──『ちょっと我慢してて』
東京駅で彰人に抱きしめられた時、咄嗟に彼から離れようとしてしまった。
攻撃ともとれる強い気配から庇ってくれた行動だというのに、そう言わせた事に胸が痛む。彼を拒絶したつもりはないが、嫌がっているように見えたのだろうか。
今彰人に昔と同じ感情を抱いているかと聞かれれば否だけれど、彼は京子にとって初恋の人だ。だから、あの時少し寂しそうに聞こえた声を申し訳なく思ってしまう。
「京子、何悩んでんだよ」
階下を見渡せる階段の手摺にぼんやりとぶら下がっていると、嗅ぎ慣れた香水の匂いがして、視界を塞ぐようにピンク色のリボンで結ばれた華やかな袋が降って来た。
頭上からハスキーボイスの「どうぞ」が響いて、京子はそれを両手に受け留める。
「コージさん! 今日来てたんですか」
振り返ると、トレードマークの長髪を下ろした長身のコージがパイロット姿で立っていた。
「これ渡すために来たんだって言いたい所だけど、仕事。この間はありがとな。今日来れるか微妙だったけど、一応準備はしてたんだぜ」
「有難うございます。ここって最近話題になってるお店ですよね?」
今日はホワイトデー当日だ。
記憶にある店名が包みに小さく印字されている。情報番組で取り上げられているのを見たことがあった。
「俺、甘いの好きだから。前にここのケーキ食べた時、美味かったんだよね。長官にもチョコ渡したんだって? この間デパート行くって言ってたぜ」
「本当ですか?」
長官がデパ地下に居る姿など、滑稽にしか思えない。
「朝からみんなにお返し貰っちゃって、何だか申し訳ないです。私、3粒しか渡してないのに」
手作りチョコ3粒に対して、京子の自室のテーブルはお菓子やプレゼントで一杯になっている。どれも義理のお返しとは思えないような立派なものだ。
一人だけ既製品のチョコを渡した修司には複雑な顔をさせてしまったが、「足りなくなって」と正直に説明すると、これまた更に困惑の色を刻みつつ納得してくれた。
「謙遜するなって。男は嬉しいって気持ちを返してるだけだよ。京子だって自分で食べて美味いと思っただろ?」
「美味しかったです。みんなもそう言ってくれるし。けど、ちょっと歪だし少なかったって思うから、来年はもう少し頑張ろうかな」
「見た目がちょっとなのはご愛敬だろ? 京子が料理できないのなんてみんな知ってるから」
そんなにハッキリ言わなくても良いと思うのに、コージは断言して高らかに笑う。
「みんな知ってるんですか……」
「京子のウリはそこじゃないだろって事だよ。味は満点なんだから胸張って良いし、義理なんだから、二粒だっていいんだぜ?」
「それじゃ少なすぎませんか?」
「いいんだ。それで? 本命にはやったの?」
にんまりと口角を上げるコージに、京子は黙って首を傾げ眉間にグッと皺を寄せた。
「もしかして、それで悩んでたのか?」
「そうではないと思います」
「曖昧な返事だな」
「今好きな相手が居るとしますよ? その人と昔好きだった相手って、何か違うんですかね?」
「はぁ? 何それ。高校生みたいな質問?」
「真剣なんです! 私の経験が少ないからって事にしておいて下さい」
「そうは見えないけどな」
どんどん声のトーンが上がるコージに、京子は「もうちょっと小さな声で」と声を潜めた。
「少ないんですよ! それで昔好きだった相手でも、身体は無意識に拒否しちゃうのかなと思って」
「なんだエロい話か」
「コージさん!」
違うとも言い切れず動揺する京子に、コージは「ゴメンゴメン」と笑う。事情通の彼は『昔』が誰を指すのかおおよそ想像できるだろう。
京子は周りに人気が無いのを確認し、更に声のボリュームを落とした。
「ここだけの話ですよ?」
「複雑に考えるなよ。男より女の方がその辺はハッキリしてるんじゃないの?」
「……そうなのかな」
「まぁ人によるんだろうけど。過去なんて関係ねぇよ。今好きな相手か、それ以外かって事だと思うぜ」
「今……」
「お前は意地っ張りっていうか、鈍感というか……何なら俺で試してみる?」
バッと両手を広げるコージに、京子は「ごめんなさい」と後退った。
「真っ赤な顔して、まだまだお子様だな」
コージは笑って、階下からの足音を振り向く。
「ほら、次の相手が来たぞ。お前と話したいってさ」
外から戻って来た綾斗に少しだけ挑発するような視線を投げる。「がんばれよ」と京子の髪を頭のてっぺんからグシャグシャと撫でて、コージは階段を上って行った。
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