夜の街はあまり好きじゃない。子どもの頃、ダイニングの大きな窓から見えた田畑の景色を思い出すから。何もない闇は、海のように静かにうごめいていて、幼い私をいまにも家ごと飲み込もうとしているように思えた。本当は、幼い頃に海なんて見たことがなく、夜の琵琶湖の水面を思い浮かべていたのだけど。
禁酒日だと決めていたのに、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。疲れやストレスをお酒で解決しようとするところは、父に似たらしい。とはいえ、お互いに酒乱なんてこともなく、静かに呑んで、疲れ眠るだけで穏やかなものだけど。それに、最近は妹がお酒の量を調整しているらしいから安心していられる。
喉を伝う冷たいビールがやけどのように火照った心を心地よく冷やしてくれた。チン、と甲高い音を立てたレンジが、つぐから貰った唐揚げを温め直してくれたことを告げる。
蒸気でしなしなになった四角い箱を取り出せば、生姜とにんにくの香りが鼻をかすめた。付属していた爪楊枝で刺して、一つを口の中に放り込む。温めたりなかったのか、まだ芯まで温もりきっていなかった。
分かっていたはずだった。あの頃の絵の方が優れていることくらい。ただ、認められなかった。認めたくなかった。だって、あの頃の絵は今の私にはもう描けないから。
脳内には、悲しく重たい淀んだ色ばかりが浮かぶ。好きじゃないはずの夜の景色。人の寂しさや侘しさをトレースしたような悲しい景色。けど、どうして自分がそんな絵を求め始めたのかが分からない。
いや、分からないふりをしているだけなのかもしれない。昔の自分を振り返るのが怖くて、小手先の技術が身についた今の方が優れているのだと信じたかっただけなのかもしれない。
悲しい絵を描くのは、自分の心を表していると思ったからだ。大阪にやって来たのだって、長浜の夜闇を恐れたから。都会は夜でも十分に明るい。
窓の外を見やれば、パチンコ屋の明かりが小さく雨の中でぼんやりと浮かんでいた。それだけじゃない。街灯も家々の明かりも夜の闇を包み隠してくれている。
長浜だって観光地の方は、こういう明るさを持った景色なのだろうけど。そう思うと妙な親近感と寂しさがこみ上げて来た。自分の双眸が潤んでいるのに気がついたのは、窓から目を背けてからだった。雨のせいだと思っていた霞は、自分の瞳に張った薄い膜のせいだった。
冷たいビールを口に含み、自分が大人になってしまったことに気がつく。その事実が胸の底に沈んでいた幼い心を押し付けた。痛い。喚くように幼い自分が泣き始める。手が濡れているのは、ビール缶が汗を掻いたからじゃない。
「……お母さん」
思い出したのは懐かしい母の姿だった。
古めかしい使いにくそうな台所に立つ母の背中、今より錆の少なかったベランダで布団を干す母の姿、商店街の方まで手を引いてくれる母の優しい横顔。
思い出はアルバムから写真を剥がしていくみたいに涙と一緒にこぼれ落ちていく。残ったのは、あの病室で横になる入院着の弱った母だった。私の思い出はいつもそこに辿り着く。楽しそうな母の姿も記憶の中にあるはずなのに。そんな母が私の心の中に現れるたび、悲しくて、寂しくて、胸が張り裂けそうになる。
「ごめんね。私、魔法が使えなくなっちゃった」
綻びに気づかぬふりをしてきた報いかも知れない。瞼を閉じて、どれだけイメージしても、景色はもうなにも浮かんでは来なかった。
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