全てを失った赤い夜が明け、マサと二人暮らしを始めてからそろそろ一年が過ぎようとしている。
二切れ分残ったケーキを冷蔵庫にしまい、桃也は先に洗い物を始めたセナの横に並んだ。
「俺やります」とスポンジを受け取ると、彼女は布巾を取って片付けへ回る。セナが家に来た時は、いつもこんな感じだった。
「さっきのケーキ、本当にセナさんが作ったんですか? ローストビーフも、めちゃくちゃ美味しかったですよ」
「ちょっと桃也くん、私がお店の買ってきたのかって疑ってるの?」
「いやそうじゃなくて。セナさん料理得意だけど、家であんなのまで作れちゃうんだなと思って」
「誉め言葉だと思っていいのよね? ならいいわ、ありがとう。雅敏さんも喜んでくれたし、今日はとっても楽しかったわ」
リビングの片付けをするマサを見て、セナは満足そうに笑む。
今日はクリスマスイブで、三人でパーティをした。
年下の桃也から見ても魅力的な彼女は、マサの恋人ではなくアルガスでの顔馴染みだという。ただ、マサが彼女にただならぬ好意を向けていることは一目瞭然だった。
同居する前のマサは、アルガスの食堂と外食とコンビニ弁当で食事を済ませるような人だったらしい。
桃也も家事なんて殆どしたことがなかったが、居候の分際で何もしないわけにはいかず、とりあえずこの家になかった炊飯器を買って貰った。
食事はネットで調べたレシピを参考にしていたが、食べられればいいという感じだった気がする。
そんな噂を聞き付けたセナが、男の二人所帯を見かねてやってきた──というのが彼女がここへ来るようになった表立った理由だ。桃也がこの家に来て一ヶ月ほど過ぎた時の事だ。
けれど独身男子の家にご飯を作りに来る理由なんてそれだけではないだろうし、何となく桃也も理解していた。
「セナさんって、マサが好きなんですか?」
「好きじゃないわよ」
即答だった。けれど、彼女は目を合わせてはくれない。
「じゃあ、何でこんなにしょっちゅう来てくれるんですか? マサはセナさんが好きだから、勘違いさせるだけですよ? まぁ俺は有難いですけど」
セナの作るご飯は本当に美味しかった。今でこそアルガスで事務的な仕事をしているが、高校時代は家政科に居たらしい。
胃袋を掴まれるというのはこういう事なんだなと桃也は思った。
「だって。アルガスのあんな汚い部屋見せられたら、心配になるじゃない」
「あぁ、確かに」
アルガスにあるマサの自室は、資料に埋もれたダンジョンのような場所だ。けれど、あの部屋に行った後に初めてこの部屋に連れてこられて桃也は驚いた。
ここには何もなかったからだ。必要最低限のものしかなかった。
今でこそ桃也に気を使って毎日帰って来るが、以前は散らかすような物もないくらい、ここに居る時間が短かったんだと思う。
「心配してくれたんだ。俺、邪魔じゃないですか?」
「邪魔じゃないわよ。貴方が居なかったら、私がここに来る理由なんてないもの」
「そう言うもの?」
「そう言うものよ」
『あんまり聞かないで』と言わんばかりの顔で、セナは桃也を横目に睨んだ。
死んでしまった実の姉とセナは同じ歳だ。彼女に懐かしい面影を重ねてしまう事もあるが、彼女のお陰で桃也は家事を一通り覚えることができた。
ここでの生活があの日の絶望を少しずつ薄めてくれている。
高校に通い始めてからも、マサは桃也を実の弟のように面倒を見てくれた。この間もクリスマスが近いからと言って、ピカピカに光る大きなツリーを買ってきて三人で飾り付けをした。
そんな彼の優しさは、あの日の後悔や後ろめたさを含んだものだという事は分かっている。あんなに吸っていた煙草を突然止めたのも同じ理由だろう。
ようやく片付けが終わったところで、マサが大きな段ボールを抱えてキッチンにやってきた。
「桃也、叔父さんからクリスマスプレゼント届いてたぞ」
「マジで? 何だろ」
「いらないって言ってるのに生活費もしょっちゅう送ってきてくれるからな、ちゃんと礼言っとけよ」
「あぁ」
桃也には唯一の肉親である大学教授の叔父が居た。桃也の父親に良く似ている。
当初は彼の家に住む話も出ていたが、日本に居ないことも多くマサの厚意に甘えている。一度その本音を伝えた時、マサはそれでいいと言ってくれた。
濡れた手を拭いてダンボールを受け取ると、サイズで予想したよりもだいぶ軽かった。
叔父は今カリフォルニアに居るはずだ。荷物は大手通販サイトの名前が記されているから、ネット注文したものだろう。中を開けると黒いシンプルなコートが入っていた。
そのまま羽織ると、セナが「カッコいいわ」と手を合わせる。
「いいじゃん。そろそろ新しいの用意しなきゃって思ってたんだよ。お前また背伸びただろ」
暫く会っていないのに、驚くほどのジャストサイズだ。
「あぁ。今着てるの少し短かったからな」
一年前まだ一六〇もなかった背が、高校に入った途端一気に伸びた。流石にまだ高身長のマサには届かないが、目線がどんどん近くなった実感はある。
「じゃあ、私はそろそろ帰ろうかしら」
「タクシー呼びます」
スマホを取りにマサがリビングへ行く。
帰り支度を始めたセナに、桃也はタグをぶら提げたコートを着たまま礼を言った。
「今日はありがとうございました。ご飯美味しかったし、プレゼントまで貰っちゃって」
「いいのよ、私も久しぶりだし楽しみにしてるわ」
マサと合同で用意してくれたというクリスマスプレゼントは、人気テーマパークのチケットだった。「三人で行こうぜ」というマサの提案には、色々な意味が含まれている気がする。
それでも桃也は素直に嬉しかった。この一年、どこかに遊びに行くなんて気にはなれなかったけれど、このメンバーでなら楽しみだと思える。
「あぁ悪い、セナさん。タクシーどこも捕まらねぇや。だいぶ遅くなっちまう」
スマホ片手に「困ったな」と戻って来たマサに、セナは「平気よ」と手を振った。
「駅まで歩いて電車で帰るわ」
「いや、足元悪いし。どうするかな」
普段ならマサが彼女を駅まで送っていく。それがマサにとって彼女と二人きりになれる特別な時間だという事は知っていた。
けれどいつもは平気で送り出す桃也も、今日は少し事情が違っていた。
桃也は窓の外を見て委縮する。
あの日と同じ雪が降っているのだ。クリスマスに雪とくれば、タクシーが混んでいるのは当然だろう。
クリスマスの夜の二人を邪魔したくはなかったが、夜の雪は不安で、一人になりたくなかった。
「やっぱりタクシー呼ぼう」
察したマサがそう言いだして、桃也は思わず「セナさん」と困り顔の彼女を呼ぶ。
「泊ってったら?」
「えっ、ここに?」
セナの声が裏返る。
「どうしよう」と言ってすぐに否定しないのは、そこまで嫌ではないのかもしれない。
確かに恋人でもない男子の部屋に泊まるなんてことはおかしなことなのかもしれないが、暫く悩んだ末に彼女はマサをキッと睨みつけながら、
「雅敏さんが変なことしようとしたら、桃也くんが助けてくれる?」
「え、もちろんですよ」
「桃也くんもダメよ?」
「当たり前です!」
警戒心をあらわにするセナに、桃也は大きく手を振った。マサは何も言えずに顔を真っ赤にしている。
「じゃあ」と俯いたセナは、心を決めたように頷いた。
「泊って行こうかしら」
「本当ですか!」
はにかんだセナに「やったぁ」と叫んだマサの声がやたら大きかったせいで、横の壁がドンと音を立てる。隣人からの攻撃だ。
マサは慌てて口を塞いだまま破顔する。
不思議な関係の二人だなと改めて思いながら、桃也は去年のクリスマスを思い出していた。
仕事で父親はいなかったが、母と姉と三人でしたパーティは楽しかったのを覚えている。
零れ落ちそうになった涙を瞼の奥に堪えて、桃也は寝る準備をしに寝室へ駆け込んだ。
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