高三のゴールデンウィーク。
夜の色が空を覆って間もなくの繁華街は、まっすぐ歩くのがやっとな程に人で溢れている。
友人と別れて、人混みを縫うように駅まで移動する途中で、修司は前からやってきた女にぶつかった。
長い髪の彼女が「きゃあ」と尻餅をつく。
鼻をかすめた甘い香りにコンマ数秒の高揚感を噛みしめながら、修司もドスンと地面に崩れた。
カラカラと地面に鳴った高い音を目で追い掛けると、スマートフォンがコンクリートを滑って行くのが見えて、反射的に手を伸ばす。
「ごめんねぇ。大丈夫だった?」
「いえ、俺は平気ですけど。そっちは」
痛みの響く腰を撫でながら立ち上がり、修司は彼女へ手を差し伸べた。
改めて確認した彼女に一瞬見とれて、恋しそうになる気持ちを振り払う。
あどけなさの残る大人の女性だ。くっきりとした二重の丸い瞳が、修司を心配そうに見上げている。
「私も平気よ……あら?」
修司を掴みかけた彼女の手が宙を掻く。空の両手に眉をしかめた理由がすぐに分かって、修司は「これですか?」と拾ったスマホを渡した。
「ありがとう」と返ってきた笑顔に何だか照れ臭くなる。
彼女はスマホを握り締めたまま自力で立ち上がり、表情をサッと陰らせた。そしてあろうことか、両手を広げて勢いよく修司の胸に飛び込んて来たのだ。
「えっ?」
何が起きたのか分からない。彼女の甘い香りがいっぱいに嗅覚を掴んで、修司は「えええええっ?」と驚愕する。
腹に当たる柔らかい感触が彼女の豊満な胸だと理解して修司は冷静さを失うが、囁かれたその言葉に現実へと引き戻された。
「気配が漏れてる。隠しなさい」
状況を理解できないまま、修司は急いで自分の気配を閉じた。
ぶつかった衝撃で気が緩んでいたのは彼女の指摘通り。常時消していた筈の気配が外に出てしまっていたようだ。
女は静かに修司から身体を放し、来た方角を見据える。
穏やかだったその表情は、一変して怒りさえ含ませていた。
「いい、走るわよ? 私、キーダーに追われているの」
思わず「へ?」と叫んだ口を、彼女の右手が強く塞いだ。
もごもごと口籠りながら、修司は彼女の視線を追う。
大型連休でいつもより人出が多く、数メートル先さえ見渡せない状況で、修司にはその気配を読み取ることが出来なかった。
けれど視界の一点に目が釘付けられる。
メガネを掛けたその男に見覚えがあった。キーダーの制服姿ではないが、定期的に颯太から見せられる写真と同じ顔がキョロキョロと辺りを警戒している。
「木崎綾斗? お姉さん、キーダーに追われてるって……」
アルガスの東京本部に在籍すると言う、若い男のキーダーだ。記憶より少し大人びて見えるが、それなりに時は経過しているだろう。
とすると、彼女の言ったことは本当なのか。
「だから、急がなきゃ。あの男の嗅覚はバスク並なんだから。逃げるのよ、走って!」
フワフワした見た目からは想像もつかない程の強い力で、彼女の手が修司の腕を鷲掴みにする。
キーダーを敵視する彼女は、自分と同じ立場なのかもしれないと修司の心臓が高鳴った。
言われるまま逃走を試みて、しかし修司は再度振り返った視線の先にもう一人の姿を見つける。
「美弦――?」
綾斗の傍らに、細いツインテールを揺らす小柄な少女の姿があった。
二年前に一度会っただけの記憶とは髪型が違っていたが、ツンとした表情はそのままだ。
間違いないと確信すると、急に足が地面から離れることを拒んだ。
逃げることを躊躇う修司に、女は「はやく」と逆方向へ急かす。
「捕まりたいの? 貴方は私と同じなんでしょう? 逃げなさい!」
「同じ? やっぱりお姉さんは──」
「早く!」
ピシリと鋭く甘い声は、それを確認する時間も与えない。
本当にここから逃げなければならないのだろうか。
心のどこかでずっと美弦に会いたいと思っていた。それがアルガスへの投降を意味することになっても。
けれど綾斗の視線がこちらに向いて、「まずいわ」と先に彼女が駆け出した。
考える余裕はなかった。心臓が突き上げられる衝動に駆られ、修司はロックを解除されたように地面を蹴り、雑踏に飲まれそうになる彼女の背を必死に追い掛ける。
それが、修司と安藤律の出会いだった。
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