キッチンと押し入れがあるだけで、彼女の部屋に風呂やトイレは見当たらなかった。
風呂は銭湯を利用し、一階に共同トイレがあるのだという。
部屋の明かりは吊り下げタイプの蛍光灯だが、キッチンの上にぶら下がった剥き出しの白熱電球が、部屋を温かいオレンジ色に包み込んでいる。
どれもが修司の生活には縁のないものばかりで、思わず「わぁ」と驚いてしまった。
律は押し入れから取り出した生成りの座布団をガラステーブルの横に並べ、「どうぞ」と勧める。
ついさっき繁華街を駆け抜けた記憶をかき消してしまいそうな穏やかな笑顔にホッとして、修司は「はい」と腰を下ろした。
「これでも雨漏りしないだけマシなのよ。ちょっと前まで居たトコは酷かったんだから」
律は楽しそうに微笑んで、赤いやかんを火にかけた。
片手に持ったスマートフォンに手慣れた指使いで文字を打ち込み、「よし」と区切りをつけて冷蔵庫の上へと乗せる。
少し涼しいと感じた部屋も次第に温度が上がり、律がペーパーフィルターでろ過したコーヒーを修司の前に置いた。
ふわりと漂う苦い香りは保科家の朝と一緒だ。元々颯太の習慣だが、東京に引っ越してきてから修司もようやく飲めるようになった。
「修司くんブラックでいい? お砂糖もミルクも置いてないのよ」
初めて修司の名前を呼んで、律はテーブルの向かい側に座る。
まどろんだ彼女の視線から逃れるように、修司はもう一度部屋を見渡した。よほど抑えているのか力の気配は薄い。感じ取ろうとこちらから働かなければ逃してしまいそうな程だ。
アパート自体も古いが、部屋にある一つ一つの物も時間を止めたような雰囲気を醸し出すものが多かった。
真新しい緑色のカーテンに同色の丸いセンターラグ。濃いニスが塗られた小さな木の棚には化粧品らしき瓶が数本と、猫のシルエットを模した時計が並んでいる。
部屋と中身の時代がちぐはぐに見えてしまうのは、コンセントに繋がったまま床に置かれたノートパソコンのせいだろうか。
壁に後付けされた棚には、フレームに入った一枚の写真が飾られていた。
今より髪が短く幼い印象の彼女と、少し年上に見える男性が写っている。照れが滲んだ満面の笑みは、二人の関係を知らない修司でさえ幸せだなと思える。
お兄さんと言えばそう見えるし、恋人だと言われても納得できる。けれど、明らかに過去の写真だ。
今彼女がその写真を飾る理由を考えて、修司は再び部屋へと視線を返した。
「そんなにこの部屋が珍しい?」
修司は慌ててカップを手に取り、「すみません」とコーヒーを熱いまま口に含ぶ。
「いいのよ別に。でも不自由はしてないのよ?」
そんなポジティブな彼女が以前住んでいたという家はどんなだったんだろうと想像して、修司は自分は無理かもしれないと息をのんだ。
「何でこんなトコに住んでまでバスクでいるのかって思ってる? キーダーになって国に保護してもらった方が良い生活できるんじゃないか、って」
律は苦笑して、細い肩をすくめて見せた。
彼女の言葉の意味は何となく分かるが、「それは、違うと思います」と修司はあえて首を横に振る。キーダーを選ぶという選択が一概に望ましいことではないということを今の修司は知っているつもりだ。
キーダーの力は国のものだ。故に大きな金が動くと、よく平野は言っていた。
能力を持つ赤子が生まれた時点で、その子にはキーダーの証である銀環が結ばれ、養育費から生活費までありとあらゆる支援を受けることができるらしい。
自由が制限されるとはいえ、キーダーに対する優遇が小学生の修司には隣の芝生のように青く見えたこともあった。
――「ふざけるな」
けれど修司が軽口したキーダーへの偏見に、美弦はあの時激怒した。少なくともキーダーになるということは、ただ優雅にヒーローでいられるわけではないということだ。
自分の力を強めたいといった美弦と、ここに居るバスクの律。そして修司もそれぞれに想いはあって、自分の選んだ道を進んでいる。
「修司くんはどうしてバスクでいるの?」
「俺は、生まれる少し前に父親が事故で死んだんです。それで、助産師だった祖母がキーダーを良く思っていなくて隠したって聞いてます。それで、そのまま……」
「へぇ。私はね、海外で生まれたのよ。向こうにもアルガスみたいな施設はあったけど、国籍が違うからなのかな、日本より検査が緩くてすり抜けちゃったみたい。自分がそうだってことに気付いたのも、力の兆候が出てようやく。日本に来たのはその後よ」
厳しいと言われるキーダーの出生検査も、色々な理由で回避できるものだ。
「律さんは、キーダーになろうとは思わないんですか?」
「そうねぇ。半分意地みたいなのもあるけど。頑固なのよ、生まれつき」
それにね、と律は両手で包んでいたカップをテーブルに置いて、不満そうに口をすぼめた。
「キーダーの制服って、ダサいと思わない?」
「制服?」
そんなの全く気にしたことがなかった。颯太から見せられているキーダー三人の写真が制服姿だった気がするが、あまり印象には残っていない。
「そうよぉ。あんな堅苦しいのを毎日着なきゃならないなんて、私には耐えられないわ」
不満顔の律を眺める。
キャミソールの上に羽織った藍色の薄いニットが、凹凸のハッキリした彼女の身体を包んでいる。ふわりと突き出た胸の前で留められた小さなボタンがやたら窮屈そうに見えて、妙に意識してしまう。
「た、確かに制服は堅苦しいですよね」
自分でも良く分からないままに同意すると、律は「でしょ」と笑い、ふと我に返ったように「おなか減ったなぁ」と自分の胃をそっと押さえた。
「さっきスーパーに行く途中だったのに、あのメガネくんのせいで何もできなかったのよ」
メガネくんというのは、キーダーの木崎綾斗のことだろう。しかし律の口調はクラスメイトにでも会ったかのように危機感が薄い。
「時間ありますか? その炊飯器使えるなら、俺、おにぎりでも作りますよ」
「えっ? いいの? 時間って、修司くんこそ平気?」
遠慮しつつも、律の顔にははっきり『大歓迎』と書いてある。ぱっと花が咲いたような笑顔を素直に可愛いと思った。
猫の時計はちょうど十時を示している。言われてみると、修司も夕方にハンバーガーをかじった程度だ。
「連休中ですよ。明日も学校休みだし、終電に間に合えば平気です」
「あぁ、そうか。学校って大学? それとも専門学校か何か?」
「いえ、高三で……」
「えええっ?」と律の悲鳴が、修司の言葉を遮る。
「こっ、高校生だったの? 大学生かと思ってた。ごめんね、いきなりこんなトコ連れてきて」
大人っぽく見られたと解釈すれば心の痛みは軽減するのだろうか。颯太にもよく『若さがないな』と言われて聞き流していたが、身内以外の女性の意見とくれば心に突き刺さる。
「き、気にしないで下さい。とりあえず、家にメールしときます」
「わかった」と、頷く律を横目に終電になりそうだと颯太へメールすると、一分も経たないうちに返事が来た。
『女子となら泊まってきてもいいよ(はぁと)俺も今日は当直だ』
ふと律と目が合って、かあっと全身が火照った。どうもこの部屋は冷静さをかき乱してくれる。
律から隠れるように深呼吸して、修司はスマホをポケットに突っ込みながら心の中で「何言ってんだよ」と伯父へツッコミを入れた。
プレイボーイだとか言われながらも、颯太は一緒に住んでから一度だって仕事以外で朝帰りなんてしたことないくせに――と。
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