マニエールの綻び

伊勢祐里
伊勢祐里

2話

公開日時: 2021年6月8日(火) 19:10
文字数:3,252

「決まった?」

 

 声のする方へ視線を向けた拍子に、車窓から飛び込んできた陽光が眼球の奥を殴るように焦がした。渋い顔をした私に、「変な顔やな」と玉木たまきつぐみがいつもの調子で毒づく。

 

「変とはなんや」

 

「不細工って言われたかった?」

 

 減らず口が、と心の中でボヤきながら、「何が?」と私は少し声を上ずらせる。何かを選ぶという決断を迫られるのは、この所のトラウマだ。それが直接的に今の自分のスランプと直結しているのかは分からないけど。

 

「夏休みのシフト。白浜しらはまに行くのに予定合わせよってみんなで言ってたやんか」

 

「あー、」

 

 ウインカーの音が耳朶を叩いて、バスが徐行した。穏やかな遠心力に引っ張られて身体がつぐの方へわずかに傾く。水が抜かれ緑に染まった田んぼを眺めながら、「明後日には出てると思う」と私は声のトーンを一つ落とした。

 

「そっか。出たらなるだけ早く教えてな。あとは亜美だけやから」

 

「分かった」

 

 つぐは芸大に入って最初に仲良くなり、いまも一番親しくしている友人だ。住んでいる学生マンションも近く、頻繁にお互いの家を行き来している。出会いは、初日の帰りにバスで隣になり話したことがきっかけで、地元や趣味、美術品の好みこそ違ったが、会話のリズムというかテンポ感というか、そういう妙な馬があってすぐに仲良くなった。 

 

「やっぱり温泉ある方がええやんな?」

 

 つぐの関西弁はベタベタの大阪弁だ。枚方ひらかた市という京都にほど近いところの出身なので、京都弁っぽいやろ、と本人は言っているけど。滋賀出身の私からすれば、彼女の関西弁は紛れもないコテコテの大阪弁に感じる。

 

「温泉がない方を選ぶと?」

 

「ビジネスホテルよ。せっかくやったら露天風呂に浸かりたいやん。日頃の疲れをどぉーっと取る為にさ」

 

「おばあちゃんじゃないんやから」

 

 恐らく取れるのは日頃の疲労ではなく、その日の昼間に海で作る疲労だろうに。そりゃ、仲の良い友人たちで温泉に入るのは楽しいだろうけど。不安なのはぐんと跳ね上がるだろう予算。この旅行は、いつもつるんでいる女子五人での計画で、いつも通りの楽しさや賑やかさに遠出という僅かな冒険心を足したいだけのイベント。見栄や豪遊を目的としたものではない。

 

「でも、亜美やって温泉入りたいやろ」

 

「ないよりあった方がいいってくらいかな」

 

「あり派でカウントしておきます」

 

 現状、派閥の軍配はどちらに上がっているのだろうか。訊ねなくとも何となく分かる。私の友人に、是が非でも豪遊したいというような思考をしている奴はいない。それは温泉を提案したであろうつぐも含めてだ。だから、ちょうどいい塩梅の宿に落ち着くはず。高過ぎない、ちゃんとした温泉のある宿に。

 

 もちろん、世間に存在しているはずの是が非でも豪遊したい人たちのことを馬鹿にしているわけじゃない。そういう生き方を望み実現しているだけなのだから。もしかすると、大学生というものはそっちがマジョリティーなのかもしれない。ただ、身の丈に合わない遊びを望む人たち、人に自慢することに重きを置いている人たち、とは大きくかけ離れていたいと思っている。だって、私は絵描きだから……。

 

「ところで絵の方は?」

 

 つぐの唇が左耳のそばで悪戯な音程の言葉を放ち、鼓膜をくすぐった。言葉の意味を無視すれば心地の良い感触だ。彼女の声は少しだけハスキーで吐息が多めだから、否が応で五感が敏感に反応を示す。

 

 私の肩が震えたのが可笑しかったのか、つぐはケラケラと笑いを溢した。これは不快な音だ。

 

「……まだっ」

 

「さすがにそろそろ取り掛からんとヤバいやろ?」

 

「そうなんよなあ」

 

 腑抜けた返事に、つぐは大きな嘆息を溢した。耳に掛かった赤よりの茶髪を指の先で撫で上げる。耳殻に空いた穴に銀色のピアスが二つ。綺麗な頬骨と真っ白な項。首にはチェーンネックレス。蒸し暑さが梅雨を演出しはじめてからずっと、彼女はタイトなジーンズに英字のTシャツというラフなスタイルを突き通している。

 

 奇抜さを押し出すようなファッションに身を包んでも、つぐは絵になるだけの美貌を持っていた。男ウケするタイプではないけど、と言えば怒られるだろうか。ボーイッシュな彼女には夏の色がよく似合う。海の青だとか山の緑だとか。夏の太陽に照らされてキラキラと輝く青春の色だ。

 

「私をモデルにどうよ?」

 

「残念ながら風景画なので」

 

 昔から景色を描く方が好きだった。中学校で美術部に入ってから、アトリエとして使っている実家の中二階には、これまで描いてきた絵がすべて残されている。その多くは地元長浜の景色だ。

 

 琵琶湖のほとりに佇む長浜城、明治時代からの風景を色濃く残す街並み、名産品であるガラスの工芸品。それらばかりを描いていたのは、当時の私が他の景色を知らなかったから。所謂、井の中の蛙だった。描きたいという衝動を向ける矛先がそこしかなかった。けれど、蛙は井戸から飛び出した。琵琶湖から瀬田せた川、宇治うじ川、よど川と下り、大阪までやって来た。

 

 そうして私は描くべきものを見失ってしまった。

 

「ところでさ。亜美は今日、バイト?」

 

「ううん。三連休中」

 

「体たらくやな。夏休みのお金足りんの?」

 

「有給ですので、ご心配なく」

 

 澄ました私の顔を細くしたつぐの双眸が見つめる。何かを見透かそうとする時の顔だ。子どもっぽさと大人っぽさの間、二つ並んだ机の隙間のような表情に、うっかり本音というプリントを落としてしまいそうになる。

 

「足りてないんやろー」

 

「貯金はしてあるから」

 

 机の下に落ちたプリントを拾い上げるのはとても億劫で、いつも散らかったまま。きっとそのプリントをつぐは容易に見れてしまう。「もっとバイト入れればええやん」と言うつぐに、「いざとなれば、日雇いの派遣もあるし」と恐らくしないであろう選択肢を提示して誤魔化す。

 

 もっとバイトを入れてもいいのだけど、製作の時間を奪われたくはない。真っ白なキャンバスに向かい続ける時間に意味を問われれば、答えに困ってしまうが。それでも自分はいま製作をしようとしているのだ、というポーズが焦燥感を和らげてくれる。

 

 同時にそれがとても惨めであることをひどく自覚していた。結局はこれだけやったのだから仕方ないという言い訳の根拠が欲しいのだ。サボっていたわけではない。怠けていたわけでもない。ベストを尽くしたが運が足りなかった。そういう具合に自分を慰めたいだけだ。

 

「それで?」

 

 送迎バスが大学の前に着いた。周りの反応を伺いながら、私は椅子から立ち上がる。同時に降りようとすれば、出口で渋滞が起きてしまうから。控えめな子が多かったらしく、私とつぐはいの一番に下車をした。

 

「何が?」

 

 梅雨らしくはない太陽がつぐの半袖から出る白い肌を焼きつける。手で庇を作りながら、つぐは眉根を下げた。

 

 ジメッとした空気がアスファルトから悶々と湧き上がってくる。呼吸をするたびに肺が水分を吸収して重たくなっていくように感じた。

 

「今日のバイトの有無を聞いてきたんは、なんか用事があるからなんやろ?」

 

「そうそう、」

 

 肩に掛けたトートバックの持ち手が一本、細いつぐの肩から落ちた。だらんと垂れた藍色が、白いTシャツの肩に逆さ虹を描く。

 

千鶴ちづるが絵を観に来ないかって」

 

「あー……、あの子は人に観せるのが好きやな」

 

「言い方がやらしい」

 

「そういうニュアンスで言ってへんから」

 

 千鶴の顔が脳内に浮かぶ。出来れば会いたくないけど、バイトがないと言った以上、断る理由もない。製作があるからと言ったって、「何も出来ないでいるんだから、刺激が必要でしょ」と言い包められるのが関の山だ。

 

 曖昧な私の頷きを見て、「ほんなら三時頃に十八号館の前で」と、半身でこちらを見遣りながらつぐは口端を緩めた。

 

 長い、長い、夏休みの予定は、つぐたちと行く白浜くらいだから、お金のことはなんとかなるはずだとまだ先の問題に目を瞑る。春休みも帰省していないから、夏休みくらい父に顔を見せるべきだとは思うけど、秋に法事があるからその時でも構わない。

 

 それよりも前に、私には完成させなければいけない絵がある。

 

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