「私もそろそろ考えなきゃね」
朱羽がそんな言葉を吐いた瞬間、キッチンスペースでコーヒーミルを回していた龍之介の手がピタリと止まった。けれどまた何事もなかったようにガリガリと音が響く。
「どういう意味?」
京子に聞かれて、朱羽は「こっちのこと」とはぐらかした。
京子は「えぇ?」と眉を顰めるが、それ以上を聞く事もなく龍之介の淹れた花の絵のカフェラテを満足げに飲んで本部へと戻って行った。
「考えるってどういうことですか?」
テーブルの片付けをしながら、龍之介もその質問をして来る。断片的な言葉が彼の不安を煽るのは分かっているつもりだ。
太い眉を寄せたままじっと見つめる彼の前に立って、朱羽は「もぅ」と苦笑する。
「そんな顔しないで。勿体ぶったように言ったつもりはないんだけど、本当に大した事じゃないのよ。龍之介を解雇しようなんて話じゃないから安心して」
「俺にできる事なら言って下さいね?」
この事務所が無くなる時なんて、一瞬の事のような気がする。まさかこんなに長い間ここに居るとは思っていなかったし、上から『終わり』だと言われれば、それで呆気なく終了してしまう。
龍之介もそれは感じているようで、この所のアルガスの状況に過敏になっているのは側で見ていてよく分かった。
「ありがとう、龍之介。申し訳ないんだけど、今日はそれ片付けたら終わりにして貰ってもいいかしら。ちょっと行かなきゃならない所があるのを思い出しちゃって」
「えぇ」
片付けに戻った龍之介が、天から突き落とされたような顔で悲痛の声を上げる。
学校が午前に終わっていつもより早く事務所に来た彼だが、まだいつもの出勤時間にもなっていない。
「本当にごめんなさい」
手を合わせる朱羽に、龍之介は「わかりました」とがっくり肩を落とした。
☆
それから15分程で龍之介が事務所を出て、朱羽は個人情報が並ぶパソコンのデータ画面を開きながら目的の相手の番号を自分のスマホに打ち込んだ。
自分から彼に連絡するのは初めてだ。
けれど発信の音が鳴った途端、こんな事をしても良いのかと躊躇って指が『切』のボタンを押してしまう。
ツーと鳴る音に溜息をついて、朱羽はスマホの画面を睨みつけた。
「いいのよね?」
問いかけるように呟いて、飲みかけの紅茶を流し込む。
向こうに履歴はついてしまっただろうが、折り返しの連絡はすぐに来なかった。まだ気付いていないのか、それとも見知らぬ番号に怪しませてしまったのか。
想像していた以上に緊張している。意を決してリダイヤルボタンを押すと、呼び出し音に連動するように心臓がドキドキと脈打った。
『はい』
数コール後に彼が出て、朱羽はぎゅっとスマホを握り締める。まだ聞き慣れないその声に急に頭が真っ白になった。
けれど返事するよりも先に、相手が朱羽を呼んだのだ。
『朱羽さん?』
ビックリして目を見開く。どうして分かるのだろう。
けれどその疑問を尋ねる余裕もなく、朱羽は「はい」と返事した。
「矢代です。あの、もしお時間あれば……今夜会って頂けませんか?」
それは京子の言葉を聞いた朱羽が衝動的に起こした再会だ。
私用ではなく仕事のつもりなのに、相手はそんな事情に気付く事もなく、
『デートのお誘い? 俺は構わないけど?』
「えっ? ちょっと、違います!」
『照れなくても良いよ。楽しい夜にしようぜ』
保科颯太は用件も聞かぬままに『喜んで』と返事したのだ。
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