口の中に学内のコンビニで買ったフルーツティーのくどい甘さが広がる。新商品のポップに惹かれて手を伸ばしてしまった。ムシムシとした外気の中で飲むのだから、もっと爽快感のある炭酸にしておけば良かったと後悔する。
唇をすぼめれば、また茶色い液体が透明な太いストローを上ってきた。鼻腔を抜けるリンゴと桃といちごの香り。低価で仕入れられるお洒落な風味は、やっぱり湿気だらけの梅雨の季節には向かない。
提示されていた集合時間まで、まだ十五分ほどあった。講義が早く終わってしまったから、こうして律儀に指定された十八号館の前で待っているというわけだ。空調の効いた館内に入っていても良いのだろうけど、少しくらい陽に当たらなければ健康に悪いと思った。
普段から屋内に引きこもってばかりだし、梅雨が本格化すれば、陽を浴びない時間が顕著になる。真夏ではないから我慢できないほどの暑さじゃないし、人間は陽光を浴びなければ、心が徐々に蝕まれていくものらしいから。鬱の予防としても効果的であると、いつかウェブ記事で見た。けど、日焼けは出来るだけしたくないから薄手のカーディガンで肌を守ってやる。
口の中に転がって来たパイナップルの破片を舌の上で転がしながら、ギラギラと夏の顔をする太陽の方へ視線を上げた。
絵を見て欲しいということは、千鶴の絵は完成に近いのだろう。千鶴は人に意見を求めたがる。そして、人のアドバイスを素直に聞き入れる。それは徹底的な拘りがあるからだ。色彩、構図、リアリティと嘘のバランス。もっとも絵を美しく見せるために一ミリの妥協も許さない。そのためならば、己の拘りさえも捨てる。
フルーツティーを持つ右手だけがひんやりとしてきた。容器が掻く汗が手のひらを伝い手首を濡らす。彼女は私たちのグループには属していない。だから、夏の旅行のメンバーにも入っていない。それなのにどうして私やつぐに声を掛けてくるかと言うと、単純に私とゼミが同じなのだ。
濡れた手首の熱が空気中に吸い取られていく。その上をまた滴が伝う。まるで指先で撫でられるような感覚。細く小さな指だ。薄いピンクのワンカラーネイルに彩られた綺麗な指。わずかに絵の具の香りが残った可愛らしい手。北川千鶴に出会ったのは、一回生の冬だった。
「どこの景色?」
その指が私の絵を指し示していた。細い腕をなぞるように視線を上げて、覗き込んで来た彼女の顔を私は見遣る。もう一方の手で長い髪を耳の後ろへと持ち上げながら、千鶴は柔らかい笑みを浮かべていた。
反応のない私に、「どこの景色?」と千鶴は同じ言葉を繰り返した。
「阪堺電車の動物園前駅の近くの踏切」
「ふーん。地元なん?」
「ううん。違う」
「あ、それじゃ電車好きや」
「……そういうわけちゃうけど」
こちらの返答に千鶴は不服そうに眉根を下げた。
何となく物珍しさを感じたのは、彼女が学内の他生徒と雰囲気が違ったからだ。表現をすると難しいけど、端的な言葉で言い表すなら、『普通』。
芸大という場所のせいか、周りには少し尖ったというか独特で個性的な人が多かった。別に悪口で言っているわけじゃない。この人は、表現者なのだと見た目で分かる感覚。たとえば、朝の喜志駅には、別の大学の学生なんかもいるわけだけど、どの子が芸大生なのかは何となく分かる。先輩や同級生、学科に関わらず、雰囲気というかオーラというか、そういう類のものを纏っている感じがするのだ。きっと同じ穴の狢と言った具合だろう。
けど、千鶴は違った。
まるで別の大学の生徒が遊びに来たのではと錯覚してしまった。GUで量産されたベージュのチェスターコートに、可愛らしさ抜群のロングスカート。花の形を模したイヤリングが小さな耳たぶに光っている。淡い甘さを漂わせる髪は、ほんの少し茶色を帯びて、蛍光灯の白が透明感を強調していた。淡い色合いで統一された清楚感に個性はなく、梅田とかなんばとかに溢れかえっている女子大生のファッションをコピーアンドペーストしたみたいな在り来り感。フェミニンという言葉がよく似合っていた。
「それじゃどうして?」
そう問われて、「いい具合に切なさが溢れてる景色やったから」と私は答えた。
曖昧で適当感の否めない返答だったが、そこに嘘はない。私はよく暇な時間を見つけては大阪の至る所を歩き、描きたい場所を探していたから。描いていたのは、その過程で見つけた風景だった。
自分の想像の引き出しの中には長浜の景色しかない。それが入学前からコンプレックスだった。私が真っ白なキャンバスに生み出せるのは、ずっと見てきた、知っている場所、知っている色、知っている匂い。
目を閉じれば、子どもの頃から見ていた景色が、パソコンのスクリーンセーバーのように脳内で再生される。観光客で溢れかえる週末の商店街、夕焼け色の絵の具を溶かした湖、古めかしい実家の土壁。そこには、いきいきとした人の温もりがびっしりと詰まっている。
だから、都会の喧騒に飲み込まれた自然のない風景を探していた。現実に摩耗された心を投影したような殺伐さ、蓄積された疲れが染みのように広がった中身のない空虚。なんともないフリをした鈍色のベールを捲るみたいに目を凝らせば、悄然と佇む寂寞が街に満ちていることに気づく。
「暗い色やけど綺麗な線してる」
「どうも」
愛想笑いを返したけど、千鶴はこちらの顔を見ていなかった。じっと絵を見つめる双眸は、長い睫毛に縁取られていて、細い毛先がチラチラと蛍光灯の光で純粋な色に影を落としている。
「名前は?」
「私?」
「まさか完成もしてない絵のタイトル聞かへんよ」
そこではじめて千鶴は私の方へ視線を向けた。ぱっと視線がぶつかった瞬間、捕らえられた感覚に陥った。視線が逸らせない。何度か感じたことのある感覚に似ていると、私は記憶の引き出しを無作為に漁り始める。その答えは、すぐに棚から出てきてくれた。美しい絵画を見た時の感覚に似ているのだ。吸い寄せられる魅力は、絶対的な重力を持ったブラックホールみたいに深く重く、気品があって美しくて、何より力強さがあった。
千鶴は街に溶け込む。群衆の中の一人になりきる。私たちはそうならないように努めているのに。千鶴はそうなることを恐れない。それがただただ美しかった。
「桐畑亜美」
「亜美ね。私は北川千鶴。千鶴でええよ」
イントネーションで神戸の方の生まれなのだな、と思った。友情成立と言わんばかりに伸ばされた手を見て、おぼろげな思考になっていた私は無意識に手を伸ばす。けど、自分の右手が筆を握っていることを忘れていた。はっ、として挙動を止めると、手首の付け根の方から腱と静脈に沿って、捲くりあげたシャツの袖まで、千鶴の指にそっと撫で上げられた。
「たくさん描いてきた腕やわ」
「なんで分かるん?」
「ふふっ、秘密」
口端を釣り上げて、千鶴は並びの綺麗な白い歯を覗かせた。出会い頭に秘密を宣言されて機嫌が良くなるわけもなく、私は「むぅ」と怪訝な呻きに近い声を出す。
「ハズレてた?」
「ハズレてはないけど」
上がったままの頬が、今度は満足げな角度に変わった。「芸大で絵を描いてて、沢山描いてない人っておんの?」と千鶴は可愛げのある声を少しだけ尖らせる。
「それもそうか」
なんともあっけない種明かしに怒りや不快感よりも納得が声になって漏れた。吐き出したため息の隙間を埋めるように吸い込んだ空気は、ほんのりと甘い匂いがした。
「切なさか。確かに上手く表現出来てると思う。普段からこういうテーマ?」
屈託のない千鶴の黒目が、スローモーションで絵の方に流れていく。無言で頷いてすぐ、彼女の視界には自分の姿が入っていないことに気がつき、とっさに言葉を添えた。
「特に最近はこういう絵ばかり描いてるかな」
「切なさを描きたいなら、夜の街とかにいきそうなもんやけど」
「うーん。夜だと悲しみが強すぎる気がして。昼間の街にだけ漂ってる心の廃れみたいなものがある気がするから」
「ふーん。何となく伝わってくるよ。それに曖昧な色がすごく綺麗」
顎先に指を据えて、彼女はしばらく私の絵を見つめていた。私はその千鶴を見つめ続ける。
鮮明だった記憶の輪郭は、夏の日焼けあとの皮のようにパリパリとめくれ、淡い千鶴のコートの色が滲み出し、視界を塗りつぶし始めた。満足したようにこちらを見遣って、「完成したら観せてな」と言った千鶴の声が遠のいていく。あの時の部屋の温もりが、じわじわと夏の暑さへと切り替わっていった。
照りつける太陽の熱でオーバーヒートしたように回想はそこで打ち切られる。
手から熱を奪っていたフルーツティーは、急激に勢力を衰えさせ、手の熱に負け始めていた。残っているそいつをぐっと吸い込めば、また甘い香りが口内の粘膜に張り付いた。口を濯いでも取れそうにない甘さにむせそうになる。
つぐが髪を染めているのもピアスをしているのも、自分は芸大生だという矜持からだ。他の大学生とは違うのだぞと、私たちは生み出す側の人間なのだぞと、強い個性をひけらかしている。そうでもして自己表現を続けないと、輪郭を保てそうにないから。ケースから取り出されたスライムのように、表現者の存在意義は簡単にぐしゃりと潰れてしまう。
でも、千鶴は違った。彼女は在り来りなファッションに身を包み、群衆に紛れてしまうことを恐れない。
それだけじゃなく、千鶴は映画も音楽も食べ物にも特別な拘りを見せなかった。けれど、それらに疎いわけではないし、決して興味を示さないわけでもない。世間や友人が良いとするものには積極的に触れ、そこから吸収出来るものはないか探求していた。
それは、絵描きは絵だけで自分を表現すればいいと彼女が思っているからだろう。その他の芸術は、吸収するべきコンテンツであり、自らの才能を誇示し表現する場所だとは捉えていないからだ。
彼女の才能を注ぐ蛇口は一つしかない。他にその才能を割くのが無意味だと言わんばかりに、豊かな才能を絵だけに向ける。さらに千鶴は、自分から溢れ出るものだけでは満足しなかった。向上心の固まりのような彼女は、他人の意見を素直に聞き入れながら、自分の作品へと昇華していた。
それはまさに理想であり、芸術家の本来あるべき姿だと私は思う。
自分が描きたいと思える風景を見失い、描くことを躊躇し始めたのは、あの頃からかもしれない。千鶴の瞳に惹きつけられたあの瞬間に、私を縁取り、創造性を溜めていたダムが崩れた。ドロドロと血液のように流れ出て止めることが出来なくなった。
自分も千鶴のように見栄のような矜持を捨ててやりたい、と願ってしまったばかりに。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!