剣乃が、その天賦の才を発揮する場所として、相場はうってつけのゲームだった。彼の分析は大抵正しかったし、彼が「買え!」と叫べば、どんな高値でも買い進む信者たちが、大勢いたからだ。
彼は自身の力を使って大金を稼ぐことで、逆説的に金の価値を否定しようとしていた。いくらでも大金を稼げる自分が、金の価値を否定することで、自身の信奉する無政府集産主義の素晴らしさを、何物にも認めざるを得ないようにしようとしたのだ。
革命組織『猫の鈴』は、国家転覆を図る非合法組織でありながら、自らは権力を求めようとはしない。それゆえに、理念に殉じようとする多数の若者の心をひきつけたのである。
「君は美しくあろうとし過ぎた。しかし、残念ながら、人間というのは、そう言う風には出来ていない。理念のために死ぬ人間もいれば、そんなものには見向きもしない者も大勢いる。君はまず、その事実を認めなければなりません」
「認めればどうなるというのですか?」
「世界を変えられる。今、この瞬間にも」
「一見卑劣にしか見えない行為も、その目的が正しく、最後まで完遂できれば、英雄的な行為として称賛されるのです。君が暴力革命の旗を振ってさえくれれば、その旗の下に集う者は、今でも大勢いるのですよ」
「……」
剣乃はその機械を受け取ったが、赤瀬川の激励に対しては何も答えなかった。しかし、その言葉で、彼の心の中に小さな炎がともったことは、疑いようのない事実である。東京に一泊して、剣乃は水落に帰った。駅で出迎えた悦子は、剣乃の心中を思いやった。
「悦子さん」
剣乃は女の名を呼んだ。極めて改まった声であった。彼は帰ってから、挨拶の外は何もいわずにじっと考え込んでいた。
「僕は貴方にお詫びします。金策の宛もないのに無暗に意地を張って、貴方の決心をさえぎった。事ここに至れば、全て貴方の意志に任せましょう。どうなろうとも、僕は異議は申しません」
悦子はやるせない思いでこれを聞いていた。
「私の決心は、先週から何も変っておりません。それよりも、一歩進めて考えました。私は貴方とお別れしようと思います。今日を限りに」
「一体、どう言う事ですか?」
「言葉通りの意味でございます。私はただ、貴方とお別れしたいのです」
「たとえ労役に行こうと、僕は貴方の帰りをずっと待っていますよ」
洋子との復縁だけはしない。それが剣乃の最後の意地であった。
「私、留守番の間に、じっと考えてみたのです。私が貴方とこう言う関係になった理由を……」
「どんな理由だというのです」
「結局のところ、私たちはお互いに、独り身が辛いだけだった気がいたします。別に愛情があった訳ではないのです」
「とんでもない。貴方と別れる位なら、僕はこんなみじめな気持ちでここに帰っては来ないですよ」
恥の上塗りだと思いつつも、剣乃はそう答えた。
「貴方が昨日、どれだけ辛い目にお遭いになったか、私はすっかり了解しております。だからこそ、お別れした方が良いと思うのです」
「僕に恥をかかせたくないからか?」
「これ以上の事は、今は聞かずにおいて下さい。これ以上話しますと、私は悲しくなりますし、覚悟も鈍ります。訳は自然とわかって来ましょうから……」
「それでは、これ以上の事は聞きますまい。そのかわり、僕も以前の生活に戻ります」
「以前の生活?」
「僕も、貴方たちの計画の中へ加えて貰いましょう」
悦子は驚いた。なんと返事をしてよいかも分らなくなった。ただ黙って剣乃の顔を見つめた。
「僕は昨日、男子として忍ぶことの出来ない汚名を着せられました。ここで立たずして、どうしてこの恥をすすげましょう?」
「それでは、私が労役に行く意味がないではないですか!」
「そうですよ。労役に行こうと行くまいと、僕は貴方がたの計画に加わって、思うことをするまでです」
剣乃の居ない一夜を通して悦子が考えたことは、それとは全く反対であった。自分の為すべき目的と、恋愛との併存がどうしても不可能であるならば、いっそどちらも投げ捨ててしまおう。それが彼女の決断だったのだ。
あの人は、本来学者だ。真理を突き詰めるのが好きなのだ。私が傍に居るから、世間の評判も悪くなってしまったけれど、私が労役に行けば誤解もとけ、同志たちの嘲笑も消えるだろう。少なくとも平穏無事の生活が、あの人の理性を取り戻させ、未来を輝かせるに違いない。
ここまでまとめて、悦子はほっとした。剣乃が帰って来たら、これに基いた相談をしようと決めていた。そしたら思いがけなく、剣乃が立つという。
「貴方は、ここで死ぬべき人ではありません。貴方は新しい世界を作るために必要な人だ。上手く行くかもわからぬ『計画』に巻き込まれるべきではないのです」
悦子は何とかこれだけ言った。当初の目的を投げ打って、この場所を離れる。これがやはり、彼にとっては最も良い選択である。そう考えて、ようやく決心したというのに……。
「もういいのです。残り幾ばくもないでしょうが、二人で革命に生きましょう。きっと皆も許してくれます」
剣乃は言った。悦子は昂った男の言葉を遮って、自分の本心を打明けようとも思ったが、それが果して良い事なのか、判断がつかなかった。
「もし失敗しても、僕らは何ら恥じることなく、自分の人生を全うすることが出来るのです」
「それでは駄目なのです! 貴方は勘違いをしています。私は計画の遂行のために、お別れするのではありません。計画そのものから、離れてしまうんです。自分の命が惜しくなったのです」
「貴方まで私を軽んじるのですか! 貴方が『計画』と別れる? 馬鹿なことだ。誰が信じるものか!」
剣乃は叱るようにいった。
「本当です! 私はあの計画を放棄しました!」
「では、どうするというんです?」
「ですから、労役に行きます。もしお勤めが終わるまで命が持ったとしても、組織にも、貴方の元にも、絶対に戻りません」
死ぬ。それより他はないと思った。私が死ねばこの人は救われる。革命からも、同志からの侮蔑からも。たとえどんなに軽蔑されようと、私は貴方を助けなければならないのだ。
「冗談はよして貰おう。僕は本気になってるんだ!」
「決して冗談ではありません。牢屋の中で一人身になって、最初から考え直してみたいと思っています。最後の最後に、私は良心を取り戻したのです!」
二人の間に長い沈黙が続いた。何かをしゃべればそれだけ血を流す。そんな雰囲気が二人の周りを包み込んでいた。
「本当に革命を諦めるのですか?」
「仕方がありません。軽蔑なさるなら、そうしてくださっても結構です。それにもう遅いのです」
「遅い?」
「貴方は昨日、同志たちの前で頭を下げてしまわれた。今さら立ったところで、『剣乃は女に煽られてムキになったのだ』と物笑いの種になるだけでしょう。私がお傍に居る限り、貴方の名誉の回復はないのです」
その言葉を聞いて、剣乃は初めて女の覚悟が分かった気がした。
「これで私の心が分るでしょう? それからまた、段々分って来ます。そうしたら貴方は、私の事を可哀想だと思って下さると思います」
泣くのではない、泣くのではない。泣けば決心が鈍ると懸命に堪えて居たが、こみ上げて来る悲痛の涙でもう胸が一杯になっていた。女はそれをまぎらわす為に、ついと立って縁端へ出た。
「……貴方が恋しくてたまらなくなれば、手紙を出すかもしれません。その辛抱が一日続くか、三日続くか。まあ見てて下さいな」
こうと決めたことに向っては、わき目もふらず直進するのが、この女の気性である。殊にこの度のことは、急いで決行せねばならぬのだ。自分が今すぐ消えてしまえば、剣乃の心に灯った焔は、また静かに消えるだろう。この決起は、ここで潰してしまわなければならない。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!