彼をすきになるまでに、そう時間はかからなかった。
わたしたちが宿泊したのはアミの親戚が経営している民宿で、リクはそこの家の長男としてあれこれと世話を焼いてくれた。あとから話を聞いたら来年大学を卒業したら店を手伝うことになっているらしく、実質跡継ぎのようなものだそうだった。
リクは民宿から少し離れた歓楽街まで車で送り届けてくれたり、夏休み中でも人の少ない綺麗なビーチへ案内してくれた。憧れの美しい海にはしゃぐわたしたちのうしろでリクはいつも静かに笑っていて、その小麦色に焼けた頬の薄さを見るたびに、わたしはくすぐったいような不思議な気持ちになる。
彼は瀬戸内の海や浜辺、趣のある静かな民宿の雰囲気の良さを褒めると、とても嬉しそうな顔を見せた。普段は控えめな表情の裏に隠れていたものが露わになって、ひとつ年上だと言うのに無邪気さすら感じられる。特にあの瞳、普段は静かにふせられた目に光が入るとキラキラと輝き、布団の中に潜るたびに瞼の裏で繰り返し思い出された。
アミはリクがしてくれることのひとつひとつに少し大げさな笑顔を作り、耳元で何かを囁くみたいに親密そうな距離感で並んで歩いてく。その光景が夕陽色に染まるビーチに溶けるみたいにぼやけるから、わたしは彼がすきなのだと自覚した。
*
楽しみにしていた旅行も残りわずかに迫ってきた頃。今朝も「海に行きたい!」とリクエストしたアミとわたしを迎えにきたリクは、小脇にスイカ柄のボーチボールを抱えていた。
3人で海に繰り出し、照り返しのきつい浜辺にサンダルの跡をつけていく。足の裏に入り込んだ砂粒を浅瀬に流すと、全身の熱がすうっと落ち着いていく気がする。
アミが長い茶髪を後ろ手に結ぶと大人っぽい顔がさらに引き締まって、黒の水着もより映えて見える。背も高いのでさながらモデルみたいだなと思っていると、昨年買ったオレンジ色の少し子供っぽい水着の自分が恥ずかしくなる。せめて新調すればよかった。
リクは相変わらずのチノパンと白いTシャツ、痛みの目立つビーチサンダルで浜辺へ出た。わたしたち以外にも何人かの先客がいたが、来る途中に見たどのビーチよりも人が少なくて快適だった。
わたしたちはリクの持ってきたビーチボールをぽんぽんと投げ合って遊ぶ。3人だからチーム分けはできないねと話していたが、そのうちに「飲み物買ってくるよ」と言ったリクが抜けてアミとふたりきりになる。
ちょっと疲れたね、とどちらからともなく日陰を探して座り込み、海水と汗でべとついた肌がわずかに赤くなっているのを眺める。日焼け止めを塗り直さないと。そう思っているとアミが唐突に口を開いた。
「わたし、リクが初恋なの」
その言葉の衝撃に頭の半分がもやがかり、もう半分ではバッグのどのポケットに日焼け止めクリームを入れたかなと考えていた。薄々そんな気はしていたし、きっとわたしにも話すだろうと構えていたから大きく驚くことはない。しかしその反面で、どうか気のせいであってほしいとも思っていた。
こういうとき、わたしも自分の気持ちを打ち明けるべきなのだろう。だけど思いがけず訪れた最適のタイミングに戸惑い、「すき」という言葉が喉につかえる。無理やり出そうとすれば海の波間に飲み込まれてしまいそうだった。
そのうちに痺れを切らしたようにアミがポニーテールを結び直しながらはっきりとした声音で「今でも」と付け足した。
何も言えずにうつむくと、淡いピンク色に塗った小指の爪が少し欠けている。それを見て気だけが焦っていると、いつの間にかリクが戻ってきていた。
アクエリアスのペットボトルを抱えたリクに、アミが「喉乾いた~」と気の抜けた声を出して何事もなかったように腰を上げる。アミは友達だけど、わたしは彼女のこういうところがきらいだった。
ふたりが波打ち際でペットボトルを開けながら話している。楽しそうだ。わたしもその輪に加わって、リクから海のような色をしたドリンクを受け取る。キャップを開けて少し泡立った部分ごと口をつけると、急に視界がひらけたみたいに身体中が潤っていく。喉につかえていた「すき」もぽろりと取れて、口の中に溜まる。
「ねぇ、リクも海に入ろうよ」
そう誘うと、彼の綺麗な目がわたしを見た。リクは水着を着ていないので、足の甲が水につかるほどのところまでしか入らない。わたしもアミがしていたみたいにリクの腕を取りたかったが、うまくできずに服を引っ張るような形で飛沫の強い方へ進んでいく。
ふたりきりになれば言えるかもしれない。ただ見ているだけはもどかしい。淡い期待と水に沈んだ砂が足をとる。
「わっ、だめ、」
リクの慌てた声とざざっと上ずった波の音が重なる。一際大きな水飛沫がふたりを縁取ったかと思うと、勢いよく地面に打ち付けた膝に広がるじんわりとした痛みがぬるい海水にさらされた。リクの履いていたベージュのチノパンも暗く陰ったように色づいていく。
目が合うと、彼は笑っていた。いつもの静かな笑みじゃない。声を上げて目尻にシワを寄せた顔が、胸の奥を熱くさせる。
リクはわたしの頬についた湿った砂を指で拭い取ってから「立てる?」と手を差し伸べてくれた。濡れた彼の頬に赤が透けている。
海水で吸い付く手に引かれて立ち上がると、うしろでアミのポニーテールが揺れていた。口の中にあった「すき」は転んだ拍子にどこかへ落としてしまったみたいで、わたしはぐっと唇を噛みしめる。そのかわりにわたしの手を強く引いたリクの耳の後ろのほんのりした色づきが、胸の奥の熱を燻ぶらせていた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!