最終電車に滑り込み、どうにかマンションへ帰ることができた。
エレベーターに乗った途端、急に睡魔が下りてきて、暗い部屋に着くとそのままリビングのソファへダイブする。
目を覚ますと部屋にはすっかり朝の光が差し込んでいて、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。
夜勤明けの颯太が「お帰り」と修司にカップを差し出す。彼が居るということは、もう七時過ぎだ。
掛けられていたタオルケットを剥いで、湯気の立つコーヒーを少しずつ口に運ぶと、強めの苦みにゆっくり頭が覚めてきて、昨夜のことが蘇った。
「もう少しで炊けるから、そしたら飯にしようぜ」
込み上げてきた欠伸をゆったりと吐き出して、修司はカップを片手にベランダへ出る。
ゴールデンウィークには有り難い絶好の青空は、今の修司にはやたら眩しく感じられた。
古いアパートで過ごした、ほんの数時間の微睡んだ記憶は、夢だったんじゃないかと錯覚してしまう。本当に自分はあそこに居たのだろうか。
律とのことが現実であった証拠と言えば、ポケットに押し込んだ一枚の紙だ。
けれど電話しようかと伸びた手は、ポケットの縁をかすめてそのまま下へ落ちる。
確認することじゃない。あそこに居たのは現実だ。
「夜明けのコーヒーが彼女とじゃなくて残念だったな」
修司を追ってベランダに出た颯太が、横に並んでコーヒーをすする。
「なに訳の分かんないこと言ってんだよ」
修司を覗き込んで、ニヤリと笑う颯太。
「いい匂いがすると思ってな。女の部屋にでも居たんだろ」
コーヒーを吹きそうになるのを堪えて、修司は胸元を拳でトントンと叩いた。
腕をそっと嗅いでみるが、自分では良く分からない。
「わかりやすっ。まぁ、高三なんだからコソコソするもんでもねぇよ。けど、女は怖いからな? 責任取ってやれる相手だけにしとけよ?」
「責任、って。伯父さんこそ、若い頃はそういうことしてたんじゃないの?」
「俺はそんな華々しい学生生活送っちゃいねぇよ。婆さんの後継ぐのに必死で勉強してたしな」
颯太の過去を詳しく聞いたことはないが、どうせまた自覚がないのにモテまくっていたというパターンなのだろう。
ふと脳裏に律の笑顔が浮かぶ。
「修司くん」と呼ぶ甘い声を思い出すと、記憶を一気に彩るようにあのアパートが蘇ってくる。
ビルに挟まれた窮屈な窓に、木の壁。六畳一間の小さな間取りに修司は彼女と二人で居たのだ。
ここから見渡す風景は、そのどれもがあそことは掛け離れている。
「そこのマンションがずっと邪魔だなって思ってたけど、これは広い風景だったんだね」
道を挟んだ向かい側にどんと建つマンションが風景を阻んでいる。距離がある分窮屈さはそこまで感じなかったが、これがなければ向こうに臨むスカイツリーが見えるのにと思っていた。
けれど、世の中には窓の一メートル先に壁がある部屋もあるのだ。
「まぁまぁだろ? ここは」
疲れ顔の颯太に「うん」と頷いて、修司は「あのさ」と律の話を切り出した。
「昨日、町で偶然女の人に会ったんだけど、その人バスクだったんだよね」
「また? 前にもキーダーの女に会ったんだよな? 都会はやっぱり侮れねぇな」
美弦の時とは明らかに違う反応に、修司は「マズかったかな?」と首を傾げた。
「いや」と苦笑して、颯太は深く息を吐き出す。
「また女子とは楽しそうな話だけど、そろそろ真面目に身の振り方を考えておいた方がいいかもな。お前はこれからどうしたい? 決めてあるか?」
フェンスに掛けていた腕を離し、颯太は「分かってるだろ?」と修司に向き合った。
「俺はまだ、このままがいいよ。その人の所に、もう一人バスクがいるって言うんだ」
何もしない宙ぶらりん状態が二年も過ぎて、自分の気持ちは良く分かっていた。
バスクとして生きてきた今までを自ら覆してまで、キーダーとしての運命を選ぶ覚悟ができない。心のどこかで誰かが無理矢理にでもキーダーにしてくれたらと思っていた。
先に美弦や平野に声を掛けられていたら、迷わずキーダーを受け入れていただろう。それなのに、自分へ先に手を伸ばしてくれたのが律だった。
「そうか」と俯いた颯太がベンチに腰を下ろし、横に座るよう修司を手招く。
「ホルスって知ってるか?」
そこで彼が口にした言葉が運命を揺るがす脅威になる事を、修司はまだ知る由もなかった。
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