その日の夜、焼けた肌の熱を持て余して外へ出ると、リクが民宿の庭に設置された小さなパラソルの下に佇んでいた。プラスチック製の白い椅子が2脚と細かい砂粒が目立つテーブルがひとつ。小さい頃は親戚が集まってここでバーベキューをしたのだとアミが話していた。
わずかに波の音が聞こえる夜の静けさの中、わたしの足音に気がついたリクがテーブルを挟んだ向こう側の席を勧めてくれる。遠慮がちに腰掛けるとギ、と椅子が軋む音がする。
旅もすでに4日目。明日昼前にはここを出て空港へ向かい、東京へ帰らなくてはならない。今日、しかない。
「そこから見える?」
「え?」
黙って座っていたわたしの前に細長い腕を真っ直ぐに伸ばして指差す。その先に目をやると寄せては返すきらめきが見える。
「海だ、」
ほんのわずかだけど、建物の間に細く海が見える。コンクリート詰めの枠に縁取られた海は地平線に向かって波を伸ばし、泡となって返ってくる。
「その場所からだけ見えるんだ。俺の秘密の場所」
「綺麗だね」
「でしょ」
彼は少し得意げに笑った。最初に車の中で海を見たときも、こんな目をしていたのだろうか。水底が透けるような、綺麗な瞳。わたしはまたわけもなく恥ずかしくなって咄嗟に言葉を探す。
「うちからも見えるよ」
「うちから?」
自分の言葉が足りなかったことに気づいて慌てて付け足す。
「あ、海じゃなくて、東京タワーなんだけど。わたしの部屋のお風呂の、小さい窓からほんの先っぽだけ、見えるの。それを思い出して」
「東京タワーか、」
リクがつぶやいた。月明かりでまつげが頬に影を落とす。
「いつか見てみたいな。俺、ここを出たことがないんだ。店も一年中やってるから、遠くへ旅行ってちょっと憧れ」
囁くように聞こえてくる波の音ほどのリクの声。伏せられた目がどこか寂しげに光っていた。
「どこか別の場所へ行ってしまいたいって、思わないの?」
「思ったことは何度もある。でも、俺はここで生きていくから」
わたしもひとりだったら、きっと遠出して海を見に行くなんて夢の中の出来事だった。行こうとすればいつだって行けるのに、東京の狭いワンルームからから動けないのがわたしだと思っていた。
彼にとっては、ここがそうなのだ。
「ミホは?」
そう問われて、頭の中にぽつりと東京タワーが浮かぶ。実際にアミに連れられて美しい海のさざなみを聞いたところで、自分はどこへでも行けるだなんてこれっぽちも思わなかった。
言葉少なな夜の静けさに包まれながら、時々何か言いたげな視線が漂ってくる。しかしそれが言葉になることは決してなく、遠い波間に掬われて消えた。きっとわたしも同じ目をしているだろうとわかって、吸い込まれるように月の光の入ったリクと目があった。
わたしたちは、似た者同士だった。
それが視線を絡ませるとよくわかる。熱っぽくて、でも形にはならず、淡いままで消えていく。まるで波のように幾度も寄せては返すが、決してその形が重なり合うことはなく、ただ微笑むだけで張り合いのないにらめっこのような。
リクもわたしも、いくじがないのだ。
「暑いね、」
「もう少し涼んでいきなよ」
そう話しながら触れ合った指先は焼けるみたいに熱いのに離れがたく、重なった手の間でざらつく砂粒を払うことさえ躊躇われた。
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