“楽章の間を切れ間なく演奏する#2”
ジムが “1” と壁に表示された階の最後の一段を下り、それ以上下へは進まずフロアへの出入口を抜けると、上階の静けさとは打って変わって人の声や物音がSE(効果音)のように騒ぎ出し、その裏ではBGMが流れていた。
吹き抜けのエントランスに続く日差しが柔らかく入る廊下、大きなガラスを隔てた向こうには緑が広がり、階上から見えた人間たち、スタッフに付き添われてリハビリと言う名の散歩をする者や、胸に赤ん坊を抱きながらベンチに腰掛け会話を楽しんでいる者、その近くには幼い子供もいる。子供の脇には、あの寝そべった犬がいたが、やはりジムからは、それが生物なのか機械なのかはわからなかった。ただ、その子供は、嬉しそうに犬に抱きつき、おとなしい犬はされるがまま、ふさりと尾だけ持ち上げて揺らしているのが見えた。
民間企業NeoGeane社が持つ医療機関の一つであるここは、幽霊が出入りする軍の息がかかった特殊な施設だが一般的な顔も持ち合わせ、その影を巧妙に陰に隠していた。ジムが下りて来たこのロビーフロアはとくにそれらしく見え、患者やその家族、また見舞客といった一般人、スタッフは医師や看護師だけでなく、事務や売店、食堂や清掃のスタッフに至るまでさまざまな人間たちが行き交う、ありきたりな病院のワンシーンが広がっていた。
ジムは一定の速度を保ち、彼らの間を縫うように目的の場所へと進んでいった。前から白衣のスタッフが二人、喋りながらジムとすれ違ったが、ジムのことは気にも留めず過ぎ去っていった。
向こうに見える自然光を効果的に取り入れた明るいエントランスには、このセンターへやって来た患者の中に、一般人に混じって足や腕を失った傷病兵らしき制服姿の軍人も見える。この医療センターは義肢技術、筋電義肢や、また四肢移植に定評があることをジムは知っていた。
だがジムは負傷した軍人ではなく、今流れている曲に気を止めた。
・・・・・・妖精の踊り(♪M#1)?
表向きだったとしても、医療センターと名が付いた場所で流す曲として適切だとは思えない。
早く傷病を回復させて出て行けと言う意思表示か?
これを聴いたからと言ってリハビリが捗るとは思えないし、病んだ心や身体のリラックス効果とは無縁な気がする。
まるで不思議な世界を忘れさせまいと、誰かの思惑が未だに自分を煽っている気がするほど、超速の技巧的ヴァイオリンに駆り立てられる。
ヴァイオリンなら、デイヴィッド・ギャレット(♪M#2)がいい。
今は、アラ・マリキアン(♪M#3)より、ギャレットが聴きたい。
歩きながらジムは、記憶の中のクラシック棚から音源データを引っ張り出そうとしていた。ジムが目的のデータを見つけた時、ロビーフロア内のスピーカーからは、あますところなく曲全てでテクニックを披露したヴァイオリンの音が止み、しばし無音の間のあと、ジムが息を吐いたところで、今度は静かにオーケストラの音色が聴こえてきた。
・・・・・・。
オベロン(♪M#4)が流れ始めたことに気が付いたが、ジムは無視した。
いつまでも妖精に惑わされてたまるか。
♪M#1:妖精の踊り
アントニオ・バッジーニが1853年に作曲したヴァイオリンとピアノのための楽曲。非常に強烈なヴァイオリン技巧を見せつける作品。
♪M#2:David Garrett(デイヴィッド・ギャレット)
ドイツ出身のアメリカ合衆国のヴァイオリニスト、モデル。
13歳でドイツ・グラモフォンと契約し、2枚のCDを録音。翌、14歳の時にドイツ・グラモフォン社と専属契約を結んだ。
現在はクラシックのみならず、クラシカル・クロスオーヴァーでも精力的に活動している。
♪M#3:Ara Malikian(アラ・マリキアン)
レバノン出身のヴァイオリニスト。子供時代は戦争のため防空壕の中でのレッスンを余儀なくされ、12歳で初めてのコンサートを行い、14歳でドイツのハノーファー音楽大学へ留学。
レパートリーは広く、演奏スタイルは情熱的。
♪M#4:Oberon, or The Elf King's Oath(オベロン、または妖精王の誓い)
カール・マリア・フォン・ウェーバーが作曲した全3幕から構成されるオペラ。
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