生まれ育ちはここではなかった。
　彼女はそんなことを言って、僕の視線から目を逸らす。いつかの約束と同じだった。
「どうして、君はここにいたのだい？」
　僕は思わず尋ねたが返事が返ってくるとは思っていなかった。ずっと、知らなかったことがここにはあったのだから。
　だけど、彼女は何かを答えようと一生懸命になって口に手を当てて、そっと口紅を塗る。柔らかい唇が朱く塗られた。
　心はとうの昔に離れている。それぐらい、僕だってわかっている。だけど、それでも。
　彼女と居られる幸せを信じていたから。
　だから、僕は彼女をずっと幸せにできれば、と。
　叶わない願いだなんて、僕は思ってない。
　叶うことのない願いだなんて、彼女も思ってない。
　だからこそ、僕は聞きたい。
　もう一度、尋ねた。
「どうして、君はここにいたのだい？」
　彼女の唇が確かに開いた。そして、僕に告げる。
　――、と。
　僕はその返事を聞いて安心した。そして、彼女に告げる。
「なら、これからは」
　夜が明けると空はまだ梟が鳴いている頃だろう。だから、また鳥の姿でも見ようと、空を見上げて後悔した。
　また、いられるのかな？
　わからない。
　僕たちはいつまでも、ここにいたいのだから。
　僕はね？
　これが思い出になるんなら。
　とても。
　良いことだと思うんだ――。

「さて、終わったことだし」
　蒼い空が無駄にかっこいいと誰かが言っていた。雲が様々な形に変わり、光を遮る姿はとても美しかった。陽射しの差し込む部屋の中でそんなどうでもいいことを考えていた。
「ねぇ、お父さん」
　ん？　とベランダで掃除をしていたはずの娘が僕の見ている空をシャボン玉液で遮る。ぽわぽわと浮かんでいくシャボン玉がゆっくりと僕の目の前をいっぱいにしていく。綺麗な虹色が確かに輝いていた。
「どうした？　僕の空を見たいからってそんな邪魔をしたら、世間はなんて言うだろうな」
「でた、世間の話なんかしていないのに、世間という言葉を使いたいおっさんが」
「おうおう、お前さんがこの娘を馬鹿にしたのかい？　まったく。これだから、妻と呼ばれる職業の人って言う人は」
「はいはい。ごめんなさいね。あなたの目の前に、道具が落ちたのよ」
　そうか、と窓辺に目を移すと二つほどのシャボン液が入っている空き缶が転がっていた。音がしなかったのは恐らく、草が生えている場所に落ちたからだろう。
「それだけだったのか。まぁいい。ここには全てがあるのだからなぁ」
「何言ってるの？　お父さん。取ったら、おじいちゃんあげる」
「娘よ。意味不明なことを言ったら、お父さんから何が貰えるんだっけ？」
「拳骨及び罵倒」
「娘よ。お父さんをどう思っているんだい」
「いいからとれ」
「はい」
　情けないわね、とサッシの後で頬に手を当てて笑っている妻を睨みながら空き缶を取った。ただ、中身がないことは言うべきだろうか迷ったが、ここは補充をしてやろうと思う。
「中身も入れておくよ」
「うん、ありがとう。お父さん、たまに優しくなるよね」
「何を言っている。いつもそうじゃないか」
「もう娘は聞いてないわよ」
「はっ！　貴様、いつからこの背中に悪寒をなぞらせたのだ？」
「いいから。なんか、あなた宛てに郵便が届いていたんだけど」
「郵便？　なんか、僕やったっけ？」
「さぁ？　とりあえず、出掛けてくるから。なんかあったら、連絡入れてね」
「はいはい。いってらっしゃい」
　軽く手を振って、手元に赤いリストバンドがキラキラ光っていることに気付いた。僕の手元にいつの間に着けたのかはわからないが青いリストバンドがあった。妻も、綺麗なものが好きだったな、と赤い空を見ていた。
「郵便とはいえ、これは何なんだ？」
　手元に、渡された郵便とやらを置く。誰かに頼んだわけでもなく、と言って自分の物ではないと否定するわけにもいかない。
「はて、これはなんやろか」
　どこかの方言らしきものを呟きながら、包み紙を剥ぐと綺麗な紅い宝石が出て来た。陽射しにかざし、瞳に突き刺さる紅い光に変わる、それは僕の心の中にある思い出と被った。
「まさか、あいつがくれたとか……あるわけないか」
　でも、どうしてここに宝石が現れたのか。それがわからない。いや、誰かが郵便で持ってきたからあるとかじゃなくて。
　脳裏に色々とフラッシュバックさせるものの、思い出の中で輝く幼い頃のあいつの表情が浮かぶ。笑って、僕に大切なものだから、あげる、と言ってくれたことを。
「ってあれ？」
　ここは？　と思って、夜空を眺めている自分がいた。
「もう夜になったのか？　いや、まだ起きてばっかりだから、そんなことがあるわけもなく」
　部屋の中を見渡そうとしたら、そんなことがあるわけもなく、部屋ではなく、どこかの大きな路地にある水色のベンチに僕は座っていた。というか、そこで夜空を眺めていた。
「君。そこは、私の席なんだけど」
「え？」
　目の前には目くじら立てた金髪で碧眼のお姉さんが僕を睨んでいた。ちょっと怖いと思ったのはここだけの話だ。
「あ、すみません」
　とりあえず、お姉さんの席らしいので僕は立ち上がり、ベンチから立ち上がり、どいた。お姉さんは特に僕を睨む以外に何もしない。僕はようやく周りを見渡し、思った。
　ここは、どこだ？
　紺色に染まる街景色に月光が突き刺さる頃、辺りがゆっくりと夜の帳が降りていった。

昔、彼女は言った。
　私が、一緒に居てほしいって言ったから、あなたを選んだの。そのことに理由がいるのかしら。
　僕は答えようがなかった。でも、彼女と居られるのならと、思ったのは確かだった。
　ここには何もないの。だから、夢を追いかけるのは私だけの勝手な話じゃないかしら。
　だから、あなたも来てほしい。そう言っている。
　でも、僕は故郷が好きなんだ。離れるのと、彼女と居られることに天秤で測れない。だから、僕は言った。
　いつか、必ず帰れるのなら、君と居てもいいかもしれない。
　そう、と少しだけ哀しそうな瞳をして、涙をわずかながら流していた。
　ありがとう。そんな、一つのことを大切にしてくれる人が私の周りにいたんだね。
　そう言ってくれた。そして、嬉しいから涙を流しているのか、それとも哀しいから涙を流しているのか。
　今の僕にはわからなかった。
　だけど、その後の彼女は。
　笑っていた。
　僕は、それだけで十分だった。
　だから、彼女と一緒に居よう。
　素直に思った。

「へぇ。こことは違う異世界から来たってことで合ってんの？」
「合っているも何も、ここは明らかに僕が見たことがない街だからね。しかもいつの間にこんな場所にいるわけだから、僕は僕でとてもとても驚いていることには変わりがないのである」
「なんか、聞いたことのない喋り方だな。すまないね。睨んだりしてね」
「いえいえ、そんなことで怖がったりしませんよ」
「アハハ。それはそれでいいかもしれないわね」
　金髪碧眼お姉さんは隣の席を奢ってくれてこの街のことについて色々と教えてくれた。星屑の光を集めて街のイルミネーションをところどころに置いて輝かせている。夜しかない異世界であり、色の付いた光が様々な場所で店で商いをしている。愉快に笑っているお姉さんは髪にさらりと風が当たっていることに少しだけしかめっ面をする以外には綺麗な表情だけだった。
「それで？　お兄さんはここに何をしに来たの？」
「何を？　いつの間にかここにいたんだから、目的があったわけじゃないんだけどね。早く家族の下に帰りたいってのが本音だね」
「帰る、か。懐かしい言葉。もう、この街にいる人達が使う言葉じゃないからね」
「懐かしいって。言葉に懐かしいも何も」
「あるのよ、そんななくなってしまった意義ってのが。良かったら話そうか？」
「いや、いいよ。知らない場所に来ているってのにそれ以上に混乱しそうな話になるってのが嫌になるのは人間である以上そんなことはあるんですよ」
「なら仕方ないねぇ。やめとく」
「ところで、さっき言ってたけど、この周辺に宿ってあるの？」
「宿？　あぁ、この街にはないよ」
「ちょっ……」
「いや、ホントに。でも、深夜までやっている店はあるから、その店を宿代わりにするってのもアリじゃない？」
「あぁ、そういうね。わかった。明日もここに来るんですか？」
「まぁ、ここのベンチの所有権は私にあるから、毎日ここに来るよ」
「じゃあ、また明日話しましょう」
　え？　とやたら嬉しそうに金髪お姉さんは碧眼を輝かせて僕を見る。……僕に家族がいるってこと、伝わっていますよね？
「私と話してくれるの？」
「えぇ、ちょっとしたお礼のつもりです。面白い話なんてできませんけどね」
「そんなのは関係ない！　じゃあ、また明日ね」
「また」
　そして、僕は指定された商いをしている店の近くにあった、酒場で前後不覚になるまで喜びで酒を呷った。
　その店で「また来てください」とお願いをされている時に、窓から空を見上げていると月光の光が街路樹の灯火を輝かせていた。

「あぁ、飲み過ぎた……」
　私は、思わず友達が出来たのではないかと錯覚しているのではないかと思っている。頭の中に残っているのは昨日、私の席を無断に使っていた男性だった。まだ若かった。私から見ても若いって思うんだから、周りから見たら青年って思われても仕方ないのかもしれないのでは？　と考えたりする。
　酒を家の中で呷って、妹にその男性のことを伝えると「お姉ちゃんはすぐに思い込むからね。でも、悪いって感じはしないから」という微妙な反応をされて、微妙に妹を睨んだ。私の中では睨んでいるつもりなんてないんだが、周りから見ると、目付きが悪いからだろうと私は勝手に思っている。
　桜の樹の下で約束した、あいつが脳裏に浮かぶ。僕と一緒に居たいとか言ったあいつがどうしてこんなときに浮かぶのだろう。
「もしかしたら、生まれ変わりがいるとか？　なんであんなにも似ていたんだ？」
　妹には伝えているが、僕っていう呼び方も、私にはあまりにも辛いことでもあった。だから、適当に話を切り上げてさっさと帰宅するつもりだったのに。
　どうして、こんなにも私は無力だったのだろう。
　どうして、あんなにも私は悲哀を感じるのだろう。
　どうして、虚しさが消えゆくのに私はいるのだろう。
「考え過ぎているのかな」
　部屋の中に酒瓶が転がっている。テーブルの下に小さく赤い椅子が置かれていて、座っている私は肘をつく。片手には酒瓶を持ってコップの中に朱い酒を注ぐ。星屑の中にある輝きをコップに集めていた。
「まぁ、今日はまた行くしかないのかな」
　お風呂空いたよーー、と妹がバスタオルに包まれながら風呂場の中から出て来た。酒を飲んでいることに気付いたらしく、「さけくさ！」と苦笑いをしていた。
「うるさい！　わしの思いに耽っている時間を邪魔しよって」
「もう。酔ってる？　もしかして」
「わしは酔ってないんじゃ。酔ってない人は酔っているというものだ」
「はぁ。酒瓶片付けてあげるから、先に寝てて」
　仕方ないお姉ちゃんだなぁ、といつもの台詞を言って妹は私が飲んだ酒瓶を片付け始めた。よしよし、私の作戦は当たりだぁ、と言いながら、私の意識は微睡みへと落ちていった。

いない。
　今日はいないのか？
　いないって話なら、とっくに聞いていたけど。
　でも、いないっていうのはもう来ないってことじゃん。
　だから、きっと私のことを忘れてしまったんだよ。
　悲しいな。
　哀しいな。
　カナシイナ。
　でも、一緒に居たのはホントだから。
　それでもいいや。

「あ、こんにちは」
「来てくれたんだねぇ、お兄さん」
「なんか、嬉しそうにしているのは気のせいですか？」
「いやねぇ、こんな私のところに来てしまう酔狂な人はやっぱり素敵だから」
「色々とツッコみたいんですが、どこからでしょうか」
「どこからでもいいよ」
　僕はお店の中から出て、陽射しが刺し込むその広場にある水色のベンチに座っている彼女に声をかけた。嬉しそうにしているのはきっと気のせいではない。僕には家族がいるということを覚えてくれているのかが少しだけ不安だ。
「お隣、いいですか？」
「もちろん。ちょっと酒臭いかもしれないけど」
「お酒？　ですか。僕はちょっと苦手です」
「そうなの？　なんか結構強そうで弱そうな顔してるけど」
「どっちなんですか。では、お隣失礼します」
「どうぞ～～」
　彼女は僕の瞳を覗き込んできたが嫌味を感じることではなかった。僕は僕でにっこり笑って、彼女も一緒に笑ってくれた。なんで落ち着いて彼女を見れるのかが不思議だったけど。
　その金髪が風に揺れて、その碧眼が空を見抜く。今日も空は蒼々しく、僕と彼女を日照りするほどに輝かせていた。でも、暗いからこの異世界はよくわからない。
「なんで、お姉さんを見ると郷愁感が漂うんでしょうね」
「きょうしゅう？　それなによ」
「知らないんですか？　もうちょっと言葉を勉強してくださることをお願いしたいのですが」
「懐かしい感覚に包まれて、故郷に帰りたいっていう気持ちぐらいしかわからないんですよね」
「なるほどねぇ。確信犯っていう言葉を知ってますか？」
「知らないねぇ。必ず信じてくれる人なんていなかったから」
「そうですか。なら安心です」
　傍から見たら夫婦漫才万歳なんて叫んでもいいんじゃないのか？　とか思ったりしてお互いがくつくつ笑ってしまった。
「冗談よ。でも、貴方には郷愁感があるように、私にもあるんですよねぇ」
「あらま。昨日出会った人にそういうこと言います？」
「友達には言ってますからねぇ。いろんな」
「いろんな」
「そう、いろんな。いろんな人がいるからこの世は成り立っているって思いません？」
「いきなりにイキナリな話ですね」
「ちょっと哲学的な話を盛り込んだら面白いかなぁ？　ってね。でも、ホントにここの景色が好きなんです」
「景色、ですか。この街路が好きだったり？」
「なんとなく、昔、一緒に居た人と似ていたので。お兄さんは、家族とどういう出会いでした？」
「もう、幼馴染だったんですよ。僕のことなんてゴミクズゲス野郎みたいな感じで扱うんで僕もひきこもりになってしまったし」
「さて、どこをツッコめばいいんですかね」
「えっとですね。貴女が僕の家族になったところですね」
「は？　私？」
「うん。だって、貴女」
　僕は、ふと冗談をかましたが何故か、ほんのり彼女の顔に赤みが差す。
「僕の昔の約束の人ですからね」
「……思い出した。お兄さん、やっぱり似てる。言葉も顔もそして存在も」
「こんな言い方だったんですよ、今の家族に言ったことも」
「そして、この異世界は終わりを告げる、と」
「どんどん、すごい方向に話が進んでますよ」
「いいのよ。でも、私とこの景色を堪能しません？」
「いいですよ」
　どこまでが冗談でどこまで本気かはわからないが、この距離感が一番落ち着くと彼女には伝わったらしい。
　そして、僕と彼女は夜の帳が降りるまで夫婦漫才をやっていた。夜色に染まる空をゆっくりと陽が照らし始める頃、星屑がキラキラと流れていった。

どうして、こんなことになってしまったのだろう、と私は考えていた。
　夫がいなくなってもうどれくらいの月日が経つのだろう。
「お父さん、今日も帰ってこないね」
「そうね、何かあったのかしら」
　あの日、私は夫に文句を言ってしまったのか、と考えても悔やんでしまえばいいのか、呆れればいいのかわからない。
　そんなことを思いながら、娘の部屋でシャボン玉を作りながらぽわぽわと浮かばせ、私の手にある宝石を見つめる。夫の部屋にあったものだ。私のことを思い出してくれるために、私は宝石に意識を向けるけど、意味がないってことぐらいわかっている。
　空を見上げてみると、満天の星空に月光がゆったりと辺りにばら撒かれていた。その一つ一つの光に灯された、闇を切り裂く明るさは私の意識も綺麗にしてくれるのか。無駄にそんなことを考えていた。
　樹々が立ち並んでいる林に視線を降ろすと、ゆっくりと葉擦れの音が聞こえる。ざわめき、そしてささめく。音がゆったりと私を落ち着かせてくれた。シャボン玉はそんな中をゆっくりと揺蕩っていった。
「今日のお母さんも変」
「どうしたの？」
「お父さんが背中にいるのに無視してるの？」
「え？」
　振り返ると、確かにそこにはお父さんがいた。そう、私のお父さんが、影になって見えているのだろう。恐らくは幻影でも見ているのだろう。時々私たち家族には、そういった見えないものが見えるといった、あまり人には言えない――能力とでも言えばいいのか――ことがあるのだから。
「お父さんは元気にしている？」
「うん、誰かと楽しそうに話してる。あんなにはしゃいでいるのって、過去の人を語る時の顔と同じだと思う」
「そっか。じゃあ、帰ってくるよ。お父さんに囁いてあげて」
「そうだね。お父さん？　聞こえてる？」

聞こえてる？
　私の声が聞こえてるんなら、お父さんだと思うんだ。
　過去の異世界の中に行っても、その人には反応されないと思うんだ。
　だから、ね？
　私が代わりに答えてあげる。
　そのときの答えって何だった？

「聞こえてる？」
　ん？　と空を見ていると隣で誰かの声が聞こえた。
「聞こえているんなら、お父さん、私の声と混じって夫婦漫才なんてしなくていいから」
　ん？　と海を見ていると、隣にいる過去の人が僕の頬をそっと撫でてている女の子がいた。
「聞こえているの？」
　あぁ、君か、また来てしまったんだね。僕は精神的な発作に襲われて、ここに来るんだ。
「どんな秘密を抱えても、ここに来たらいけないって言ったのに。どうして来たの？」
　だって、君を彷彿する人達といたら、仕方ないじゃないか。
「まぁ、そうだね」
　そして、思い出の異世界で夫婦漫才を繰り広げる、そんな光景もいつかの約束と同じだ。でも、大したことは僕の中でやったわけではない。現実世界の家族と暮らしていて、違う異世界の中でただ、面白おかしく、君と話しただけじゃないか。
「でも、その人はもういなくなったよ？　気付いたんじゃないかな」
　そうかもね。でも、その代わり、僕はあの時の答えを思い出したよ。
「それを言いに来たんなら許すよ。それは？」
　それはね。

友達、って良いね。

それだけだよ。
「そうだね。じゃあ、これからもそんな友達を作ってね？」
　うん、約束する――。

「聞こえてる！？」
　必死の介抱も無駄なのかもしれない、でも、大切な人が突然倒れたんだから。そう聞こえた気がした。
「……え？」
　隣で胸を撫でおろす、女性が必死の形相で僕を見つめてる。
「君は……」
　誰？　と僕は自分の何かを忘れているのでは？　と思ってしまい、思い出そうとするが凝り固まった考えが頭にへばりついてた。
「私のことはいいの。自分の名前、言える？」
　隣の白い服を着ている男性から何かのプレートを見せられる。これが名前です、って言っているのだろうか。
「わからない。でも、君の名前は覚えてる」
「私？　自分の名前を忘れているのに？」
「うん。その言葉は理解できるんだね。すぐに友人たちに連絡をしてください」
「わかりました。ちょっと行ってくるね」
　女性は足早にこの部屋から出て行った。ついでに部屋を見渡すと、白い陶器、朱い薔薇、窓から入る涼しい風、そして何より、僕にとっての大切な人が僕を見つめていた。
「紗良さん。覚えてますか？」
　そう言って微笑んだ、僕の名前を言った大切な人が手を握ってきた。僕はどうすればいいのかがさっぱりである。
「紗香さん、今は記憶を失っているのでしょう。一時的なパニックというものです。なので会話はあまり」
「わかってます。でも、私はここでずっと待っていたんで、つい」
「えぇ、そうですね。もう、どれくらいの月日が経ったのでしょうね」
　カレンダーが僕の後ろにあるのだろうが、僕の見ためは患者用の服に変わっていた。なんで、僕が、こんなところに？　と思ったら、それを察したのか、男性が僕の目を見つめて話し出す。
「紗良さん。貴方は、ある家に監禁されていました。その中で暮らすように命じられたことは覚えていますか？」
「……監禁？」
「えぇ。事件にならなかった方がおかしいほどです。数えて、もう手の指の数では足りない程でした。その間、ずっと食物を与えらえて遊ばれていたのです」
「……あの、全然わからないんですけど。薄ら覚えているのは、自分の妻と娘がいたことぐらいしか……」
　そこで、男性の息を飲む音が聞こえた。もしかしたら、僕は？
「そうですか。疲れ始めて幻覚が見え始めたのですね。でも、それも終わったことです。そちらにいる、紗香さんが貴方のことを探していました。その中で貴方の友人たちも、捜していました。元々、貴方が遠出をする人ではないとわかっていたからでしょう。だから、近場を中心に探していると、いつも貴方が誰かに話しかけている姿を見ているとの情報が入りました。そして」
　男性は手元のカルテ――かな？　多分、この人は医者だ――を見て、僕に言う。
「貴方の部屋の中に妙に香る匂いがすると近所からの通報がありました。そして、権利を得て中に入った時、貴方は言いました。「帰ってきたんだね」と。その後、貴方以外に誰もいない部屋から薄いシャボン玉が浮かんでいました。それには後で調べて分かったことですが麻の成分が入っていたらしく、それを長年吸っていたのだから、記憶もなくなっている。恐らく、そこに監禁されて人肉を作る裏業者がいるとのことでしたので、私達は貴方を病院に連れて来ました。あとは、貴方がうわごとを何度も言っていたぐらいでしょうか」
　一気にそこまで言った男性は紗香さんを見つめる。紗香さんは相変わらず、微笑んだままだった。
「紗香さん。今はあまり会話をしないでくださいね」
「はい。でも、なぜこんなことになったのが少しわからなくて混乱していますが」
「仕方ないことです。では、これからのことを話したいと思います」
　と言って、お医者さんは、僕を見つめて薬やら、包帯やらをこれから渡すので、みたいなことを言い出した。

僕にとっての短いお話はここで終わりです。
　どうして、こんな目に遭ったのかはわかりませんが。
　それでも、僕が見た幻覚は本物だったのかは僕にはどうでもいいことです。
　でも、もしかしたら、そんな監禁生活が――僕にとっては幸せだったのかもしれないその生活が――普通とは違っても。
　幸せに近い形ではなかったのか。
　だから、そのような形の生活をこの女性と友達と暮らしていこうと思う。
　大丈夫、もう方法だけはわかっている。
　この女性は、昔の約束を果たしたことを確認しただけだから。

そんなことを考えながら、窓辺から刺し込んだ陽射しが眩しく、涼しい風が病室に入り込む頃、ゆっくりと僕にとっての夜が始まろうとしていたのだろう。そして、呟く。

友達っていいな。

と。

普通という幸せをいつまでも追い求めて ～～一緒に居られる時間を永遠に～～

普通という幸せをいつまでも追い求めて～～一緒に居られる時間を永遠に～～