昨日の夕方からの雨はまだ降り続いていた。実習室の窓から、どんよりとした灰色の雲を見つめて、私は徐に絵の具を手に取る。さすがに描き始めなくてはマズイ、と今朝から実習室に籠もって下書きを描いていた。
覚悟を決めて、パレットに色を作っていく。キャンバスに下書きしていたのは、最近、友人と遊びに行ったアメリカ村の景色だ。
三角公園と呼ばれる広場を中心に古着屋やアパレル、ライブハウスが点在する若者中心のこのエリアは、千鶴が描いていた戎橋からも程近い。つまるところ、彼女が明るい都会を描くのなら、私らしく暗い都会を描こうと思ったのだ。
若者の街であるアメリカ村は、派手な町並みが特徴的で、過激すぎるというべき活気で溢れている。若者の抑えきれないその思いは、壁の落書きなどといった違法行為によく現れるもので、それが街全体のイメージとして定着してしまっているのが現状だった。
だからこそ、そこに明るさよりも悲しみやどうしようもない痛みを感じてしまう。どれだけ明るく振る舞おうとも、確かに潜んでいる闇を私の目は見逃さない。
友人と遊びに行ったのは、昼間だったけれど、夜の姿を想像してみた。煌々と灯る街灯、まだ眠らない街は、昼間のような明るさに包まれている。ネオンの赤、オレンジ、紫。どこか遠くから聞こえてくる重低音と甲高さが織りなすBGM、若者の奇声と笑い声、焦げ付いた匂いとファストフードの香り。バーやライブハウスの看板は、羽虫のような若者を引き寄せる為に、これでもかと言うほどの明るさで存在感を誇示している。
意識的に明るさを排除して、脳内に浮かんだ風景が、徐々に一つの色に溶けていく。重たく淀んだ鈍色。これがこの街の中心色だ。それを覆い隠すようにカラフルな明かりが寄ってたかっている。景色に潜んでいた色の根源を見つけて、私は少しばかり安心した。すぐに作るべき色が見つかった、と。
パレットに作り出した背景の色を、キャンバスへと塗っていく。
構図は、三角公園から四つ橋筋の方へ流れる高速道路の高架下の景色。華やかさが街から抜け出すように、オフィス街の方へと静かで少しばかり暗い道が続いている。そこには隠しきれない切なさが漏れ出ている気がした。手で掬い上げた水が滴れ落ちるみたいな隙間が、明るさとカラフルさで塗り固められた街にぽつりと一つ空いているようにも思えた。
気がつけば、かなりの時間が経過していた。長時間夢中で描いていたせいだろう、空腹で集中が途切れてしまった。絵を描く時はいつもこうだ。食事を摂るのをつい忘れてしまう。実家にいた時は、適切な時間に妹が食事を用意してくれていたから、こんなことはなかったけど。
疲労が窒素くらい混じった息を一つ吐いて、窓の外を見る。空はまだ暗く雨が降り続いていた。時間はもうすっかり夕方らしい。壁の時計が目に入って、流れた時間の長さに気がつく。朝一のバスで学校へやって来て、籠もりっきりだったから九時間くらい集中していた。小脇に置いていた二リットルのペットボトルの水は、半分ほどがなくなっている。
「おつかれー」
背後から声がして、振り返る。コンビニの買い物袋二つと透明な袋に入った傘を片手に、今日もラフな格好のつぐが、綺麗に染め直された赤茶色の髪をひけらかすように指先でいじりながら現れた。今日、美容院に行ったらしい。
「ほれ、差し入れ」
「ありがと」
差し出されたコンビニの袋を受け取ると、片面がほんのり温かく、もう片面はひんやりと冷たかった。どうやら、コンビニのホットスナックと飲み物が入っているらしい。たぶん、私が好きな唐揚げとキレートレモンだ。
「ほら、ようやく亜美が描き始めたっぽかったからさ」
聞いてもないのに、つぐは差し入れの理由を説明し始めた。私が聞きたそうな顔をしていたのかもしれない。ただ単純に集中しすぎて疲れているだけなのだけど。
つぐは、近くの椅子に腰掛けて、キャンバスの方を見つめる。傘の柄を机の縁に掛けて、広げたコンビニの袋からアメリカンドッグとダイエットコーラを取り出す。
「どこの景色を描くつもりなん?」
「アメリカ村」
「アメ村か。それでこの色ね」
「そ、今日はまだ下塗りやけど」
「うん。綺麗な色出てる」
つぐの言葉に私は一つ安心感を覚えた。つぐはお世辞を言うタイプではないから。けど、その表情が僅かに曇っていて、我慢の出来ない私は本音がつい漏れてしまう。
「本当に?」
「もちろん、」
少しだけ慌てた様子で、つぐは瞬きをした。三白眼気味の小さな黒目が短い睫毛に隠される。つぐの顔を構成するパーツはどれも一般的なものよりも一回り小さい。
「私はアメ村にたまに遊びに行くから分かる。この街の景色は、確かにこういう色をしている時がある。物悲しさというか、払拭しきれない心の中に沈殿した闇が潜んでいる感じ。……それを表現したいんやろ?」
そう私に投げかけて、つぐはアメリカンドッグに齧りついた。ソーセージにまで到達しない小さな歯型が、茶色い衣に出来る。
「表現したかったのはそうやけど。……つぐが言いたいことは、本当にそれだけ?」
「それは、……」
何か言いたいことがあるのは明白だった。つぐは基本的にいいヤツだから、私が問いただせば答えてくれるはず。けど、言いづらそうにしているのも、つぐがいいヤツだからだ。出来るアドバイスならつぐならしてくれるはず。躊躇しているのは、根本的な何かを揺るがす可能性があるから。本人が望まない限り、彼女はそこには踏み込んでこない。つぐは、そういう分別がつく人間だ。
アメリカンドッグの甘い香りと絵の具の香りが混じり合う。私の手の中にある袋から上がってくる唐揚げの熱気が、その匂いをよりいびつなものにした。
「うーん。やっぱり、言わなきゃあかん?」
「言ってくれた方が助かる。中途半端なまま絵を進めたくないから。……もちろん、つぐが良ければやけど」
最後に付け足した言葉は、いいヤツであるつぐへの甘えだった。自ら訊ねておいて、あなたの判断に任せますという保険は、あまりに卑怯で自分でも笑いそうになる。けど、それは傷つかない為ではなく、つぐを信頼してのことだ、と聞いてもいないのに心のなかで弱い自分が言い訳を重ねた。
描きかけの絵に、私は視線を逃がした。鈍色の下地は、暗く悲しく幸せから程遠い色をしていた。
これは、この絵を見て思ったことじゃないけど。と前置きした上で、つぐは言葉を続けた。
「これから描く絵は亜美が描きたい景色なん?」
「どういうこと?」
「そのままの意味やけど」
「私が選んだ画角の私が選んだ景色やで」
「それは分かってる」
つぐの言葉尻が強くなる。眉間に出来た皺が、その言葉の真剣さを物語っていた。
実習室内に流れた険悪な空気を嫌ったのは、つぐではなく私だった。「――どうしたん?」と少しだけ頬を上げて、冗談めかした声を出す。
「つぐのそんな顔珍しいから怖いって」
「亜美はずっと苦しんでる」
「それは私が難産やからやろ? いっつも苦しんでたやん。でも、描き始めたら早いで。今回も今週中には完成するから。さすがに絵の具が乾くスピードは、コントロール出来ひんけどさ」
軽い冗談にも、つぐは表情を変えなかった。ただ真面目に椅子に座ったまま、私の顔を見つめる。傘の袋の底に不満のように水滴が貯まっている。ぽとぽと、と滴が落ちていく。いつかの病室の点滴を思い出す。つぐの染め直された髪と耳に光るピアスが異様に眩しく思えた。
「亜美が難産になったのはいつから?」
「いつからって……」
私の言葉に詰まったのは、つぐの中に明確な答えがあるような気がしたからだ。つぐは芸大に入ってからの友人で、かつての私のことなんて知らないはず。そんな私の思考を読み問いたように、つぐは小さく頭を振った。揺れた短い髪が光の具合でネオンのような赤に光る。明るくあって欲しい実習室の空気を表しているような鈍色に塗られた風景画が、こちらを見つめる。
「長浜に旅行に行った時、亜美の妹ちゃんに話を聞いてん。亜美は幼い頃、どんな子だったんだろうって思って、」
在り来りな世間話の一つだと思った。私だってつぐの地元へ遊びに行けば、同じような質問を、つぐの家族や友人にしていただろう。そこに深い意味はなく、ただお互いの共通点である人物の過去と今の対比というのは、ひとしお盛り上がるものだから。
「それでダイニングに飾ってある絵を見せて貰った」
「ダイニングの……? あぁ……、玄関のステンドグラスのやつか」
「そう。あれって中学の時の作品やろ?」
「そうやったかな、」
確か、祖母が亡くなる前、あのスランプに陥る直前に描いていたものだ。実家の玄関横には、赤や黄色やオレンジ色の綺麗なステンドグラスがある。決して、立派なものではないけど、外からの日差しを温もりある色に変えて、家の入り口である玄関を明るく彩ってくれていた。幼い頃からその空間が好きだった。
「正直に言っていい?」
「もちろん」
自分の心に反して、口はそんな言葉を発する。唇が乾いているのが分かった。コンビニの袋を持つ手に力が入る。
「今日まで二年半、亜美の絵をたくさん見てきたけど、あの絵が一番素敵やった」
「でも、あれは技術的にも、」
「技術的な問題やないよ」
私の言葉は落ち着いたつぐの声に遮られる。つぐは私の絵をイメージするように瞼を下ろした。
「輪郭に宿っていた温もりがあった。ステンドグラスを通り向けてくる光の具合がとても綺麗やった。赤、オレンジ、白、それぞれの色に染まった光が玄関に別々の影を作り出していた」
「それはあの頃、ドガに憧れて真似ていたから。それにフェルメールも好きやったし。模倣ばかりの頃やって」
「それはいまもやろ?」
つぐの言葉が鋭いトゲを持つ。まるでナイフを突きつけられたみたいに喉の筋肉が萎縮して縮こまった。声が出ない。脳内に巡る言い訳は、吐き出されることなく、腹の中に沈殿して、モヤモヤと吐き気のようなものを引き起こした。堪えるように、みぞおちに力を入れる。
「いまだって亜美は強い憧れに導かれて絵を描いているんとちゃう?」
唇を噛みしめた。鉄分の味が口内のどこからかにじみ出てくる。唾液を飲み込めば、こみ上げてきていた吐き気が僅かに収まった。
「その憧れは正しい憧れなん?」
「…………正しいって?」
ようやく出た言葉はそれだった。つぐの眉根が優しい角度に歪む。やっとソーセージに達したフランクフルトを飲み込みながら、つぐは立ち上がった。
「亜美は、なんの為に絵を描いてるん?」
「何のため?」
「描く為に生きてんの? 生きる為に描いてんの?」
哲学的な質問なのだろうか、と眉根を下げた私に、「素直に答えて」とまるで心理テストを楽しむようにつぐは破顔する。窓際へと移動して、雨が降りしきる空を寂しそうに見上げていた。
私は素直に心理テストのようなつぐの質問に答える。
「大げさに言っていいなら、描くために生きてるのかもしれない。それくらい絵は好きだから、こうやって芸大に来ているわけで。それってみんなそうなんじゃ……?」
つぐは空を見上げたまま、首を横に振った。曇りのない窓に、つぐの赤い髪が暗く反射している。
「亜美は、生きる為に描いてる」
「生きる為? けど、絵で生計を立ててるわけちゃうし。そもそも絵でお金を貰ったことなんてない」
つぐの意図が分からず、私は怪訝な顔をする。窓の方を向いたつぐには見えなかったかもしれないけど。
蛍光灯の明かりが一瞬だけ点滅した。もうすぐ寿命なのかもしれない。
「亜美にとって、絵は酸素なんちゃうの?」
「随分な比喩やな」
「比喩かな?」
つぐが振り返った。また蛍光灯が瞬く。音のない稲光のような光のいたずらは、つぐと私の表情をお互いに隠した。
「亜美は、絵がないと生きていけない。だから酸素」
「絵を取り上げられたら死んじゃうって?」
「そういうこと」
私は口を閉じて、鼻からの息もやめてみた。十秒、二十秒。沈黙が訪れたけど、つぐは黙ってこちらを見続けていた。苦しい。絵を奪われると私はこんな苦しさを味わうことになるというのだろうか。
深く息を吸わなかったせいだろうけど、三十秒ほどで私は呼吸を再開した。からっぽになった肺に空気を取り入れる。絵の具とアメリカンドッグと唐揚げの香りが混じった混沌の空気。
「いくら酸素と言ったって、私だっていつまでも絵を続けられんのは分かってるよ。気がつけば三年生やん? もうすぐ就活のことだって考えなあかん。そうなったら、絵に拘っていられなくなるかもしれんし」
「あかんよ。亜美は絵を続けなあかん」
何気ない励ましのようなつぐの言葉。けど、微妙なニュアンスが言葉を処理する脳内のフィルターに引っかかる。『亜美は――』、あらゆるものに込められる寂しさに似た感情に、私は敏感だった。
「つぐは絵を辞めるつもりなん?」
「運良く拾ってくれる企業があれば、もちろん続けたいとは思ってるけど。何が何でもっていう気概は私にはないかな。一般職で就きたい業種もぼんやりと見えてきてるし」
「けどさ、」
「私には亜美や千鶴みたいな才能はないから」
「つぐの絵は綺麗やって」
嘘ではない。つぐは良い絵を描く。私や千鶴とは違う抽象的でアーティスティックな作品だけど。それが良い作品であることは、誰の目で見ても明らかなことだった。
「ありがと。けど、私はちょっと尖ったふりをしていただけ。このファッションだって、」
私の視線は赤い髪とピアスを注視した。やりすぎない奇抜さは彼女らしさの象徴で、同時に裸の彼女を隠し、そのプライドを強固に見せるのにも一役買っていることは明白だった。
「他の学生たちとなんも変わらへん。むしろ、無理してるまであるかな。見栄を張ってたと言いますか。自分は芸術をしているんだって酔っていたって言うのかも知れない。ある日、気がつくんよな、自分が思っているよりも普通の人間なんだぞって。傍若無人になれるわけでもなく、突拍子もないアイデアが湧くわけでもなく。ただ周りのバランスを気にして、動いて、」
「それは友達とのこと?」
私の脳内に旅行のことが思い浮かぶ。いつだって調整役はつぐだった。そこでようやく、まだバイトのシフトをつぐに知らせていないことを思い出す。
「そうやな。それが嫌だって言うことじゃない。むしろ、やりたくてやってた。それがたぶん私らしさなんよな。そして、それは絵かきに求められる才能じゃない。もちろん、それをうまく活かせば、絵を続けることも出来るんやろうけど。それもまた別の才能だったりするし。今の自分がそこまでして絵を続けたいかは、まだ見えないってことかな」
つぐが言いたいのは、自分の目指したい先に行くために必要な才能と、自分が生まれ持っている才能の差についての話だろうと思った。絵は好きだけど、求めているゴールに到達するためのスキルは自分には元来備わっていない。なら、道をここで諦めるべきじゃないかとつぐは考えている。
「それってさ。私にも当てはまってるんちゃうかな?」
冗談っぽく、笑いながら私は問いかけた。乾いた言葉は、エアコンの除湿では取り切れない湿った空気に溶けていく。
「亜美は違う」
だって、とつぐは呟いてから、少しだけ言葉をつまらせた。ついに告げる言葉の覚悟を決めるように、薄い唇を彼女はぐっと噛みしめる。白くなっていくリップでコーティングされた艷やかな肌が、一瞬で血色を取り戻す。
「いまの亜美が描いている絵とは、決定的に違うものがあった」
つぐは主語を抜かしていたけど、あのステンドグラスの絵は、と言いたいに違いない。
「亜美はさ、」
また蛍光灯が瞬いた。今度は先程よりもその数は多く、その瞬きが収まるのを待って、つぐが言葉を続ける。
「ゴールを見失ってる」
求めているゴールと己の才能がかけ離れているなら辞めるべきだけど、目指すべきゴールを見失っている以上、その判断は出来ない段階にある。
つぐの言いたいことを頑張って自分なりに汲み取っていく。それが向き合ってくれている人への礼儀だ。
「まずは正しい見つけろ、と?」
つぐが頷いたことを確認してから、私は初めにつぐが言った言葉を脳内で反芻した。
――私が描きたい景色は何なのか。
描きかけの絵、鈍色の景色、温もりのないパレットの色たち。私がこの絵に求めていたものは、風景に溶け込んでいる悲しみや切なさだ。記憶のキャンバスに鮮明に焼き付いて離れない色と景色に匂いや呼吸を感じるから。
けれど、そこに呼吸はない。深海で捕食者から身をひそめる魚のような畏怖が纏わりついていて、描かれた薄暗さは理想の美しさとはかけ離れていた。匂いは確かにするけれど、鼻をつまみたくなるような匂いで、脳内がグラグラと揺れる。濃いペンキの匂いを嗅いでしまった時のような目眩が私を襲う。
私がたどり着くべき場所を見失ったのはいつからだろう。昔は明確にたどり着きたい絵があった気がする。けど、それを思い出そうとすれば、言い表せない怖さが私の後ろ髪を強く引いた。
「つぐは昔の私の絵の方が好き?」
「悪いけど、そうなるかな」
あの頃の絵は、今の私にはもう描けない。その理由があるとすれば、心の小さな綻びから長い時間をかけて絵の具がこぼれ出したから。絵の具は血のようにかさぶたにはなってくれなかった。気が付かないうちに、私は色を失い透明になってしまったらしい。
それは、母と祖母が旅立っていったあの透明な世界にどこか似ていた。
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