家に帰ってきてから直ぐに降り出した雨は、激しさを増して、カーテンの向こうの窓を叩いていた。つぐは、これからバイトだと言っていたけど、濡れはしなかっただろうか。時折、遠くで光る稲光に一人顔をしかめてしまうのは、小さい頃から雷が苦手だったからだ。雷様におへそを取られるぞ、なんて母から言われた迷信を信じていたのは、いつ頃までだっただろう。
ガラス窓のある蓋の向こうで音を立て、ハンバーグが色を変えていく。いい具合に焼けてきたタイミングを見計らい、サラダの盛り付けを始めた。つぐのようなお洒落なサラダは作れないから、スーパーで売られている袋サラダで我慢する。栄養バランスを考えて、プチトマトをいくつか添えて、ノンオイルのドレッシングを少量たらす。こういう心がけを妹は褒めてくれるだろうか。
ほんのりと焦げたハンバーグを、フライ返しでサラダの横へと運び、ケチャップとウスターソースを混ぜておいたものを掛ける。デミグラスソースの作り方を以前に教わったけど、残念なことに今は赤ワインがない。あったとしても、私がそこまで手の混んだ料理をするとは思えないけど。
冷蔵庫から昨日買って来ていた缶ビールを取り出し、ハンバーグを盛り付けた皿と一緒に、ローテーブルまで運ぶ。稲光と共に、激しい雷鳴が轟き、私の足元をわずかに揺らした。随分、近くへ落ちたらしい。
おへそを抑えようにも手はふさがってしまっている。そんな冗談を言えるくらいには雷への耐性がついてきていた。もっとも、おばけや妖怪に対する子どもの頃の理解出来ないものへの恐怖とは違い、停電や家電製品への影響を気にするようにはなったけど。
プルタブの弾ける音が、エアコンの除湿によって冷やされた部屋をもう一段階冷やした気がした。ベッドのマットレスを背もたれにして、あぐらをかき、「ぐっ」と缶ビールを煽れば、爽快なのどごしが身体に染み渡っていった。お箸でハンバーグを裂いて、口へと放り込めば、今度は温かい肉汁が口内に膜を張るように広がった。それをまたビールで流し込む。
教わったレシピ通りに作れば、私だって料理くらい出来るんだぞ、と誰もいないのに胸を張る。疲れているのか、二日連続の飲酒の影響か、少量のはずなのに、アルコールが良く回った。もう一口、ハンバーグを頬張ると、粗挽きの胡椒の良い香りが鼻へと抜けてきた。それをまたビールで胃袋まで押し流す。
心地よく意識が酩酊へと移ろう。妹から教わったハンバーグの味が、懐かしい思い出の中へと私を引きずり込んでいく。
父の書斎として使用していた中二階が、私のアトリエになったのは、中学に進学し、美術部に入部してからだ。
「今日からこの部屋は、亜美のアトリエだから好きに使っていいよ」
ずっと絵を描いていた私に、父は優しくそんな言葉を掛けてくれた。
「描いた絵は、ずっと、ここに保管して置くといい。どれだけ増えても捨てたりしないから」
父のその言葉を真に受けて、今日まで、たくさん、たくさん絵を描いてきた。描いた絵のほとんどは、今でも実家へと送っている。床の半分ほどが絵で埋まって困っていると妹から苦情が来たことがあったけど。送りつける絵の整理を、妹に任せてしまっているから、「私のアトリエだ!」なんて強いことは言えない。
「絵描きさんは、アトリエで絵を描くもんのなのよ」
「アトリエ?」
場面が変わった。脳内に母とやけに幼い自分の声が響く。また轟いた雷に、私はスウェットの上から腹部を押さえた。
「私もアトリエが欲しい!」
「大きくなって、絵を続けていればね」
「大きくってどれくらい?」
「中学生くらいかな?」
「中学生か……分かった!」
「お父さんに相談しといてあげる。――――だって――――、」
入院着の母が笑う。優しい色の瞳が私を映している。母の言葉が途中で途切れたのは、雷が回想と現実をごちゃまぜにしたからだ。口の中に小麦の苦味が広がった。母のハンバーグに似た味に、どこにでもあるソースの味が絡み合う。
父がアトリエとして中二階を譲ってくれたのは、母が進言してくれていたからだろう。もちろん、アトリエとして使う部屋はどこでも良かったわけだけど。きっと私が良く父のいない時にあの部屋で絵を描いていたからだ。
暖炉を模したアンティークな棚、大正ロマンを思わせる臙脂色のドア、アイボリーな色のソファー。現代とは明確に境界線が引かれたあの部屋が当時のお気に入りだった。
「本当にここを使ってええの?」
「もちろん。好きな絵をたくさん描いて、ここに残しておきなさい」
私のアトリエ。私だけのアトリエ――。まだ絵なんてないがらんどうの中二階のベランダからは、長浜の町がよく見えていた。
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