腹が減りすぎて意識が遠のいたのは初めてだ。
今、目の前の店員の女性はなんと言ったか。
一万円が使えない? そりゃあ確かにこんな雰囲気の店に合う貨幣形態で言ったらおそらくコインだろう。
コンセプトカフェなら確かに客が守る節度もルールも普通の店よりもあるだろう。
だが、私はそんな説明をいまだに一度も受けていないのだ。メニューに現を抜かすこともなく、まずはこの目の前の料理を食らわんとしているのだ。
限界点はとっくのとうに超えて腹が減っている。こんな状態でも腹のひとつも鳴かさない自分の腹を褒めてやりたい。
もう食べる。食べてやるぞ。食べてやるんだ。
スープに刺さっている小さいスプーンに手をかける。
だが、すかさず女性店員が手を抑えてきた。驚くことにとんでもない馬鹿力であった。ピクリとも手が動かない。
「なにしてんだい、あんた! お代が先だよ。」
「ぐぬぅぅぅ!」
そんな言葉程度で止まれるものか。
頼む。もう、もう腹が限界なのだ。あとでこの店の雰囲気を壊したことはいくらでも謝るから。
はやく、はやくこのスープを飲ませてくれぇ。
「ふんぐぅぅぅ。」
腕がまったく動かない。
かくなる上は、やるしかない。
スプーンは使わなくても良いのだ。
直接啜ってやる。犬食いになろうが構うまい。
「バネッサ、よいではないか。身なりはまともであるし、勘定ぐらいあとでも良いだろうよ。」
私が恥も外聞も捨て去ろうとした瞬間に先に入店していた男から声がかかった。思わずそちらを見てしまった。
よくよく見るとこの男もなんとも仰々しい服装をしている。ファンタジー小説の貴族が着てそうなコテコテ具合だ。
しかし、そんなことはどうでもよい。
相変わらず腕は固く押さえつけられたままだ。
女性がこちらをじっと見つめてくる。私と目が合う。
「じゃあ、殿下がケツ持ちしてくれるっていうんなら構いませんよ。」
「よし。ではこれで足りるな。」
男が机の上にコインのをコトと置く。
私の腕が解放される。女性は男の方に向かっていった。
よし、何はともあれ、これで飯にありつける。
「いただきます。」
スプーンを取り、スープを掬いあげる。スープは小麦色でさらさらだ。救ったスプーンの中には細かく刻まれた野菜がある。
まずは一口。
最初にピリッとした刺激とスープの味が広がる。刻まれた野菜長く煮込まれているせいか、トロッとすぐに口の中で溶けてしまう。
少し辛くてやわらかい、不思議な味だ。
かなり、うまい。
スプーンが私と皿を往復する。
手がとまらない味である。それとも私の腹が減りすぎているだけかもしれないが。
小さいスプーンに少しばかり不満を覚えて、皿ごと啜ろうかと考えたところで隣に置いてあるパンのことを思い出した。
そうだ、そうだ。これも食べなくては。
テーブルに直置きだったので少し底を払う。
スープがかなりうまかったので、このパンはどうであろうか。
大口でかぶりつく。
ガチっ!
「あぐ、あがが。」
あまりの硬さに変な声が出てしまった。
なんだこのパンは。さっき切り分けられた時はすんなり切れていたので、硬さはそこまでないと思っていたのだが。
「ががが。」
む、無理だ。歯が欠けてしまう。
これはどうしたものだろうか。
「ははははっ! そのように食べる奴は初めてみた。腹が減りすぎてもさすがにグルーヴを丸かじりは命知らずが過ぎるぞ。」
先ほどの男が腹を抱えて笑っている。
男の近くにいた先ほどの女性が見かねてこちらのスープを指さした。
「そいつに浸して食べるんだよ。じっくりとね。まったく、そこいらのガキどもでもあるまいし。」
どうやらスープに浸して食べるらしい。
さっそくスープにパンを浸す。パンは硬すぎてちぎれないのでそのままだ。スープの入った皿とパンの大きさが合わないし、不格好だが仕方が無い。
「ぶははは! 見ろ、バネッサ。あやつは私を笑い殺す気だぞ。ま、まさかな。このような刺客がいるとは。クククク。」
あの男は少し失礼がすぎないであろうか。
私がこの店の形態に慣れていないのは仕方ないにしても、あそこまで笑うこともあるまい。
新規参入が無くなったコンテンツは死に行くのみだ。初見さんは大切にしなくてはならないのだ。まぁ、私はふらっと立ち寄っただけなので、また来る可能性の限りなく低いお客ではあるのだが。
それにしたって、笑いすぎだ。
「まったく。ほんとにガキじゃないんだから。」
女性がこちらに来てスープに浸してあるパンを掴む。
指を添えてパンの上部をメリメリと開く。
なんということだ。あの石のようなパンをいとも簡単に割って見せた。先ほどの馬鹿力がこれほどまでとは。
「これで、あとは自分でちぎって食べな。グルーヴはちゃんと見ればちぎり目が見える。次からは自分でしっかりやんな。」
「あ、ありがとうございます。」
なるほどちゃんと見れば、ちぎるための境目があったのか。
馬鹿力なんて言ってすみませんでした。私の目が節穴なだけでした。
ともあれ、女性店員のおかげでこうしてパンにありつける。もう十分浸したし、大丈夫だろう。
女性が開いてくれた部分を持って、メリメリとパンをちぎる。それにしても結構な力がいる。
パンは水分を吸っているが、見るからに先ほどよりも軟らかくなっていることが分かる。
スープを浸した部分を食べる。
食感はかなり良い。随分食べごたえのある弾力があると思ったら、程よくパンが噛み千切れる。あんなカチコチのパンがここまで食べやすくなるとは驚きだ。
スープに浸した部分を食べ終えると、またスープに浸して待つ。
これを繰り返してあっという間にパンを食べ終えてしまった。
スープが少し残ったので、それはスプーンを使わずにそのまま皿ごと飲み干す。
その後に残った野菜はスプ―ンでちびちびと食べ切った。
パンがお腹でかなり膨れるせいなのか、スープとパンしか食べていないにも関わらずお腹いっぱいになってしまった。
「ごちそうさまでした。」
かなり不思議な料理であったが、どこの国の料理なのだろうか。
店内はどうにもヨーロッパ風なのでそちらの料理かもしれない。
いや、しかしコンセプトカフェ恐るべし。こんなにもおいしい料理が出てくるとは思わなんだ。
店のシステムに不満がないとは言えないし、よくわからない男に笑われたりもしたが、腹が膨れてこんなにもおいしかったのだから良しとしよう。これはまた来ても良いかもしれない。
しかし、腹が満たされると人間の頭はしっかり働くようになるものだ。
そういえばと思い出したのは、さきほど私を大笑いしていた男が私の代金を立て替えていたことだった。
男のほうを見やるとまだそこに座っていた。
私のことを見ていたようで、視線が合う。
「先ほどはお見苦しいところをお見せしました。代金を支払いますのでいくらか教えていただきますか?」
「ふむ。その心意気はよいが、貴様は銅貨も持っていない様子ではなかったか。さきほど取り出した紙のようなものは見事な細工であったが、あれは使えんぞ。」
銅貨?
小銭のことを言ってるのか。ここでは小銭オンリー支払いの店だったか。なんとも珍しいものだ。
私は小銭入れを確認して、500円玉が二つ入ってることを確認する。これで足りるだろうか。
手に乗せた硬貨を男に見せる。
「これで足りますか?」
「これはこれで中々良い造形をしているが、美術品以上の価値はないぞ。この国の金は持っておらんのか。」
「この国って言われましても……」
少し考える。
ふーむ。この店のシステムがややこしすぎる。というかこの男は何者なのだろうか。普通の客なのだろうか、それとも仕込みか。
ともかく、両替をするような場所もないし、完全に詰んでしまった。もしかたらどこかでコインを両替して来店する形式の店なのかもしれない。
それだったら、申し訳ないが、看板ぐらいに書いておいてほしい。いや、そもそも私はここがカレー屋だと思って入ったのだった。そもそも最初から何もかもがちぐはぐだったのだ。
「金は構わんよ。それに腹を空かした男の一人も満足させられぬとあっては王の沽券に関わるわ。」
王とはまた大層な身分が出てきた。
「いや、そんなご馳走してもらうなんて。」
「それに、貴様の身なりは随分と不思議なものだが、どこから来た? 」
「どこっていわれてもなぁ。仕事の途中でしたけど。」
「仕事。商人か?」
「まぁ、そんなところです。」
なんだが会話がちぐはぐだが、この店のコンセプト的にはオッケーそうだ。
というよりこれが一般客の普通ならば随分と訓練されすぎているな。常連なのだろうか。
「貴様のような妙ちくりんなやつがいれば、覚えていそうではあるがなぁ。それとも――」
「殿下。おしゃべりが楽しいのはいいんですが、時間はよろしいんで?」
「もう、そんな時間か。」
先ほどの店員が私の使った食器を片しにこちらにやってきた。
早々に皿を片すとまた厨房のほうに引っ込んでいってしまった。
男の方に視線を戻すところで、男は椅子から立ち上がってマントを羽織った。
「ではな、奇妙な商人。良い食べっぷりであったぞ。」
そう言って男は懐から野球ボール大の青い宝石のようなものを取り出した。
服の膨らみ方を見るにどこからそんなものを出したのだろうか。
ほとんど膨らみのない服の内から出てくる様は何かの手品のようにしか見えなかったが、その後に男はなんとその宝石のようなものを地面に叩きつけた。
ガシャンと宝石が砕け散ると同時に青い粒子のようなものが舞う。
「うおっ!」
跳ねた破片に驚いて私は思わず椅子から飛びのいてしまった。
それにしたって、いきなりなんだ。
私がびっくりして砕け散った破片を見ていると、もっとおかしなことが始まった。
ピキピキと飛び散った破片と破片の間に青い線が広がってお互いを繋ぎ合わせる。
あっという間にきれいな花模様が浮かび上がったかと思うと、今度は青白く光りはじめた。
「ところで、貴様の名はなんという。」
「み、三輪義経と言います。」
光が強くなっていく。
「ふむ、覚えたぞ。では、ミワよ。王城に来ることがあれば我が名を出すと良い。私を大いに楽しませた褒美ぐらいは出そう。」
「褒美?」
いったいなんのことかわからないが、光はどんどん強くなっていく。
名前を出せとはなんのことか。
そう考えて、この男の名前を知らないことにいまさら気付いて、慌てて名前を聞き返した。
「あ、あなたの名前は?」
「我が名を知らんとはどんな田舎から出てきたのだ、貴様は。――まぁ、良い。イルザファーエと言えばこの都市で知らぬものはおらぬだろうよ。あとは自分でたどり着くことだ。」
光が一番強くなった。
すると、辺りに散らばっていた破片が一気に男を中心に収束する。
男を飲み込んだかと思った破片たちは、カチカチと音を立てて男を飲み込んであっという間に元の大きさに戻ってしまっていた。
「は? へ?」
我ながら随分と間抜けな声が出てしまったが、こんな光景を見たらそれも当然だろう。
こんなものは手品の領分を超越してしまっている。
私が混乱していると女性が厨房から戻ってきて、床に落ちている宝石を拾い上げて、ふっと息を吹いてごみを払った。
「はぁ、まったくは殿下のお帰りはいつも慌ただしくっちゃありゃしない。」
そういえば、この女性はあのイルザファーエとか名乗った男について随分と知っている様子であった。
「あ、あの人はいったいどんな方で?」
おそるおそる聞いてみると随分と頭の痛い答えが返ってきた。
「あんたに名乗っていっただろう? イルザファーエっていったらこの国で一番偉い宝石王の名前以外にはありゃしないよ。」
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