安藤律という女がホルスの幹部であるという情報をアルガスが掴んだのは、今から2年前の事だ。
当時不透明だったホルスの内部事情を探る為、彼女に接触するという任務が監察に回って来て、彰人が出る事になった。
──『君もバスクだよね』
偶然を装って彼女に近付き、こちらがキーダーだという身分は隠した。
最初はだいぶ警戒されたものの、向こうから話してくれるようになるまでの時間はあまりかからなかった気がする。
律はホルスの幹部・高橋洋の恋人だった女だ。高橋が死んでその肩書を引き継いではいたが、忍たち上層部との交流は殆どなく、彰人の事も伝えてはいなかったらしい。
一人で黙々と任務をこなしていた彼女は、行動の全てが亡き高橋に捕らわれていた気がする。最初に会った時も、今もずっとだ。
彼女が薬を潜ませていた事にも気付いていた。
ドロリとした生温かさを胸元に感じながら、彰人は境界線の外へ運び出した彼女を地面へと寝かせた。急所は外してあるが、思ったより出血量は多い。
「ごめんね」と脱いだ上着を患部に押し付けた。
「殺してよ……」
「死にたいなら死ねばいいよ。けど僕の仕事はここまでだ」
律は大きく胸を上下させる。彰人はそんな彼女の片手を握り締め、力を縛り付けた。
もう薬はない。ここでトールになれば、もう再びバスクへ戻る事はないだろう。
「私を殺して文句を言う人なんて誰も居ないじゃない。お人好し……いいえ、貴方は残酷だわ」
「僕は深い事なんて考えてないよ。ただ自分の手を汚してまで律に死んで欲しくないだけ」
会話に被せて、背後に現れた男が足音を鳴らした。
少し前に呼んだ颯太が「来たぜ」と律の横に膝を落とす。白衣を脱いだ私服姿だが、左手には銀環がついていた。
「ありがとうございます」
「だいぶ酷ぇけど、どうにかなるだろ」
「修司くんは無事ですか?」
「あぁ、あれ以上戦うのは無理だからな、強引に病院に叩き込んで来た。龍之介くんが暇そうにしてたから、監視役でついて貰ってる」
颯太は律を診ながら「あとな」と続けた。
「銀次をこっちに呼んどいた。正しい選択とは言えないんだろうけどな、何かあったら俺が責任取るつもりだ」
「銀次くんは喜んでいそうですね」
「俺は悪い上司だぜ」
苦笑する颯太を律が弱々しい瞳でじっと見上げ、ぼんやりと口を挟んだ。
「修司くんの話をしているの……?」
「怪我したんだよ。彼、松本さんと戦って、君のトコのトップともやりあったんだって。彼は能力値も向上心も高いから、君が欲しがったのも分かるよ」
彰人が「心配?」と律を覗き込んだ。
「…………」
「修司はアンタともう少し戦いたかったみたいだぜ」
「もうそんな体力残ってないわよ」
キーダーになってからの修司を犬猿している節はあったが、律は深く吐き出したまま口をつぐみ、そのまま黙ってしまった。
「それにしても、颯太さんがキーダーに戻ったのは驚きましたね」
「いつまで持つか分からねぇけどな。今回は消えるまでほっとくつもりだ」
颯太が秘かに所持していた薬を飲んだと聞いたのは、さっき電話で律の救護を要請した時だった。急な展開に彰人は暫く驚きを抑えることが出来なかった。
「キーダーになんて戻りたくないって言ってたじゃないですか」
「人の気持ちは変わるんだよ。アンタだってそうだろ?」
「……え?」
「バスクだったじゃねぇか。アルガス襲撃の張本人だろ?」
「あぁ──」
父親の浩一郎とアルガスへ急襲を仕掛けた。アルガスに対する敵意を小さい頃から刷り込まれて来たのは確かだ。
「けど、そうじゃないんですよ。僕は最初からキーダーになりたかったんです」
「そりゃ変人だな」
キーダーという仕事を嫌っていた颯太が目を丸くする。
彰人は小さい頃からキーダーになりたかった。京子と同じ道を歩みたいと思っていたからだ。
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