マニエールの綻び

伊勢祐里
伊勢祐里

6話

公開日時: 2021年6月16日(水) 19:10
文字数:3,274

 雨の匂いが、確かな気配と共に忍び寄って来ていた。絵の具をバケツで撒き散らしたようなオレンジ色の雲が、じわじわと南の空へと広がっていく。その奥では、夜と雨雲の灰色がお互いを絡め取りながら、夏のふりをしていた水色を丸呑みしようとしていた。気象庁の梅雨入り宣言をあしらうようにしばらく晴れを続けていた空は、ようやく本懐を思い出したのかもしれない。

 

 駅近くのスーパーは、六時半頃からセールを始めるので、夕方以降に行くのが最も財布に優しい。けれど、バイトのある日は都合が付けられないので、休みの日に二、三日分を買い込んでおく。自炊する日とお弁当で済ませる日は半分ずつくらい。面倒臭さとお財布事情が天秤に掛けられた結果だ。それに値引きの弁当を翌日に持ち越すわけにもいかないことが、自炊を強制的に促す良い役割を担ってくれていた。

 

「あれ、今日は手作り?」

 

 私が半額のひき肉を手に取ると、茶化すような言い回しが耳朶を打った。黄色いカゴを肘に掛けたつぐを睨み、鼻についた声をわざと出してやる。

 

「今日は、ハンバーグです」

 

「なになにー彼氏でも出来たん?」

 

「私は、彼氏を作らんとハンバーグも作られへんのか」

 

「あ、もしかして、将来のための予行練習?」

 

「馬鹿にし過ぎ」

 

「あー、妹ちゃんの手料理は美味しかったなー」

 

 遠回しに私のご飯をディスっているらしい。そりゃ、母と祖母が亡くなってから、家事のほとんどを妹がやってくれていたから、あの子の方が上手なのは間違いないけど。

 

 私の作るハンバーグだって、妹にレシピを教えて貰ったものなのに……。祖母から母へと。母が亡くなって、祖母が妹へと。そして、妹が私に教えてくれた。祖母と母の味を完璧に再現出来ているのは妹だけ。だから、桐畑家のレシピを後世へと引き継いでいけるのは妹だ。私じゃない。そんなことは分かっている。

 

 ちなみに、つぐが妹の手料理の味を知っているのは、長浜へ旅行に行った際、うちに遊びに来たからだ。妹はすっかり張り切って、豪勢な手料理を振る舞ってくれた。

 

「つぐは、毎日作ってるやんな?」

 

「なるだけな。コンビニやスーパーのお弁当で済ませる時もあるで?」

 

「あんまり見たことないな」

 

「そりゃ、そればかりやと食費が馬鹿なんないし、栄養も偏っちゃうから」

 

 あんたよりも女子力あんのよ、とつぐは短い赤茶色の髪の襟足を指先で弾く。耳元のシルバーのピアスが眩いショーケースのライトを反射して眩く煌めいている。カゴの中には、名前の知らない葉野菜がいくつか入れられていた。多分、クレソンとかルッコラとかそういうやつだ。

 

「それで何作るつもりなん?」

 

「これはサラダの野菜。一昨日、買った鮭が残ってるからバター焼きにしようかなって」

 

 私が家事をしなかったのは、絵を描いている私を妹が気遣ってくれたからだ。こちらが一方的にそう解釈しているだけかもしれないけど。

 

 人には得意不得意がある。妹ばかりにやらせるわけにはいかないと手伝ったこともあったが、不慣れな人間の手助けほど邪魔なものはなく、あっけなく己の能力のなさと性格の不一致に落胆し、挫折した。母に似た妹は、献身的で人の為に尽くせる人間で、嫌な顔ひとつせずに家族のために家事をこなす。けど、私は誰かの為に頑張れる人間ではなかった。

 

 私が家を出たのも妹の負担を出来るだけ減らしたいと思ったのかもしれない。洗濯カゴを持ち、階段を上がっていく妹を横目に、私はいつもアトリエで筆を握っていた。そこに何の感情も抱かない鈍感な人間であれば良かったのだろうけど。

 

 だけど、それは私が長浜から出た本質的な理由ではない気がした。もっと根本的な逃避があったはずだ。なんとなく、それが今のスランプと密接に関わっている予感があった。

 

「どうやった?」

 

 ふと、思考が途切れて、つぐの声が脳内に響いた。間の抜けた声を出した私を彼女はケラケラと笑う。

 

「千鶴の絵さ」

 

「あー、」

 

 嘘を繕う必要もなく、私は素直に褒め言葉を吐露した。水面の秀逸さを、空の水色の明るさを、それがどれだけ彼女らしい表現だったかを、そして学生には生み出せないレベルの作品であるかを。

 

「亜美は千鶴の絵好き?」

 

「好きかと言われると困るけど。すごいと思うよ、千鶴は」

 

「千鶴は、か」

 

 梅雨の湿気のような生ぬるい嘆息を漏らして、つぐはパック詰めされた薄切りハムを手に取った。三つが束になっているタイプのものだ。今日のサラダに使うのかしらん、とカゴに放り込まれるハムを見つめる。

 

「あの子は天才やん。みんな言ってるで」

 

「学内……ううん、学外もか。確かに評価は絶大やな。実力もケチのつけようがない」

 

 やろ、と笑みが溢れる。一体どういう感情から生まれたものだろうか。ただ、ぽっかりと心に小さな穴がいくつか空いた気がした。そこに冷たいショーケースの冷気が抜けていく。

 

「千鶴の絵には、人を惹きつける力がある。最初に会った時は、あんな絵を描く子やなんて思わんかったけど。ふわっとして、どこにでもいる感じで……、」

 

 ショーケースには、ピンク色の精肉たちが並んでいる。綺麗に成形され、白や茶色のパックに詰められている。生々しい肉片の質と値段を見定めて、人々は買い物カゴへと、それを入れていく。生きていた頃の姿は想像し難い。けど、作品とはこういうものだ。

 

 魂を削り、丹精込めて作った作品は、作者の肉片といえる。どれだけの人が、その肉片を見て、生きていた頃の姿を想像してくれるだろう。

 

「絵を見てびっくりした。こんなすごい絵を描ける人がおるんやって。しかも、あの普通ですよって感じでさ。私らの周りって、どこか尖ってるというか個性的な人が多いやん。やから、あれだけ楽しそうに好きな景色を好きなだけ描けるのは羨ましいなって……」  

 

 言葉を発しながら、視界はじわじわと狭まっていた。手に取られていく精肉パックだけが目に飛び込んでくる。滲んでいる血の赤、それを引き立てる装飾の緑。私は、自分の描いた絵を見て、自分自身を見て欲しいのだろうか。想像して欲しいのだろうか。気が付かぬ間に、脳内で反芻していたのは描く理由だった。

 

 絵を描き始めた頃の懐かしい場所まで意識が潜っていく。アトリエのソファー、リビングの土壁、長浜の町並み。商店街から寺までの参道、日本屋敷の間を抜けていく小川、生い茂る蔦と夏草。けど、確かにあったはずの描き始めた理由は、どこにも見当たらない。

 

「亜美も早く完成させないと」

 

 棘を丁寧に削ぎ落としたようなつぐの言葉が、深くまで沈んでいた意識を呼び戻した。

 

 俯いていた顔を上げて息を吐く。

 

「私はいつも難産なの」

 

「苦しまずに産み出した作品に価値はない、から?」

 

 それはスランプの私がよく言い訳がましく口にする台詞だった。その言葉に嘘はない。苦しまずに産み出された作品に込められているものなど、たかがしれているから。気楽な姿勢の人を見ると残念な気持ちになって、苛立ちに支配されてしまう。

 

「千鶴への当てつけ?」

 

 つぐの眉間に皺が寄った。そんなつもりはなかった。けど、残念なことに自分の耳にもそう聞こえた。

 

 身勝手だ、と自嘲する。千鶴が苦しんでいないなんて、……そんなわけない。そんなこと絵をちゃんと見れば分かるのに。悩んで、迷って、苦しんで、一つの絵を完成させている。それを見ないふりをして、ないことにしているのは私だ。きっと、苦しまずに描いていることに惹かれているから。理想を千鶴に重ねて、勝手に苛立っている。

 

「亜美だって人を魅了する絵を描けるんやから」

 

 不意打ちの褒め言葉に、私はぐっと下唇を噛みしめる。耳が痛い、心が痛い。「そんなことない、」と無意識に溢れた謙遜は、つぐの確かな見る目を否定するものだった。

 

「……ほら、雨も降り出しそうやから、早くお会計済ませて帰ろう」 

 

 自動ドアの向こうはすっかり暗くなっていた。まだ日が沈み切る時間ではないはず。上空の分厚い雲が私たちの世界を灰色で塗りつぶそうとしているらしい。

 

 ――――絵描きは魔法使い。

 

 そんな母の言葉を思い出す。

 

 もしも、いま魔法が使えたなら、苦しむことなく課題の絵を終わらせることが出来るのに。

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