“変化 動揺#22”
ジムは沈黙した最後の部屋にいた。ドアはまるでジムを迎えるかのように開かれていた。むせかえるほどの臭いに招かれ静かにジムはそこへ足を踏み入れた。
忘れるはずのない、甘いはずのない臭いに、猟犬(ハウンド)になる前、黒犬と呼ばれていた頃をジムは思い出していた。筋書き通り、裏切り者のシャルヴァーの研究者の助手として双子をフォローしていたロンとホリーは優秀だった。数えることすら放棄するほど、ジムたちは泥沼化した戦場に放り込まれそして生き延びてきた。血の雨を浴び、汚泥をはいずり、銃弾の嵐を、爆風の波をかいくぐった。これ以上、凄惨な光景はないと、地獄を見たと思ったことも一度じゃない。あらゆる悲惨さに反吐の出る世界に、耳を覆うことも目をつぶる感覚も失ったと思った。
なのに。
なんだ。
なんなんだ。
ここは。
窓は割れたガラスと残された格子がいやに生々しく並び立つ十字架にも似て、そこにヴラド三世(串刺し公)でも現れたかのような、貫かれた人間の光景があった。半壊した屋根からやけに明るく天上の銀盤が青白い光で照らす豪華なカリンの机に飾られているのは花や食事、酒だけではなかった。その上ではホストである会長が喉から腹まで引き裂かれ、自らの内臓を客人への食事のごとく振舞っていた。
ジムはぐるりと辺りを見回す。部屋にいたSPが何かに対して応戦。異常事態に気付いた屋敷の警備が暗闇に突入したが、状況を把握する間も無く殺されたらしい。発砲の結果同士討ちになった銃弾による蜂の巣状態の見慣れた死体の少なさがそれを物語っていた。ここに転がるほとんどは大口径に吹き飛ばされた訳でもなくミシン目のようにぶち抜かれてもいない。引き裂かれ、引き千切られた人間だったものが、そこら中に散らばっていた。窓に大穴が開いているにも関わらず、この部屋に留まる空気が血生臭さを掻き回し鉄の臭いが立ち上る。ジムは無線で連絡を入れた。
「αだ。ターゲットポイントに入った。生存者は見ての通り確認できない。敵の姿も見えない」
ジムの暗視装置は生体反応を可視化していたが反応するものはなく、見える情報はシロウサギたちのモニタにも映っていた。
“了解。β合流しろ。βの合流が確認出来次第、部隊を突入させる”
臆病なウサギらしい。俺たちが食われないことがわかってから来るつもりか。
モニタで見える映像に、吐き気でももよおしたか。それともあまりの非現実感に意識が遠のいたか、うわずった声の命令にジムは“了解”とだけ答えた。
ジムは最大限の集中を払いながら動きを止めず慎重に奥へと進み、その先にホリーを見つけた。
ホリーは2人の子どもを胸に抱いてジムのほうを向いている。
はずだ。
はずだ。はずだ。
ジムは現実を拒絶する感覚の一方で、今までの経験がそれを許さず現実から逃れられなかった。目をそらすことすら出来ずにジムはまっすぐホリーへと向かう。
俺を見ているはずの。
顔はどこだ。
ジムの足元でピシャと水音が鳴った。大きな赤い水溜りに足を踏み入れていた。見れば両手にSPから奪ったのか銃を握り締め壁に背を預けているロンがいた。暗視装置を外し肉眼で認めるとジムは静かに尋ねた。
「何があった。報告しろ」
映像の中で、普段は絶対に着ないだろう白いシャツにネクタイを締めていたロンに尋ねる。ロンはいつものように減らず口で文句を垂れると思いきや、一言も返してこない。首から上を失ったロンの身体はじっと黙っていた。膝をついてジムは銃を確認すると全弾撃ち尽くされていた。ジムは振り返るとカリンの机の上に横たわる会長と美しく盛られ並べられたアペタイザーの皿、その横に、それらをつまんでいた女や、最高級の酒に手を伸ばしていた男の頭部がごろりと並んでいるのが見える。その周囲には、首を失った肉体が糸を切られたマリオネットのように折れ曲がって潰れて転がっているのが見えた。
ジムは立ち上がりロンから離れると、ホリーと双子を確認しに向かった。ホリーが胸に抱く双子は折り重なるように、エリックがフレッドを守るようにその頭を抱いて動きを止めていた。血の海の中に膝をつき頭を無くしたホリーの、死後硬直がまだ始まらない柔らかいその腕を解き身体を動かせば、切断された首から固まらない血液が、胸に抱える白金の髪へ流れ落ちた。フレッドを抱くエリックの腹は突き破られたようで、そっとジムが触れると閉じる力もない目がほんの僅かだが動き、穴の開いた器官からヒューヒューと音を立てた。半開きの口からは、血液があふれ出て、大切な弟の白金の髪そして蒼白の顔を赤く染めていく。フレッドは目を見開いたまま微動だにしない。ジムはRugietを血塗れの双子へかざした。ディスプレイにそれぞれの識別コードと、死の寸前を示す微細な生命反応のコードがわずかでも生きている事を示した。
生きているのか?
「エリック」
「フレッド」
ジムは双子の名を呼んだ。どこか遠くに自分を感じて。
俺はいま冷静ではないな。この音を、何かが聞きつけたらどうするつもりだ。
何か?
ジムは2人をカウントコートに収めるため装備から取り出しながら考えていた。
そうだ。俺はさっきから何者、ではなく、何かがいると、何かとはなんだと自問している。
Jabberwock(馬鹿な)……
化け猫がいると言っていた得体の知れない何か(スナーク)。
この惨状をものの1時間足らずで作り出した何かは確かに存在する。
だが怒り狂ったバンダースナッチはもうここにはいないだろう。
自分がここにたどりつけたということは、もう消えてしまったにちがいないとジムは俯瞰した意識で考えていた。後ろで聞き覚えのある足音が聞こえた。ロンの前でその足音が止まる。しばらく立ち止まった後、その足音はジムの隣まで来ると、ジムと同じく血の中へ膝をついた。
「ホリー……」
「αだ。βと合流した。双子は生きている」
“部隊を突入させる。α、βはAZを回収して撤収しろ”
ジムが「了解」と返答すると、ブライアンは無線のマイクを切った。それを見たジムも消音にする。
「ジム。お前は双子を連れて行け。俺はロンとホリーを連れて帰ってやりたい。ウサギたちはサンプルを拾ったあとここを爆破する気だ」
「ウサギより先に出てこい」
「わかった」
ジムは立ち上がると、エリックとフレッドをおさめたカウントコートを両肩に背負い部屋をあとにした。
■■■
国境を越えたシャルヴァーの研究所では、バレットは運び込まれたエリックとフレッドを確認してスミスに報告しているところだった。
「Eはセンターへの搬送中に機能が完全停止する可能性があります。さらに事態は悪く、おそらくEはアポトーシス機能に異常が発生している。このままではSAIが情報を保持出来ず、脳死と同時に情報が消滅する可能性があります」
「どういうことだ」
「通常、宿主が死んでもSAIは最終形態としてアポトーシスを繰り返し、脳内に蓄え保持したデータメモリとともにある程度の時間生きながらえる事が出来ます。しかし、今回Eはその機能が働かない可能性が考えられます。つまり、宿主の死とともにSAIも死に保持するメモリも消滅するということです」
「なんだと? 大佐はお怒りだ。この上SAIと情報まで失っては……方法はないのか」
俺たちの任務の至上命題は
「培養ポッドに直接SAIを入れ、SAIに記憶野を保護させながらデータを外部記憶に移行。データ移行後は脳から遊離させます。今、宿主から脳を取り出さなければ、宿主の死とともに、SAIも情報も失われます」
情報が全てで
「かまわん。引きずり出せ。このAZを失っても代わりは来る。SAIと情報だけは取り出せ」
生命維持を行っていた医療スタッフは、命令が下ると束の間ぼんやりと目を開いたエリックの頭部にまるで道を塞いで横たわる倒木を処理するように医療用のこぎりをあてた 目を閉じることすら出来ず頭蓋を開かれたEからは叫び声も上がらなかった。
最悪の場合、脳を持ち帰る
生きたまま頭蓋を開かれたEから脳がずるりと引き出された。培養ポッドに沈められた脳の表面に、雪の結晶が描く雪花のように鈍く光り浮かんだ。その光を隣に寝かされていたフレッドは目を閉じることなくずっと凝視していた。
「どうした」
「Fが見ています」
「気にするな。見ているかどうかもわからん。後で問題があれば記憶を消せばいい。簡単な作業だ」
手を止めたスタッフはバレットに「そうですね」と言って笑った。
それが俺たちの至上命令
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