手回りの小道具の始末をしている間にも、時おり弱い心が女の意識の中に現れて来た。同志たちから白い目で見られる結果になろうと、一日でも長く剣乃といたい。それが彼女の正直な気持ちである。しかし、彼女は自分の気持ちを押し殺して、あくる日の朝までに、すっかり仕度を終えてしまった。
「もうすっかり、準備が出来ました」
剣乃の方は、昨夜からずっとイライラし通しでいる。これっきり悦子を手放してしまって、それからどうなることだろう? いくら考えても判断がつかなかった。たった一つの希望は、女の心の変化を待つことであった。
支度をして居るうちにも、「やはり貴方と一緒に居たいです」と言い出すだろうとも思った。同志たちの侮蔑を受けても良い。もしそういって身を投げだして来たら、両手でしっかり抱きとめてやるつもりだった。
だがその言葉は、一向に悦子の口から洩れそうにもない。再び灯った革命への意志も消えかかっていた。仮に革命が成ったところで、この女が傍に居ないのなら、一体何なろう?
「私、女将にお別れの挨拶をしてきます」
「あの……」
このまま自分が引き止めなければ、悦子は行ってしまう。この確かな未来が、剣乃の前に来てぴたりと止まった。剣乃はそれを払いのける勇気もなくなっていた。
「何か?」
「いや、後でいい」
「もう後なんてないですよ」
そういって、悦子は下に降りて行った。剣乃は投げるようにごろりと横になった。直ぐに女は帰って来る。後から女将さんも付いて来た。
「この子が居なくなったら、旦那様はお寂しいでしょうなあ……」
女将は縁端に腰をかけながらいった。まだ籍は入れてないが、いずれ夫婦になるのだと言ってあった。
「女将さん、どうぞこの人を宜しくお願いします。私も病気の工合がよくなれば、直ぐに帰ってきますから」
「私どもで出来ますことは、何でもさせていただきます。戻りたくなったら何時でも戻って来てください。下の娘は当分帰ってきませんから」
女将の娘はハナヱという名で、今は地元を離れ、東京で小説を書いている。それで剣乃は、悦子にその名前を名乗らせ、地元に戻って来た女将の娘という設定で、剣乃の世話をさせていたのだった。
「それでは、車を呼んで来ましょう」
草履をぱたぱたさせて、女将は出て行った。
「今までご迷惑をおかけしました。今日を限りに私の事はお忘れ下さい」
悦子はしみじみした調子でそういった。剣乃は答が喉につっかえて出なかった。まじまじと悦子の様子を見つめて、未練を断ち切ることの出来ない自分の見苦しさを恥ずかしいと思った。
「中に入っても、決して無理をしないように。命は大事に使うものですよ」
剣乃はやっとこれだけいった。
「有難うございます。私は私で頑張ってゆきますから」
「言いたい事が沢山ありすぎて、いまは却ってうまく言えません。手紙を出します。君が行ったら、すぐにでも」
「いいえ、いけません。手紙は寄こさないでください」
「それはあんまりでしょう?」
「優しい言葉をかけるほうが酷です」
悦子はぴしゃりと言った。
「貴方の手紙を見たら、私はきっと気が狂います。牢に入った事を後悔して、死にたくなります。私はもう、苦悶を重ねたくはないのです」
「そうですか。では、手紙も書きますまい」
「もう一度考え直して下さい」
本当はそう言おうと思ったのだが、剣乃は口を噤んでしまった。
「いよいよお別れです」
表に車の来た気配がした。女の声は、重いものに押しつぶされたような声であった。
「僕も駅まで一緒にいこう。帰りは歩く」
「そうですか」
あまり嬉しそうな顔もしなかった。剣乃は、女々しい自分の姿を嘲笑されているような気分になった。一緒に下に降りて、女将にもう一度挨拶すると、タクシーに乗り込んだ。
「どこから、僕たちはおかしくなったんだろう?」
山間の道に揺られながら、剣乃は独り言ちた。
「どこからって?」
「『猫の鈴』の蜂起が国民から支持されていたら、僕たちは上手く行ってたんでしょうかね?」
「もし革命が成就してたら、今頃あなたは閣僚の一人です。私の事なんて、まるで相手にしてませんよ。土佐波の投獄から、すべては始まったのですから」
「そうだね」
悦子はそこで一息つくと、こう続けた。
「私がいなくなれば、同志たちの見る目も変わるでしょう。遠慮なく、私を毒婦だとなじってください。実際、ご迷惑をおかけしたのですから……」
そういって、悦子は少し笑った。
「そんなことはないですよ。この二か月間、僕はとても幸せでした。女性と本気で喧嘩をしたのは、貴方が初めてだったと思います」
剣乃の口から、『幸せ』という言葉が望外に出てきた。ずっと相場に生きてきた彼にとって、自分と同じく爆弾製造に生きる洋子は絶好のパートナーのはずだった。だがその夫婦生活に、お互いを奪い合うかのような恋愛の喜びはなかったのだ。
「その一言で十分です。もう何も言わないでください……」
女は静かに泣いた。駅の乗車場がすぐ目の前に来ていた。
十日町駅は、JR飯山線と北越急行の共通駅である。角栄の肝いりで作られた第三セクターで、越後湯沢と金沢を繋ぐ特急「はくたか」が稼ぎ頭だった。国内最高の百六十キロメートルの時速を誇り、国鉄由来の第三セクターとしては異例の黒字経営を続けていたが、新幹線が開通してからは顧客を奪われ、駅は一気に廃れていた。
「餞別……」
「いらないです。お金は大事になさってください」
「ちょうど、スノーラビットの時間か……」
「ええ、前もって調べておいたんです」
スノーラビットは、「はくたか」で使っていた高規格な線路を活かした快速列車である。その平均速度はJR西日本の新快速や、本州と四国を結ぶマリンライナーをも上回っていた。
「これを逃すと次は鈍行ですから、この辺で……」
悦子は、握手すらせずに改札に向かってしまった。あんなに愛し合ったのに、別れると決めればこんなものかと、剣乃はほぞをかんだ。時刻は、十四時二十分を少し回ったところだった。
踵を返し、旅館に向けて歩き出した。懐に手を入れると、何かが入ってる。昨日の別れ際に、赤瀬川に渡された機械だった。大きさは煙草ひと箱ぶんくらいしかない。
「通信機?」
「ああ、これがあればお上に通信を傍受されることなく、残っている同志たちに号令をかけられる。いまだ逃亡中の者たちも含めてね。洋子が開発したものだ」
「号令か……」
おそらくは、前線の兵士たちに指示するために作られたものだろう。ただ一方的に指示を送るだけなら、発信者の場所が特定されにくいことくらいは、彼にもわかる。だが、もしこの通信機が本物だったとしても、号令が伝わるのはこの近辺だけだろう。そもそも、仮に号令が届いたところで、今の自分の言う事を聞く同志がいるとも思えない。
だが、頭ではそう考えているにも関わらず、剣乃の手は勝手にスイッチを入れ、その口はかつてのように冷静に動いていた。
「『猫の鈴』の指導者、剣乃征大だ。これを聞いた者は、一四時二十八分発の【スノーラビット】を今すぐ止めろ。目的を達成するための手段は問わない」
勿論、なんの応答もない。この通信機は伝令装置であって、通話を目的としたものではないからだ。反応はなくて当然なのだが、剣乃は少し拍子抜けした。
「いくか……」
再びノロノロと歩き出した。この先の人生に、何の希望もなかった。前妻はいまだ逃亡中だし、悦子も自ら牢屋に入るという。愛する女一人守れずに、何が指導者だ! 何が革命だ!
「皆、消えてしまえばいい」
そう独り言ちた瞬間、剣乃の後方で轟音がとどろいた。そこから更に二発、三発。振り向くと、明らかに事故とは思えない黒々とした煙が、駅の周辺から立ち上っていた。何が何だかわからなかった。
「いやあ、やっぱり爆発はいいなあ。この瞬間がたまりませんよね」
背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。
「洋子」
「お久しぶりです、剣乃さん。ようやく立つ気になったみたいですね」
「じゃあ、あの爆発は君が?」
「違いますよ。私は爆弾を作るのが好きなだけです。人殺しは御免ですからね」
そう言って、洋子は笑った。
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