が他にあって、自分は腹話術の人形に過ぎないのではとさえ思われた。
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