「中で待ってれば良かったのに」
スポーツドリンクを手に持ったつぐが、不思議そうに綺麗な眉毛を下げた。キャップの空いたペットボトルから漂う淡いレモンの香りが、湿気を帯びた空気を伝い私の鼻腔をくすぐる。
「いま来たところやったから」
「ふーん、」
不意についた嘘は、見透かされたわけでも騙せたわけでもなかった。額から滲んでいる汗をよく観察すれば分かること。けど、この場で私がどれだけ待っていたかなんて、つぐには興味のない話だろう。
「千鶴は実習室で待ってるみたいやから行こう」
つぐが、ペットボトルのキャップをしめながら、闇に飲み込まれたような校舎の入口を指差す。透明なガラス扉の向こうは、まるで宇宙空間のよう。明かりは点いているけれど、外の激しい日差しのせいで、建物内は相対的に暗く見えた。
「中におるんなら先に言ってくれれば良かったやん」
「なら入ってれば良かったやん。でも、授業の終わる時間一緒やし、いま来たところなんやろ?」
言ってくれていれば、暑い思いをしなくて済んだのに。フルーティーの甘さと共に吐き出しそうになった言葉を飲み込む。
「そうやけど」
「それに千鶴と二人きりはキツイんかなって」
「お気遣いどうも」
「そんなことなかったって顔やな」
つぐがドアを開ければ、宇宙を漂っていた心地の良い冷たい空気が、館内から逃げ出すようにどっと流れ出てきた。
千鶴と二人きりになるのが気まずく見えているらしい。そんなことはないと言葉で否定するのは簡単だけど、そうじゃないと示すのは難しく思えた。悪魔の証明と言えば大げさだが、仲が良いことを殊更強調するのも可笑しな気がして、私は下唇を噛みしめる。
「新商品?」
つぐの視線が私の手元に来ていることに気が付き、フルーツティーの話をしているんだと感づいた。つぐは主語をなしに会話を変える癖がある。
「コンビニのやつ」
「亜美って、存外、新商品とかに惹かれるタイプなんやんな」
「まぁ、そうなんかな」
つい十数分前の自分の行動を否定できるわけもなく、私は素直に頷く。入り口そばの階段を上がれば、コツコツと二人分のスニーカーの音が静かな館内に響いた。
「意外やけどな。最初の頃はそういう印象じゃなかったから」
じゃあ、どういう印象だったのだろうか。私がそう問いかけないうちに、つぐは勝手に話を始めた。階段を上がるたび、ちゃぷちゃぷとつぐの手に握られたスポーツドリンクが音を立てる。
「昔ながらを好むって感じ?」
「どういうこと?」
愛想笑いと本気笑いの中間の笑みが自然と溢れる。曖昧な笑みの正体は、次につぐが告げるであろう言葉に耳を欹てているからだ。
「紅茶だったら、亜美は迷いなくミルクティーを選んでたし」
「ミルクティーは昔ながらなん?」
「フルーツティーはミルクティーより新しいやろ?」
紅茶の歴史に詳しくはないが、少なくとも新商品と謳われていたものだからつぐの言うことは正しいのかもしれない。もし、歴史があったとしても流行り物であるものには違いなく、私はそういうものを選ぶタイプではなかった、と言いたいのだろうと思った。
思えば、高校生の頃の私は、どちらかというと定番商品を手に取ることの方が多かった。
「それに抹茶だとか和菓子だとかが好きな印象」
「小さい頃、そういうのばかり食べてたから口が慣れてるだけ」
穏やかな勾配の階段を踏みしめる自分のスニーカーに視線を落として、慣れない歩幅だと自嘲する。長浜の実家は、もっと急な勾配の階段だった。降りる時は、手すりを使わなくちゃ怖いくらいに。だから、どうしても一歩が慎重になってしまう。
「故郷の味ってやつやな」
「そうなんかもな」
「あー、長浜っていい町やったなー。のっぺいうどんやっけ? しいたけが入ってて、生姜の香りが効いたやつ」
私の一言は、つぐの思い出を呼び起こさせたらしい。二年生の春休みにいつもの面子で長浜に旅行へ行った。里帰りも兼ねていた私にとって、旅行というにはあまりに地元だったけど、友人たちは楽しんでくれたらしい。長浜城の近くのホテルに泊まるのも、不思議な感じがした。近くに実家があるのに外泊するなんて。はじめて友達のうちへ泊まりに行ったワクワク感に近いものがあった。
「町並みも素敵やったし空気も良くてさ、ガラスの工芸品も綺麗やったし――」
手放しに地元を褒めてくれるつぐを見つめて、思い出していたのは懐かしい長浜の景色だった。日本家屋が並ぶ石畳の道、大正の雰囲気を残すガラス館、名物のうどんの出汁が香る商店街。十八年もそこで生きてきたせいで、すっかり網膜と脳髄に焼き付いてしまっている。
嫌いにもなれないし、好きにもなれない。地元とはそういうものだ。愛着はあるけど、ずっとそこに留まりたいわけじゃない。滋賀にだって芸大はあった。実家から通える距離ではなかったけど。それでも、より遠い大阪の芸大を選んだ理由は、この学校にある充実した施設や規模だけじゃなかった。
「初めて行った気がせんかった。だって、何枚か亜美の絵を見てたから。……やから、最初の頃は、地元を大切にしてるんやなって思ってた」
「それは、あの景色しか知らんかったから。あの頃の私のレパートリーには長浜の景色しかなかってん」
「いつからだっけ? 長浜の景色を描かなくなったのは」
少しだけ薄暗い蛍光灯が、つぐの赤茶色の髪を穏やかな色に見せた。ピアスが髪に隠れている方の顔を見つめ、ファッションに目を瞑れば、彼女も個性を消し去った普通の女の子だ。
「他に描きたい景色が出来ただけ」
また口について出た嘘を、今度は見定めるように、つぐが眦に皺を寄せる。視線を逸らせば、嘘だと言っているようなものだから、何食わぬ顔でその双眸を見つめ返してやった。ひんやりとした館内に、スポーツドリンクのレモンの香りが混じったつぐのため息が染み込んでいく。
「素直じゃないところは昔から変わらんな」
「よくご存知で」
「なんせ親友やからなー」
「たった二年の付き合いやろ」
目に見えた強がりをつぐは軽く笑い飛ばした。「私は亜美の高校時代を知らんからなー、知ったかぶりでしたかね?」と口端を緩めて、小さな歯を覗かせる。
「ううん。ちゃんと知ってくれてる」
立ち止まった私を待つことなく、つぐは廊下の方へ抜けていく。踊り場の窓から差し込む、生い茂る緑を通過した細い日差しが、つぐと私の間に無数の光の境界線を引いた。
つぐはいいヤツだ。ここしばらく、スランプが続いている私を常に励まそうとしてくれていた。今日、こうして誘って来たのだって、何かのきっかけになればいいと思ってくれているからだろう。
遠ざかるつぐの背中に向けて、ふいにお礼の言葉を掛けたい衝動にかられた。けど、気恥ずかしさが邪魔をする。でも、励ましに結果で答えられないのだから、言うべきことを言わないわけにはいかない。迷いを振り切って、私が息を吸った瞬間、つぐの無邪気で静かな笑い声が聞こえたのか、廊下の端で木製の扉が開き、ひょっこりと千鶴が顔を出した。
「おそーい」
戯けた声が狙いを雑に構えた弓のように飛んでくる。腹の底に溜めた息は行く場所を失い、まるで風船の空気が抜けるようにゆっくりと鼻から抜けていった。
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