「寒い……」
複数のサイレンと空を荒らすヘリの音に、塞がれた意識が叩き起こされる。
こんな所で目覚めたことはない。硬く湿った地面に貼り付いた身体は重く、細い風が幾重にも重なって全身を撫でつけていく。
どうして自分は外に居るのだろうか。
マッチを擦ったような香ばしい匂いに眉を潜め、桃也は腕をついて上半身だけ起こす。
けれど、白い息の向こうで鮮明になっていく視界には、見渡す限り何も映らなかった。遥か彼方でぼんやりと雪に霞む光は、街の明かりだろうか。
ふと空を仰いだ目に飛び込んできた雪の冷たさがスイッチとなって、記憶の最後が脳裏に再生を始めた。
大晦日の夜、静かな雪の風景、宍戸さんと餅――そして、強盗犯と赤い風景。
「うっ……く……」
桃也はぎゅっと目を閉じ、込み上げた吐き気に嘔吐する。
「違う……」
あれは夢だ。
現に今ここにある風景は、あのリビングではないのだから。
「ゲホッ、ゴホッ」
なら、ここは……何処だ?
濡れた口を腕で拭い、桃也は再び目を開いた。
冷え切った暗い地面を白い雪が埋めていく。
ヘリからのサーチライトに重ねて、緊急車両の赤色灯が近付いてきた。
こんな場所、都内にあるだろうか。
少しずつ慣れてきた目に、遠くに並んだビル群が鮮明になっていく。
町明かりと空の境界線にひと際目立つ光を見つけて、桃也は背筋を凍らせた。
それは空を指すオレンジ色だ。
雪の寒さを忘れさせる温かい光は色も形も距離感にさえ違和感はなく、いつも見ていたそれと同じだった。
「東京……タワー?」
だからここは同じ場所なのだと突き付けられて、桃也は両腕を抱える。
「現実……なのか?」
どこからか女性の泣き声がした。
ここに居るのが自分だけでないと気付いて振り向くと、今度は別の方向から自分を呼ぶ声が聞こえる。
「桃也! いるか? 高峰桃也! いるんだろう?」
聞き覚えのない声だった。
緊急車両の停止した辺りから、何人もの大人たちが中へ踏み込んでくるのが見える。
血まみれの包丁を手にした黒い男の笑みが頭を取り巻いて、桃也は警戒心を募らせた。
どこかにあの男が居るかもしれない。
「桃也!」
小さな光が正面から桃也を捉える。「いました」という声の後に一つの足音が速くなって、目の前で止まった。
「高峰桃也だな」
困惑の混じる声がすぐ側に響く。光の向こうに現れたのは、ガタイの良い若い男だった。
あの男ではないことに、ホッと緊張を緩ませる。
彼は頭に雪を積もらせ、膝を折って手を差し伸べてきた。
暗い色の外套の奥にラフなジャージを見つけて、桃也は母の言葉を思い出す。
――「黒のジャージだったわよ? 上下とも」
「佐藤、雅敏さん……?」
それ以外に思い当たる人物はいない。
「あぁ。母親から聞いたのか?」
その答えは正しかったらしい。美里がアルガスで会ったという男だ。
何故彼がここへ来たのかなんて分からなかったが、今は彼の手を取る以外に選択肢など何もなかった。大きくて力強いその温もりに抑えていた涙が溢れる。
「俺、何でこんなことに……」
サイレンが鳴り、まず二台の救急車が町の方向へと走り出す。
「覚えてないのか? 何があった?」
離れた彼の手が桃也の肩を掴む。
桃也は首を捻って答えを探した。記憶の中枢に突き刺さる光景が現実だとしても、今この状況へ繋がるものが何もない。
「俺にも良くわかりません。気付いたら、ここに……」
戸惑う桃也に険しい顔をして、雅敏は「違うだろ」と訴える。
「お前が高峰桃也なら、バスクなんだろう? こんなことになるにはきっかけがあったはずだ。何があったんだ」
「……ちょっと待ってください」
彼が何を言っているのかさっぱりわからなかった。
まるで、この状況を作り出したのがお前だと言われているようだった。
「俺がやったって言うんですか? 確かに特別な力は持っていたけど、それは物を浮かせたりすることだけで、俺にはこんなことできないんです!」
けれど確かに、その兆候は記憶の断片に残っていた。
犯人と対峙して、突然現れた白い光のハレーション。それは身に覚えのない能力だったが、漠然と自分が出しているような気がしたのだ。
「けど、そんな……俺はただ、回覧板を回しに行って戻ってきただけなのに――」
「回覧板? これはただの爆発じゃねぇ。能力者が故意にやるか、バスクが暴走した跡なんだよ。だからもう、この事故処理はアルガスに移ってる」
雅敏が赤色灯の並ぶ方向を一瞥すると、また一台の救急車が走り出した。
「今、うちのキーダーが出払っててな。俺が指揮を執ってる。いいか、これは事故だ。お前に罪はないんだからな? ただ、真実を教えてくれ」
制服姿の男が「マサさん」と彼の所に駆け寄ってきた。ゴソゴソと耳打ちされ、雅敏は「分かった」と表情を強張らせる。
すぐに走り去る男を桃也が目で追うと、
「見るな!」
雅敏の胸が桃也の視界を塞いだ。外の空気に馴染んだ冷えた煙草の匂いがする。
衝動が込み上げる──直感的に『そう』だと感じた。
雅敏の腕を逃れようともがいて、視界の端でそれを捉える。
「やめろ、自分を追い詰めてどうする? お前はこれから生きていかなきゃならないんだぞ?」
家や風景が欠片も残さずすっぽりと消えてしまった。
その平らな地面に起伏を付けるように、黒い影が横たわる。
「上がった亡骸は四体だそうだ。あと何人か運ばれたが、軽い怪我だ。命に支障はない」
「三人は俺の家族なんです……」
雅敏がその言葉に驚愕することはなかった。
よろめきながら桃也は立ち上がり、黒い影のもとへと足を引きずらせる。雅敏はそれ以上何も言わず、傍らで桃也を見守った。
手首に巻かれたトリアージは、根元まで短く千切られている。
四体バラバラに横たわる黒い塊は、ようやく人だと分かる程度にしか原形を留めてはいない。けれどそれらが人であった時の面影ははっきりと分かった。
父に、母に、姉に、あと一人は三人を殺めたあの男だ。包丁を振りかざし爛々とした瞳で襲い掛かってきた最後の瞬間が蘇り、桃也は目を瞑る。
「お前……」
取り乱しそうになる衝動を、雅敏が「やめろ」と制する。
「同じことになるぞ?」
その言葉が全てだった。途端に込み上げた罪悪感に両腕をだらりと下げ、桃也は薄く雪が積もった地面に顔を落とす。
「やっぱり、俺がやったんですか? その男を……」
「その男?」
「あれは俺の父親と母親、あと姉なんです。もう一人いる、その男が……みんなを、殺して……」
雅敏が「えっ?」と声を詰まらせる。
涙がとめどなく足元へ流れ落ちる。吹雪きだした雪が顔を殴りつけるが、頬の熱であっという間に溶けた。
「ここには俺の家があったんです。俺の家はどこに行ったんですか?」
父が選んだ大きい家だった。
「能力者には、そこにあるものを食い尽くす力がある。昔、死神だとか悪魔だとか言われていた所以だ」
「……外から帰ったら真っ赤に染まった部屋にその男が居て、もう誰も息をしていなかった。そいつの持ってた包丁が、血だらけだったから……」
父が居て、母が居て、姉が居た。最後の言葉など何もなかった。
桃也が帰宅した時、三人は全てを終わらされていたのだ。
『頑張れよ、桃也』
つい数日前に見せた父の笑顔が忘れられない。
「何を頑張れって言うんだよ……」
横たわる煤まみれの身体は、惨殺の跡すら残してはいなかった。
「光を出したのが俺なら、あの男を殺したのは俺なんです」
「違う。これは事故だって言ったろ? バスクの暴走は本人の意思じゃない」
「暴走って。だから佐藤さんは、俺が興奮しないようにって言付けしたんですね?」
バスクの力がこんな悲劇を引き起こす可能性があるなんて、聞いたこともなかった。
「余程のことがなければ起きない事なんだ。けど……悪い。俺が甘かった」
悲痛に歪めた顔を隠すように、雅敏は頭を下げる。
「あの犯人以外に亡くなった人が居なくて良かった」
男の死を、頭のどこかでざまあみろと笑う自分が居た。死んで良かったとさえ思える。
けれどニヤついたあの顔が自分に重なって、桃也はブルブルと震え出す手を握り締めた。
自分への怒りと絶望が混じり合う。
「うわぁあああ!」
混濁した意識から抜け出すように空へと吐き出した感情は、雪を振り撒く風に掻き消えていった。
それは静かな大晦日に起きた出来事だ。
年越しにはまだ早い十時少し前。テレビが一斉にそのニュースへと切り替わり、アルガスの立ち去った白い風景を映し出した。
何台か残っていた緊急車両が、現場から離れていく。
レポーターの状況説明が曖昧なのは、アルガス絡みの事件に圧力が掛かるからだ。
気絶したまま運ばれた桃也は、そのニュースを見てはいない。
やじ馬の一人がマイクを向けられて、彼は寒さを凌ぐように腕組みした手を震わせながら、悲痛な表情でこう答えた。
「本当にここには家や公園があったんですか? 大晦日にこんなことが起きるなんて。白い雪が全部隠そうとしているみたいですね」
もうすっかり地面は白くなっているのに、それでも雪は降り続く。
全国に映し出された彼の言葉を新聞社が捩って、この事件は後に『大晦日の白雪』と呼ばれるようになった。
番外編・大晦日の白雪 完
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