京子の目の前にそびえるのは、もう一本の鉄塔だった。
塀を隔てた向こうにある三階建ての商業ビルには、住居スペースも入っている。
避難が完了しているとはいえ、反対側の工場とは事情が異なった。
鉄塔まで二十メートル。
京子はその場に留まり趙馬刀で応戦するが、彰人の刃に跳ね上げられた柄が京子の手を離れて地面に落ちた。
散漫になる意識を必死に留めて、柄を力で手繰り寄せる。拾い上げた柄にもう一度光を灯し、京子は彰人と対峙した。
隙のない彼の視線に声を出すことさえままならない。
「ねぇ、京子ちゃん。これで力の差がハッキリしたでしょ? バスクと戦うのに銀環を付けるなんて、無力さを露呈しているようなものだよ」
身体が思うように動かないのは、彰人のせいだとすぐに分かった。能力者同士の拘束は容易にできるものではないのに、彼にその常識は通じない。
京子は朦朧とする意識を彼の声に集中させた。
彰人は呼吸1つ乱さず、一歩二歩と距離を詰める。
「京子ちゃんの彼はバスクだよね。助けに来てくれないの? バスクの力なら、僕の相手になるかもしれないよ」
こんな時に桃也の話をして欲しくない。
彼に会うまで死にたくはないけれど、桃也に助けて欲しいとは思わない。
精一杯の力で、京子は横に首を振った。
――「お前のことは俺が守る」
例えバスクの力がキーダーの数倍だとしても、訓練なしで戦えるとは思えない。
「私だってまだ、戦えるよ?」
「無理しちゃ駄目だよ。もうすぐ終わらせるから」
「ねぇ彰人くん、ひとつ聞いてもいい?」
声を出すことが辛くなってきたが、彼にどうしても聞きたいことがあった。
「あの時どうして、助けに来てくれたの? 私が迷子になった時……」
林間学校のあの日、彼が現れなければ力に気付くことも恋をすることも無かった。
「知ってたからだよ」
彰人は普段通りの笑顔で答える。
「京子ちゃんとはいずれ戦う日が来るだろうって、僕はそう教えられて育ったんだ。けど、僕は別に君を憎んでなんかいなかった。あの日、先生が捜しても見つからなかった君の居場所を、僕は最初から知ってたんだ。僕はとうにバスクとして覚醒していたからね」
力の覚醒は十七歳が平均だといわれる中、十四歳で覚醒した綾斗は逸材だと評されているのに。
あれは十歳を過ぎたばかりの、小学五年の記憶なのだ。
「まぁ僕の力は父さんに無理矢理引き出されたようなものだけどね。敵とか味方とか、そんな事は考えなかった。あそこに京子ちゃんがいるって分かってたから行ったんだよ」
彰人はそういう人だ。誰にでも優しい。そんな所が好きだった。
だから、こんな状況を未だに夢なんじゃないかと思ってしまう。
「さっき捨てたイヤホン、発信機付いてたんでしょ? 手放した事後悔するよ」
いよいよ殺す気だろうか。
彼が何かをするなら、その瞬間に僅かでもこの呪縛が解ければいいと思う。
「じゃあね、京子ちゃん。また会えたら助けてあげる」
全身の感覚に集中して、力の放たれる一瞬を狙う。
彰人が狙うのは、きっと鉄塔だ。
目標へ伸ばした彼の手から光が現れるのと同時に、京子は解き放たれたように駆け出した。
落ちる鉄塔を押さえることが無理なのは分かった。
一本目の時より力も体力も減っている。
『キーダーは盾であれ』
昔、国の偉い人が言った言葉が頭をよぎった。
塀の更に高い位置を狙って生成した防御の壁に、ひしゃげた鉄塔がめり込んだ。
敷地外への被害は免れたが、ズルズルと落ちる鉄の塊は京子の真上から影を落とす。
死の文字が頭をよぎり、京子は両手で頭を覆った。
「京子ちゃん!」
彰人の叫ぶ声が聞こえた気がした。
かすれた視界を紫色の光が横切っていく。
強く目を瞑った頭上で、ガンと高い音が鳴ったのを耳にしたのが最後、京子の意識が途切れた。
☆
気付いた時、京子は砕かれた塔の瓦礫の中で仰向けに倒れていた。
生きている事を実感する。けれど生きているだけだった。
重なり合う瓦礫が動きを阻み、かろうじて空いた視界に灰色の雲が流れている。
鉄の重みか、怪我のせいか、身体の感覚がなくなっていた。
普段ならこれくらい余裕で動かすことが出来るのに、力を込めることが出来ない。
──『はぁ? そんなの訓練が足りねぇんだよ。キーダーなら力で避けられるだろ?』
ついこの間、マサとそんな話をしたばかりだ。まさかこのまま圧死してしまうのだろうか。
助けを呼ぶ声も、うまく出すことが出来ない。
彰人の言った通り、イヤホンを捨てたことを後悔する。発信機があれば、すぐ助けに来てもらえるかもしれないのに。
迷子になったあの日と同じだ。
でもここでもう一度彰人が来たら、本当に殺されてしまうだろう。
この状況の元凶が彼だということを笑いたくなってしまう。
皆はまだ戦っているのだろうか。
静か過ぎて全てが夢だったらと思う。
痛みは感じないのに、瓦礫の隙間を抜けてくる風は、やたらと寒かった。
「会いたいよ、桃也」
ここで全てが終わってしまうのなら、もう一度彼に会いたい。最後に声が聞きたかった。
「京子」
ふと聞こえた声は懐かしくて優しかった。
そうだ、この声だ。
いつもの、彼の――。
「京子!」
「……え?」
本当に彼の声が聞こえた気がして、耳を疑う。
こんなところに彼が居る筈がないのに。
ガラガラと剥がされていく瓦礫の向こうにその姿を見つけ、京子はその名前を呟いた。
「桃也……?」
「命を放棄するなって言っただろ?」
差し出された右手を掴むことは出来なかった。
身体がもう動かない。
「ボロボロだな。でも、生きてて良かった」
安堵する桃也の笑顔に、涙が溢れる。
「会えたんだから、泣くなよ」
瓦礫を避け、桃也は京子をそっと抱き起こす。
けれど、ぼんやりとした月明かりが照らし出す光景に京子は息を呑んだ。
「桃……也? その格好……」
彼の肩に、見慣れた桜模様がある。
そんなことがありませんように、と懇願しながら彼の左手に手を伸ばした。
桃也の小指に、もう指輪はない。変わりに京子と同じものが手首に巻かれていて、互いのそれが触れ合いカツリと音を立てた。
「……どうして?」
「言っただろ? 俺が京子を守るって」
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