マニエールの綻び

伊勢祐里
伊勢祐里

10話

公開日時: 2021年6月26日(土) 20:12
文字数:11,729

 私に魔法が使えなくなったとしても、それは言い訳にはならず、課題の提出期限は時間の流れという非情なスピードで迫って来ていた。

 

 昨日の続きを描く気にもなれず、また真新しいキャンバスを前に、何を描くべきかと天を仰ぐ。キャンバスよりもくすんだ白が、天井いっぱいに広がっていた。

 

 けれど、私はすっかり絵のことに集中できていなかった。思考の大半が、これからの漠然とした自分の未来について考えていた。きっと、つぐが就職活動のことを話していたせいだ。絵を辞めて自分はどうするのだろう。リクルートスーツを着て、毎日、電車に揺られる自分の姿は、お世辞にも似合っているとは言えない。

 

 中学の頃、美術部に入ってから、絵のことだけを考えてきた。けど、将来は絵に関わる仕事に就きたいと考えていたかと問われると、残念なことにはっきりと頷くことは出来ない。未来なんていうのは、あまりに遠くにあるもので、望遠鏡でも使わないとよく見えないものだったから。それもとびっきり大きなやつだ。ハワイのマウナケアにあるみたいな大きな天文台の望遠鏡でしか観測することは出来ない。

 

 私はただ絵を描きたかっただけだった。いつだって目の前の今のことしか見ていない。それはほんの数日前も同じで、課題のことだけで精一杯だった。

 

 いまさらになって、望遠鏡を良く覗いていた連中がいたことを思い出す。そういう将来のことを良く考えている人たちは、夜空の星を観測することが好きな人たちなのだろう、くらいに思っていた。宇宙の彼方にある星を見つけて、いつかあそこへ行ってみたい、と夢みたいな期待を膨れさせているものだと。行き方なんて分かるはずがないのに。

 

 けれど、時間という宇宙船に乗って、私たちは遠い未来まで無条件で連れて行かれてしまうものだった。望遠鏡なんかなくても、目視出来てしまうほどの距離に、銀河の彼方だと思っていた景色が広がっている。芸大の卒業まで一年半ほど、その先の道はそれよりも前に決めなくてはいけない。

 

 夏休みの最後の週に宿題をやっていなかった時の感覚に近いだろうか。来週から学校だね、と友人に現実を突きつけられた時のような焦燥感があった。

 

 絵を失うと自分には何も残らない。将来のことを少し考えた時に、自分に出来ることの無さを突きつけられた。もちろん、絵を続ける選択肢だってある。選ばなければ、世の中には絵を描く仕事はそれなりに溢れているから。

 

 だけど、今、混ぜ合わせて無限の色を生み出せていた絵の具は、その魔法を失い、子どもの頃の十二色入りの色鉛筆の想像力に負けてしまっている。

 

 そもそも、芸大に進学したのも、自分の実力を向上させたかったからではなかった。絵をまだ続けたい。そんなモラトリアムから。就職をして絵から切り離されることを恐れていたに過ぎない。

 

 それなのに、この状況か。自嘲気味の笑みは寂しい色をしていた。

 

 長い思考をそこで途切れたのは、扉のノック音が聞こえたからだ。実習室の使用許可は、終日で取ってあるはずなのに。「は、はい」と少し声を上ずらせて、振り向くと、すでに開かれた扉の前に千鶴が立っていた。

 

「おつかれ」

 

「お、おつかれ」

 

「いま、大丈夫?」

 

 心配そうにこちらを見つめる双眸が、小さな子どもを見るみたいな優しさに縁取られたものに変わっていく。千鶴の手に握られた傘は透明なビニールに覆われていて、その底に水滴が溜まっていた。本懐を思い出した雨は今日も降り続いている。

 

 ビニールに穴を空けて、中の水を取り出したい衝動に駆られた。そんな素振りを隠して、私は驚きましたよ、なんて顔を作ってみる。

 

「急にどうしたん?」

 

「苦しんでるって聞いたから」

 

 となると、伝えたのはつぐだろう。私は目の前の真っ白なキャンバスに視線を戻す。

 

「この通りやで」

 

 何も生み出せない姿を見られて、みすぼらしさこそ感じたが、苛立つ気にはなれなかった。恐らく私のことを思ってくれての行動だし、何よりつぐにはつぐなりの考えがあるんだろうと思ったから、……というのは冷静なふりをしている建前だ。ただ、何も生み出せない絵描きは絵描きですらなく、みすぼらしさを見られたところで怒る道理は一つもなかったからという諦念だった。

 

「アイデアは見つからない?」

 

 明るい表情を崩さぬまま、千鶴はこちらに歩み寄ると、木製の丸イスに座っている私の隣に立った。私は流行りの化粧に纏われた彼女の可愛らしい顔を見上げる。

 

「見つかったら作業してるって。提出期限まで時間もないし」

 

「そりゃそうやんな」

 

 甘い千鶴の香水の匂いは、くどくないくらいの仄かさ。異性でなくとも心地よさを覚える柔らかさが、彼女の周りの空気を染めている。けど、それはやっぱり特別なものじゃない。街中の至るところで漂っている香りだ。

 

 千鶴は顔ごとこちらに視線を下げた。

 

「でも、ここに来てキャンバスの前に座ってるってことは、スランプを抜け出したいと思ってるってことやんな?」

 

「それは、……たぶんそう」

 

 曖昧な返事になったけど、抜け出せるならスランプから抜け出したいというのは本心だ。だって、――絵以外にやりたいこともやれることもない。それは遠かったはずの未来を想像した時に。――今はこれをやるしか無い。これは目の前の課題をクリアするために。違う問題の答えを求めているはずなのに、導き出される解決方法が同じなのが、人生の不思議なところだ。

 

「ほんなら、隠すのも気持ち悪いから、ここに来た理由から」

 

 窓枠に傘をもたれさせ、千鶴は近くの椅子を引き寄せた。雨が降っているせいか、今日は珍しくパンツを履いていた。七分丈のタイトなものだ。けど、フェミニンな雰囲気が決して崩れていない。

 

「つぐに頼まれてん。亜美が苦しんでるから、何かきっかけを与えてやれないかって」

 

「やっぱり、……つぐか。つぐらしい、というか」

 

「そうやな。尖った格好で個性的に見せてるけど、友達思いのいい子やな」

 

 くすりと笑みが溢れた音が聴こえた。彼女は私よりも少し後ろに座っていて、表情は見えない。落とした視線の先には、ベージュのラインが入った千鶴の白いスニーカーが、木の床をコツコツと機嫌よく二分音符のリズムを叩いていた。パンツの裾とスニーカーの間には、綺麗な細い足が覗いている。

 

「それじゃ千鶴は、つぐから頼まれて、スランプ脱出のためのアドバイスをしに来てくれたん?」

 

「まさか。亜美には、私が優秀な占術師か信者に提言をするカリスマにでも見えてる?」

 

「信じてそうではある」

 

 世間へのイメージが自然と千鶴のイメージに繋がっていた。盲信とまでいかずとも、占いやカリスマへの興味というのは、常に冷めることのないコンテンツだと思うから。夢や血液型、誕生日や星座で、相性や未来が分かるとは、私には思えないけど。

 

「占いは嫌いではないかな。主に信じるのは結果がええ時だけやけど」

 

 思った通りの答えに、少しだけ満足感のある笑みが溢れる。千鶴には見えないと油断していた。なに笑ってんの、と彼女の声が戯けたものに変わって、窓ガラスに自分たちの姿が写っていたことに気がつく。

 

 不服そうに眉根を潜めた私を見て、千鶴は口元を綻ばせた。心底穏やかな声が漏れる。

 

「思ったよりも元気そうで良かった」

 

「そんなに心配してくれてたん? 課題が出来てないだけやで、大袈裟やな」

 

「そうかな? つぐは誇張して話す癖は無い子やと思ってるけど」

 

 それは違いない。つぐは何に対しても正当な評価を下す人間だ。私も千鶴も彼女の見る目に関しては一目置いている。

 

「つぐは、亜美が死にかけているって」

 

「私が死にかけてる?」

 

「もちろん何か大切な主語が抜けているんだとは思った。本当に思い詰めて死にそうになってるなら、彼女だってもっと慌てるはずやし。おそらくは比喩的なことかなと考えたよ。つまり、亜美の中で、何かが死にかけてるんとちゃうの?」

 

 それは否定できないことだった。祖母が亡くなる前のあの時に似たスランプは、何かの死の予感を覚えたから。それは今回もそうだ。それが他人ではなく、私自身の中の何かである可能性はある。

 

「もしかしたら、そうかもしれない」

 

 一瞬の間が実習室に訪れる。自分の心臓の音が聞こえた。焦りとも落ち着きとも取れないスピードで鼓動を打ち続けている。

 

「亜美の中で死にかけているものって?」

 

 部屋の中に漂う絵の具の匂いの中へと、千鶴の問いかけが溶けていく。その残響はやがて、雨音にかき消されていった。

 

「分からない」

 

「そっか。……ちょっと、っぽい質問してみた」

 

 千鶴は恥ずかしそうに人差し指に髪の先を巻きつけた。それがらしくないことだと思っているらしい。

 

「一応、断っとくけど、さっきも言った通り、私は人を導くような助言やそれらしいことは言えへんから」

 

 だって、と付け加えられた言葉は、どこにでもいる女の子のそれではなかった。

 

「私は絵でしか思いを伝えられへん人間やから」

 

 思いを、歌に乗せるならミュージシャン、文字に起こすなら作家、器に表すなら陶芸家であるように、彼女はどこまでも絵描きなのだ。思いのすべてを作品に込めるのだから、それ以上、余計なことを話す必要はない。その強い精神こそが、唯一、彼女を絵描き足らしめている。

 

「けど、少し話を聞くだけ。それから私の思ってることを話す」

 

「つぐに頼まれたから?」

 

「それはもちろんそう」

 

 千鶴は腰を浮かせたと思えば、私の顔が見える位置にまで椅子を前に出した。床と椅子が擦れる音が耳朶を打つ。

 

「亜美はさ、なんで絵を描き始めたん?」

 

「占い師みたい」

 

「やから違うって。どっちかというとカウンセリング?」

 

 心理学の授業は取ってへんけどねー、と千鶴は明るく私のことを見つめる。その双眸が真面目なものだったから、私は記憶の綱を手繰り寄せてみた。出来るだけ古い記憶に繋がってそうなボロボロの綱を引っ張ってみる。不思議と思い出に手が伸びたのは、千鶴が優しくしてくれたおかげかもしれない。いつからか溜まっていた埃を撒き散らしながら、懐かしい思い出が顔を出す。

 

 土壁と石油ストーブの匂い、分厚い布団を挟んだ炬燵の上で、私は新聞に挟まっているチラシを広げていた。ブラウン管に映る教育番組に目もくれず、私は懸命に色鉛筆で何かを描いている。隣に気配を感じて、意識を向ければ、父と母が嬉しそうにその光景を眺めていた。

 

 これは私の思い出が作り出した妄想だろうか。それとも本当にあった出来事だろうか。鮮明に浮かぶ二人の顔が優しく穏やかで、絵を描く私を微笑ましく見つめている。

 

「……気づいたら絵を描いてた。チラシやカレンダーの裏とかに。両親が喜んでくれたからかな? ただがむしゃらにずっと描いてた」

 

「まぁー、みんなそんなもんかもね」

 

「千鶴も?」

 

「私だって記憶にないくらい小さい頃から絵を描いてたから。ここに来ている子は、そういう子ばかりなんちゃうかな? 昨日一昨日で絵を初めて、ここに来ている人がいるなら本当の天才や」

 

 いるなら天才に会ってみたい、と千鶴は天井に向かい品のある笑いを溢した。私が千鶴に抱く評価と彼女自身が下してる評価は別物らしい。

 

 けど、どうして絵を描き始めた時のことを聞いたのだろう。私がそう訊ねれば、彼女は「描くのって楽しかったやん?」と声のトーンを一つ落とした。

 

「小さい頃は夢中になって絵を描いてた。頭の中にイメージする色が白い紙の上に投影されていくのが何より楽しかった。どんな想像もどんな妄想も、細い鉛筆の先を通じて、形になっていく。それがまるで魔法を使っているような感覚があってね。……けど、色んなことを知って、色んなものを見て、本気で絵と向き合うたびに、あの頃の無邪気だった楽しさがどんどん薄れていく気がする」

 

「それは分かる気がする」

 

「変に捉えないで欲しいんやけど、」

 

 そう言って、千鶴は一旦、言葉を唾と一緒に飲み込んだ。言うべき言葉を頭の中でしっかりと構築しているのだろうと思った。

 

「だからさ、亜美が苦しんでるのは、特別なことじゃないと思う」

 

 一瞬だけムッとした表情を作ってしまったけど、冷静な自分がはやる気持ちを落ち着かせた。彼女はちゃんと伝えようとしてくれている。苦手であるはずの言葉で。だから、私もちゃんと読み取ろうとしなくちゃいけない。

 

 きっと、私が陥ったスランプの原因である小さな綻びは、誰にでも起こっているものだと言いたいのかもしれない。千鶴にだって、つぐにだって。何かを産み出すことは、楽しいことだけじゃない。苦しんで、苦しんで、絞り出したところにある美しさを、私たちはいつの間にか求めているものだから。

 

「ここまでやって来ても、卒業と同時に絵を辞める人は少なくないやん。才能の差を感じたり、他に好きなことが見つかったり、理由は人それぞれやと思うけど。……もちろん、それは人の選択やし、他人の人生やからとやかくいうつもりもないし、……それらは正解不正解なんて分からんもんやろ?」

 

 自分が言いたいことが迷宮に入ったというように、千鶴は言葉尻を疑問系で終えた。言いたいことを上手く伝えられないことがもどかしいのか、唇を噛み視線を下げる。

 

「やけどさ、」

 

 そこで一つ、千鶴は深呼吸を挟んだ。清潔感のある水色のブラウス越しに胸がわずかに膨らみ、息を吐けば萎んでいく。

 

「私もつぐも亜美には絵を辞めて欲しくないと思ってる」

 

「どうして?」

 

 素直に出た問いだった。他人のことに口出しするべきじゃない、と言った千鶴の言葉とは明らかに矛盾している。

 

「私だって人間やから、口出しすべきじゃないっていう道徳心に反発したくなることだってある。才能はあるのに自分の絵をよく分かってない子を見ると歯がゆさを感じたりな。つまり、亜美の自己評価低いところを見てるとヒヤヒヤしてしまう」

 

 つぐの差し金になったのも同じ理由、と千鶴は口端を釣り上げた。悪戯な表情は少し子どもっぽい。

 

「私の才能って。それに自己評価そんなに低いかな?」

 

「自覚なし? めっちゃが付くくらい低い、」

 

 千鶴には言われたくない、と私は片目の眦を歪ませる。千鶴は自分を客観視して奢っていないというだけだけど。少なくとも千鶴は、自分が産み出した作品にしっかり誇りを持っている。

 

「それに素直じゃないし」

 

「……ちょっと捻くれてるのは、承知してるけど」

 

 つぐや千鶴の評価を素直に受け入れられない自分は、確かに素直じゃないのかもしれない。それは自己評価が低いことが原因かもしれないけど。

 

「捻くれてるのは、他人に対してじゃなく、自分に対してな」

 

「自分? 自己評価のこと?」

 

「それもあるけど。もっと絵と向き合う上で、本質的な部分かな。亜美は自分に嘘をついてる」

 

 心辺りがなく、首をかしげれば、千鶴はそばにあった絵の具を掴んだ。青色のキャップを指先で転がす。

 

「質問を変えるね。なんで亜美は、風景画を……ううん、暗い風景画を描くようになったん?」

 

 こちらの疑問など無視するように、千鶴は新しい問いかけを用意してきた。彼女なりの手順があるのかもしれない。それに、こうして自分のために時間を裂いてくれていることを思うと、それに逆らう気にもなれなかった。

 

 私は質問の答えを探すため、また思い出を遡っていく。

 

 暗い風景を描き始めた理由――、真っ先に浮かんだのは、千鶴と初めて会った時のことだった。

 

 千鶴の真っ黒な瞳に惹きつけられたあの瞬間、私の中で何かが壊れた。けど、崩れたものは何だったのだろうか。無声映画のように崩壊の瞬間は音もなく、そして崩れていったのは色も形もない何かだった。

 

 私が返答に困っていると思ったのか、千鶴は優しい声色で言葉を続ける。

 

「私たちは、それぞれがマニエールを持ってるよな?」

 

 それは、絵画や小説家の作者が独自で持っている表現方法を表すフランス語だった。日本語に言い換えるなら、自分らしさといったところだろうか。

 

「マニエールっていうのは、素直さやと私は思ってる。作品をどこまで正直に表現できるのかが大切。亜美は、偽りの自分を作品に投影してる。それがどうしてなのか、私には分からない。だって、私には亜美のことは分からないから。……だから、自分で見つけなくちゃいけない。心の綻びの原因を――」

 

 心の綻び。千鶴にそう言われて、無意識的に口が動いた。ずっと内に秘めていた千鶴への思いがぽろりと溢れだす。

 

「千鶴に憧れてた」

 

「私に?」

 

「そう、」

 

 目の前にあるのは、初めて会った時と何も変わらない千鶴の瞳だ。絵画のような魅力的な美しさを閉じ込めた黒が、白いキャンバスの中に浮かんでいる。

 

「明るい景色を描く千鶴に憧れてしまったから、同じような絵にならないように、悲しい景色を描くようになったんやと思う」

 

「でも、私に会った時にはすでに描いてたやろ? 最初に見たのは、動物園前の町の景色やったはず」

 

「確かに……」

 

「初めて亜美に会って絵を見た時から、私は感じてた。この子は、素直になれないんだって。それは強がりだとかそういう類いのものかと思ってたんやけど。それから亜美と親しくなって、話すようになって、たくさんの作品を見るようになって、違うって気がついた。ボロボロになっている心の問題やって。……やから、私への憧れは関係ないとは言わんけど、原因はもっと昔にあるんやと思う。きっと、私の知らない亜美の過去に……」

 

 千鶴に反発してしまっていたこと、千鶴への憧れが私の絵をより暗い方へと突き動かしていたこと、この二つは間違いない。だけど、千鶴の言う通りだ。千鶴と出会ったあの時、すでに私は悲しみと切なさを風景の中に求めていた。

 

 だったら、もっと古くへ、遡らなくてはいけない。私は記憶の中の暗く重たい空気に包まれた方へと自身の身体を突き動かしていく。


 ぱっと景色が明るくなって、甘い線香と土壁の匂いが混ざったい草の香りがイメージの中で色をつけた。濁流のように押し寄せてくる懐かしさが思考を端折り、私の口を無意識に動かす。

 

「昔は長浜の町が好きやった」

 

 千鶴は私が長浜出身であることを知っていたっけ、と思ったが、汲み取ってくれた千鶴の相槌が入り、私は迷いを断ち言葉を続ける。

 

「ずっと長浜の景色を描いてたけど、長浜の町を描くのが苦しくなってん」

 

「どうして?」

 

「それは、……お祖母ちゃんが死んだから」

 

 私は感じていることを、ただ口にしていく。思考よりも先に言葉が出てきて、いま自分はこう言ったんだ、と遅れて理解が追いついてくる感覚があった。

 

「温もりのある風景には命がある」

 

 私が暗い風景を描き出したのは、確かにあのスランプの頃からだ。心が辛くなるたびに、別の町の景色を描いていた。長浜の町しか知らないというコンプレックスは、本当の弱く脆い自分を隠す体の良い言い訳だ。

 

「でも、命のあるそれらはやがて失われてしまうものやから。人の息吹を感じる景色を描くと相反する死を感じて怖くなって。……死の予感が、大切な人がいなくなる恐怖が、私を押さえつけてきた。きっと、そのせいで長浜の町を描けなくなっていったんだと思う」

 

 その頻度は日に日に増していき、高校を卒業する頃には、長浜の町をまったく描かなくなって、長浜から逃げるように大阪へとやって来た。

 

「それで人気のない町の風景ばかりを描いてたんか」

 

「都会のビル群は冷たくて、自然も少なかったから、余計な苦しみを感じなくて済んだ」

 

「それじゃ、綻びの原因は、お祖母ちゃんの死ってことか。お祖母ちゃんが長浜の風景を描き始めたきっかけやったとか?」

 

「きっかけ?」

 

「亜美がお祖母ちゃんの死に描けなくなるほどの影響を受けたのは、お祖母ちゃんの存在が亜美の中で大きなものやったからかなって。そうなると長浜の風景を描き始めたきっかけに結びつけるのは自然な流れじゃない?」

 

「そうかもしれない。けど、きっかけとは……たぶん、違う」

 

「違う? だって、いま亜美は自分で、お祖母ちゃんの死が綻びの原因だって言ったんやで」

 

 確かにスランプがやって来たのは、あの頃だ。だけど、本当にそうだろうか。あの時も今と同じ用に祖母の死を予感していた。予感とは経験に基づく予想だ。だから、綻びの原因は、それよりもずっと前にあるはず。

 

「もちろん、お祖母ちゃんも一つの要因なのかもしれない。ううん、間違いなくきっかけの一つだったと思う。けど、お祖母ちゃんの死よりずっと前から私は死の恐ろしさを知っていた」

 

「過去に別のトラウマがあったってこと?」

 

「そうだと思う。だって、私が絵を描いているのは――、」

 

 長浜の実家にいたはずの思い出は、白い絵の具に塗りつぶされていく。静かな空調の音に、色鉛筆の音が交じる。消毒液の匂いと命溢れる花の香りが、曖昧な輪郭を鮮明なものに変えていった。水色の花瓶にはバラの花が活けてあって、その横にはいつも父が持ってくるグレープフルーツが並んでいた。もしかすると、あれは母の好物だったのかもしれない。

 

 ――――だって、

 

 優しい母の声がした。私の意識はベッドで横になる母の方へ向く。入院着の上からでも分かるほど、やつれた身体。私の方に首を傾けて笑みを浮かべている。皺の目立たない綺麗な手で、私の頭を優しく撫でてくれた。

 

 アトリエの話をしてくれた、あの時の母だ。

 

「――だって、亜美にはずっと長浜の町を好きでいて欲しいから」

 

 忘れていたはずの母の言葉が蘇る。母がアトリエを用意してくれた理由を、どうして忘れていたのだろう。長浜の景色を描き始めたきっかけは、母のその言葉を受けてからだ。母が好きだった長浜を、母と過ごした長浜の景色を、絵にして残していたかったのに。

 

 それに父が未だに中二階をアトリエとして残してくれているのだって、母の思いを汲んでのことだ。


 景色が滲んで、瞳に薄い膜が張った。瞬きをすれば、それらがすべて流れ落ちて、見えていた光景は、真っ白なキャンバスに投影された幻覚だったことに気がつく。

 

「私が絵を描いていたのは、お母さんを感じたかったから」

 

「お母さん?」

 

「お母さんも長浜出身で私が小さい頃に亡くなったの。妹は小さかったから覚えていないだろうけど、」

 

 私の身の上話を、千鶴は静かに聞いてくれていた。時折、織り交ぜられる頷きは、洟をすするのを誤魔化しているようにも見えた。

 

「優しくて料理も上手で、絵が上手くて、お母さんはよく自分で絵本を描いて読み聞かせてくれてん。お話はオリジナルではなかったけど。優しい声で、それに、私がカレンダーやチラシの裏に描くいたずら描きをいつも褒めてくれた。大好きやった……だから、お母さんとの思い出が残ってる長浜の町を、私が大好きやった長浜の町を絵にしたいって思って……」

 

「あの絵の中に宿っていた温もりは、亜美のお母さんそのものか」

 

 私が言葉をつまらせたタイミングで、千鶴が深呼吸するような優しい声色で言葉を紡いだ。その間に呼吸を整え、私も言葉を続ける。

 

「いうて、私も幼かったから、お母さんの死というものをハッキリ認識できていなかったんやと思う。ただ漠然と、透明な世界へ行ってしまうお母さんの姿だけが意識の中にこびりついていて。……あの日、お母さんは急に動かなくなった。初めは寝てるのかなって思って話しかけてたんやけど、そのうち、看護師さんとお医者さんが飛んできて。そのうち、家族が集まって……、お父さんがものすごく悲しそうな顔でお母さんのことを見つめていて、お祖母ちゃんは妹の手をずっと握ってた」

 

 甲高い機械の音が耳にこびりついている。あの時の景色の色は明確な赤だ。血の色、恐怖と緊急を告げる強烈な色。

 

「亜美は、お祖母ちゃんが亡くなる時に、お母さんの死を思い出してしまったってことか」

 

「あの頃は理解できなかったものが、時間を超えて、私の心を蝕んだんやと思う」

 

「母の死と祖母の死と私への憧れが、心の綻びの要因か」

 

 そこに自分が含まれていることを嘆くように千鶴は息を吐いた。何とも言えない気持ちが彼女の中にあることを、私はその透明な呼気の中に交じる濁った色を見て感じた。

 

「けど、それと向き合うことで描ける絵があるはずやと私は思う。酷で身勝手な話やけどさ。もちろん、亜美が絵を描くかどうかは自由やし、辛く苦しいことから逃げるのは悪いことじゃない。それに、人にとって死というものがどれだけ大きな障壁となるのか、体験したことのない私には想像しかできない。けど、何かを産み出す時、壁がないことなんてありえないから。どれだけ辛くても、亜美が絵を描きたいなら……!」

 

 千鶴はどうしてそこまで私にしてくれるのだろうか。けど、それを訊くのは少しだけ野暮に思えた。だって、懸命な言葉の真意が分からないほど、その言葉が胸に響かないほど、私は馬鹿じゃないから。

 

「お母さんの言葉を思い出した以上、私は絵を辞められない、……ううん、辞めたくはない。千鶴の言う通り、きっと苦しいと思う。辛いと思う。けど、あともう少しだけ、この学校にいる間は戦い続けたい」

 

「なら、自分が描くべき絵はどんなものか分かるよな?」

 

 目の前で体験した母の死、祖母の死がそのトラウマを引き起こし、千鶴への憧れが本来の私のマニエールをさらに遠ざけた。それを順に遡って行けば、かつて私が持っていたはずの描くべきものに辿り着く。千鶴の真似じゃない。私の中にあったもの。あの頃の私が描いていたもの。思い出の中にだけ宿っている魂を、今の私が感じているあの町の風景を、描く。

 

 千鶴の顔がやけに朗らかになっていることに気が付き、「どうしたん?」と私は眉根を下げた。間の抜けた顔になることは分かっていたけど、構いはしなかった。

 

「なんでもないよ」

 

「嘘や、目が笑ってる。間抜けな顔してるとでも思ったんちゃうの?」

 

「違う、違う。亜美が、すごく穏やかな顔してたから」

 

 そう言われ、正面のガラスに映る自分の顔を見やる。間抜け面になっていると思っていたが、言われると、どことなく懐かしさを感じる表情だった。濃くはない化粧の向こう側に、幼い自分が微笑んでいる気がした。 

 

「なぁ、千鶴はなんで風景画を描き始めたん?」

 

「私?」

 

「私のことを聞いたんやから、千鶴のことも聴かせてもらわな、不平等や」

 

「そんなもんかな?」

 

 不満そうにしながらも、千鶴は、自分のことを話してくれた。人とのコミュニケーションから創造性が生まれて、そこで感じたものを絵に起こすのだ、と千鶴は語った。

 

 彼女が普通の雰囲気を纏っているのも、より多くの人と接する為なのかもしれない。そもそも、その性格自体が彼女の絵の本質に起因しているのかもしれないけど。

 

「もしかして、それであの日、私に話しかけてきたん?」

 

「私は友達がたくさん欲しいから、っていうと軽く聞こえる? 学生生活のスタートなんて友達作りで必死になるものやろ?」

 

「世間的にはそうなんだろうね」

 

 それほど自分が必死だった記憶はない。それは一匹狼でもやってやるぞ、という芸大生の息巻く精神論があったからだろうか。けど、仲の良い友人グループはあるし、無意識のうちに努力をしていたのかもしれない。千鶴がカテゴライズする友人と、私のそれとでは区分の範囲が大きく異なるのだけど。

 

 ふと、千鶴にとって私はどれくらいの友人として認識されているのだろう、と気になった。親友と呼ぶにはあまりに親しくなく、知り合いと呼ぶには、互いの懐へあまりに深くに入り過ぎた。

 

「けど、」

 

 私が何も訊ねずとも、千鶴はまるで言い訳をするように話し始めた。

 

「亜美と友人になりたかったのは特別なものを感じてたから。……うーん、これはこれでチャラく聞こえちゃうか」

 

 冗談っぽくというよりもどことなく真剣な声色。千鶴の言いたいことはなんとなく伝わった。けど、それは親友よりも重たいものだ。自分のようなヤツが……、そんなことを言えば、自己評価が低いとまた怒られてしまいそうだ。

 

 トゲトゲしい言葉を舌の上で転がしてみる。これは簡単には飲み込めそうにない。誰もが才能を認める千鶴とそういう関係性だと認識されていることは、嬉しくもあり、少しだけ恐ろしくもあった。

 

「私が人とコミュニケーションを取るのは、自分の中にはない色を相手から感じ取るため。相手の中に存在するなるだけポジティブな色を抽出して、自分の中で昇華していくの。人は希望を持っていないと生きていけないと思っているから、私は希望を絵にする。そうすれば、誰の心の中にも必ず潜んでいる絶望を塗りつぶせるはずだと信じているから」

 

 素敵な理由だ、と素直にならざるを得なかった。底抜けに明るい彼女の絵は、誰かの心の闇を消し去るための光だったというわけだ。だからこそ、私の中の悲しみを千鶴はやるせなくて、もどかしく思っていたのかもしれない。実におせっかいで……、いい子だ。

 

 でも――、 

 

「待って、千鶴。人の話を聞いて、その希望を絵にするなら、普通は人物画を描くやろ。なんで風景画?」

 

「人と触れ合って、人となりを感じて、人物画を描くなんて、あまりに普通過ぎひん?」

 

 千鶴も素直とは言えそうにない。吹き出した私を見て、彼女はわずかに目を瞠った。それから、恥ずかしそうに「捻くれてたかな?」と笑い出す。

 

「めっちゃ! 捻くれすぎ!」

 

 お礼と仕返しの二つを織り交ぜた私の言葉を、千鶴は愉快そうに受け止めてくれた。


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