マニエールの綻び

伊勢祐里
伊勢祐里

5話

公開日時: 2021年6月14日(月) 19:10
文字数:4,732

 程よい気温に保たれた実習室には、絵の具の匂いが染み付いていた。この建物が施工されてから何十年間にも渡って、ここで芸大生が絵を産み出してきた一つの証だ。

 

「ようこそお越しくださいました」

 

 ほんの十数秒前まで「おそい」と文句を言っていたくせに。こちらの冷めた視線を気にも止めず、千鶴はティアードスカートの裾をわずかに持ち上げて、気品あるお嬢様の挨拶のような仕草で、可愛らしい笑みを溢した。

 

「お招きいただきありがとうございます」

 

 想像上のスカートを持ち上げて、つぐが千鶴の悪ノリに付き合う。千鶴がゼミの違うつぐを誘うわけは、こういうところで気が合うからなんだろう、と思った。

 

 私は、入り口近くの作業台の椅子に腰掛ける。二人とは少し距離を置く形だ。カーティガンの袖が汚れないように気をつけながら、頬杖を付いて、千鶴の方を見遣った。

 

「絵が完成しそうなんやろ?」

 

「そうそう、」

 

 よくぞ聞いてくれました、と千鶴はその声音を明るくした。ビビットな赤、太陽から降り注ぐ黄色、それが千鶴の声のイメージだ。

 

「まだ最終調整しなあかんけど、九割くらいは固まって来たって感じで。その前に感想を貰いたいなぁ、って」

 

 白い布が掛けられたキャンバス。手前の椅子には、絵の具が付着した青い色のエプロンが、丁寧にたたまれていた。日頃、千鶴が愛用しているものだ。先程まで作業をしていたらしい。

 

 ごほん、と咳払いを打って、千鶴は絵を覆っていた布を取り払う。

 

「相変わらず綺麗やなぁ」

 

 絵を見た瞬間、つぐが感嘆の息を漏らした。

 

 描かれていたのは、道頓堀どうとんぼり川を下る観光船。グリコの看板で有名な観光地、戎橋えびすばしの上からの景色。昼間でも煩いくらいのネオンと鮮やかで強烈なはずの街の色彩は、千鶴の手によって淡いトーンにチューニングされている。カメラのピントをわずかにぼかしたようなタッチは、千鶴のいつもの手癖。印象派を思わせる曖昧な輪郭で、川沿いの遊歩道を行く人混みが表現されていた。

 

「道頓堀か」

 

「うん。心斎橋しんさいばしって活気があって好きやねん」

 

「描いてる印象あるわー」

 

 つぐの言う通り、千鶴がよく絵の題材にしているのは、なんばだとか梅田だとかの繁華街の景色だった。行き交う人波、活気づく街、華やかな世界。千鶴が描く輪郭の曖昧な線は、そこにあるはずの悲しみや切なさを塗りつぶし、排除していく。柔らかな色から産み出される明るさと活力が彼女の絵の魅力だ。

 

 たとえ、どんな暗い場所を描こうとも、その景色に潜んでいるポジティブなものを引き出し、絵にする力が彼女にはあった。それはきっと、彼女の内に潜在的な光があるからだ。

 

「この前に描いてた大阪駅の絵も綺麗やったけど、今回も千鶴らしさが出ててええと思うよ。人混みとかの表現の仕方が年々上手くなっていってる」

 

「ありがとう」

 

 つぐは人をよく褒める。お世辞ばかりを言っているわけじゃなく、思ったことを素直に言葉にするのが得意なのだ。けど、千鶴がつぐに期待しているのは、包装紙にラッピングされた綺麗な褒め言葉じゃない。

 

「私らを呼んだってことは、なんか引っかかってることがあるんちゃうの?」

 

 私の言葉に、千鶴は表情を引き締めた。白いブラウスの襟をしゃんと正す。清潔感のある夏の装い。それはどこにでもいて街に溶け込む普通の女の子そのものだ。

 

「気になってるのは、空の色」

 

 そう言われて、私は空に注目した。風の流れと高く狭い空に張り付く雲の切れ目が、繊細な彩りで表現されている。細く緩やかな弧を描く瑠璃色とくすみのないハイトーンな水色。ビルの隙間に覗く優しい青は、輪郭がぼやけているはずなのに、どこまでも突き抜けていくような爽快さがあった。

 

「空の色?」

 

 つぐが首を傾げた。すかさず、千鶴が答える。

 

「そう、全体と比べてみて」

 

 絵の全体を捉えるように、つぐが身体を反らした。Tシャツがピンと張って小さな胸が僅かに強調される。作業台の方にいた私は、めぐが身体をのけ反らせてくれたおかげで、絵の全体が見えるようになった。

 

 つぐは、「あー、」と思考を巡らせる声を発したあとに言葉を続けた。

 

「空も表現的には素晴らしいと思うけど。全体との色のバランスが納得いってないってこと?」

 

「うん。やっぱり都会の景色の中に紛れる自然って難しい。今回、道頓堀の水面がこの絵の核になってると思うんやけど、この空とのバランスがしっくり来なくて」

 

 千鶴は、不満そうな顔で水面と空を交互に指差した。千鶴の言いたいことは分かる。空が底抜けに明るいせいで、全体を通して見た時に、どうしても纏まりが悪くなってしまっている。そこの修正に煮詰まったというわけだ。

 

 絵というのは、僅かな配色の差で、見え方が百八十度変わってしまう。青、一つを取っても、明るさや濃度の違いが無限にあり、その色をどこに配置するかでもまた印象が変わってしまう。どこにどれだけのバランスで色を塗るか。その繊細な調整を繰り返して、一枚の絵を完成させるのだ。

 

 目に見えた色を塗ればいいと言われるとそれまでなのだけど。画家という生き物は、そこに個性を植え付けたくなるものだから。そのままの色で良いなら写真でも構わない。もちろん、写真家だって個性を映し出すものであることは承知している。自ら色を産み出す画家は、よりそれが顕著だという自負があるのだ。

 

 つぐと千鶴の会話は続く。

 

「確かに水面の演出はすごく綺麗やもんな。修正するなら空の方ってことやな。うーん、やったらもう少し暗くした方がええんちゃうかな?」

 

「暗くか」

 

「トーンを落とせば、纏まりが出てくる気がするけど」

 

「つぐみの意見も最もなんやけど、空のこの色は出来るだけ崩したくないんよなー」

 

「暗さを持ち込むのは千鶴っぽくないから?」

 

――この絵はすでに十分素晴らしい。

 

 構図も題材もクオリティーも。千鶴が納得していないこの空だって、描ける学生がどれだけいるだろうか。そりゃ、私もつぐも千鶴が不服に思っているバランスの違和感には気づいた。けれど、そのミスはミスと呼ぶにはあまりに些細なものだ。

 

 特にこの絵の核と言うだけはあって、水の表現は秀逸だった。ガラス片を散らしたみたいな無数の陽光の煌めきを、単色のハイトーンで上手く表現している。川の流れに沿った繊細な色の差と影を使うことで、その光があたかも何色もあるように錯覚させている。

 

「この水色を捨てれば全体のバランスが取れることは分かってる。けど、それじゃ私らしくないかなって。つぐみの言う通り、暗さを出さないのが私らしさやから。それに、水面の青と空の水色、この対比が今回のテーマの一つなの」

 

 誰もが思っていることがある。千鶴はプロになるんだ、と。こういう天才が世の中に多くの作品を残し、人を感動させるのだ、と。

 

 普通は、これだけのクオリティーの絵を描ければ満足する。今回は上手く描けた、と安堵する。けど、千鶴はそうならない。

 

 流行りのメイクで纏われた小さく可愛らしい顔が、つぐを見つめている。仕草も表情の移ろいも何もかもが普通の女の子だ。やっぱり、千鶴がこの絵を描くというのは信じられない。彼女には芸術家たるオーラというものがないから。……けれど、私は知っている。その瞳の奥が……、清楚で塗り固められた髪の毛と皮を剥ぎ取り頭蓋骨を砕いたその奥が……、確かな向上心と止めどない貪欲さで溢れていることを。

 

 あの日から千鶴に抱き始めた感情は、紛れもない恐怖だった。きっと本能的に危険を感じていたんだと思う。才能の差というものは、憧れという形で感情のキャンバスに現れ、一度惹かれたら最後、そこに到達するか諦めるまで、私の心を囚え続けるから。

 

「対比というテーマを聞いた以上、これは一つの正解のように思えるけど?」

 

「違和感こそが、メッセージってこと?」

 

「そう。空の技法も水面に負けないくらい高レベルやし。解決策がないのなら、無理にこれ以上、手を加える必要はないのかなって。この水色だってたどり着くまでに苦労したんやろ?」

 

 つぐからのアドバイスを、千鶴は素直に聞き入れ頷く。つぐの意見は的確で嘘がない。

 

「水色を手放したくない理由は正解。もちろん、苦労して辿り着いたっていうのが一番の理由じゃなくて、この色がこの景色の空を最も表現出来ていると思ったから」

 

「それは分かってるって」

 

 うーん、とつぐが顎に手を当てる。何か良いアイデアは無いものかと懸命に考えてあげているらしい。その視線が、ずっと黙っていた私の方へ向く。

 

「亜美はどう思う?」

 

「どうって?」

 

「空の色やん」

 

 話を聞いていなかったのか、と言いたげにつぐの眉根が下がった。女性らしさの薄い申し訳程度のメイクの下で綺麗な肌に皺が寄る。

 

「……空の色ね、」

 

 椅子から立ち上がり、私は千鶴が描いた絵へと近づいた。鮮やかな色彩、迷いのない線、美しい構図。この絵を褒めない人はいないはず。なのに、どうして、千鶴はこの絵で満足しないのだろう。その答えは訊くまでもなく知っている。

 

 千鶴の方を向けば、彼女は私の意見を心待ちにしていた。どうして、どうして、そんな顔をするのだ。

 

――私には、千鶴より優れた才能なんてないのに。自分より才能のないものから何を吸い出そうというのか。

 

「雲の量を増やすイメージとかは?」

 

「雲か、」

 

「うん。水色の量が多いんやと思う。白を増やせば、言っているような違和感はマシになるんちゃうかな?」

 

 湧き上がってくる嫉妬に近しい感情を飲み込み、出来る限りのアイデアを出せば、千鶴が目を閉じた。脳内でシミュレーションが行われているらしい。

 

 つぐが言っていた「私が千鶴と二人きりになりたくない」というのは正しい。千鶴と話していると、胸の奥が正体の分からないモヤモヤに侵される。千鶴の絵を見ると、吐き気のような不気味なものが腹からこみ上げてくる。自分の身体が、じわじわと千鶴の色に染まっていくのが分かる。

 

 それらが私の身体を蝕んでいくたび、やりようのない無力感に襲われた。

 

 本来の自分の色ではない千鶴の色が染み込んでいく裸の自分に劣等感を覚えた。

 

 けれど、どれだけ拒もうとしても、心は言うことを聞いてはくれない。今も千鶴の絵を見て、その才能を渇望している。自分もこうなりたい、こんな絵を描きたいという欲望が心臓を騒立てる。その要因が、千鶴への強い憧れである以上、たとえ、自分が描きたいもの、描くべきものが、確実に遠ざかって行くのが分かっていたとしても。

 

「……なるほど。その案でいってみる」

 

 ぱっと開かれた千鶴の双眸が、抜群の明るさを持ってこちらを見つめた。夏の太陽を直視した時の焦げ付くような痛さが、眼球の奥に響く。

 

「完成できそう?」

 

「うん。やっぱり二人に相談して正解やった」

 

 さっそくと言わんばかりに、千鶴が椅子の上に畳まれていたエプロンを手に取った。輪になった紐を首から掛けて、側面でだらんと垂れた紐を器用に背中で結び始めた。

 

「力になれてよかった」

 

 喉がチクリと痛む。らしくない色の言葉、らしくない声色。

 

「ホント、ありがとうね」

 

 屈託のない笑みを浮かべたまま、千鶴はパレットへ手を伸ばした。拘っていたという水色は、大きな半円の隅で穏やかな寝息を立てている。

 

 絵へと向かった千鶴に、つぐが寄り添うように声を掛けた。

 

「千鶴は楽しそうに絵を描くよね」

 

「そうやなぁ、描いてる時が一番楽しいかな」

 

 千鶴は本当に楽しそうに絵を描く。産み出す苦しみのようなものは、彼女には無いのかもしれない。

 

「それじゃ邪魔になるから私たちはこのへんで」

 

「あ、本当に今日は相談に乗ってくれてありがとう」

 

「ううん。全然ええよ」

 

 今日もまた私は千鶴の明るい色に染まっていく。居心地の悪い私らしくない色に染まっていく。実習室をあとにしようとする私たちに、千鶴が顔のそばで小さく手を振った。

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