ぼんやりと目覚めて、最初自分がどこに居るのか分からなかった。
細く差し込む光の色で今は朝だと思えるのに、部屋の空気と布団の感触がいつもと違っていたからだ。
襖の向こうにテレビの音が聞こえて、ベーコンかハムを焼いたような匂いが空腹を刺激してくる。
少しずつ暗闇に目が慣れてきて、自分のとは別に布団が二組並んでいる事に気付いた。
「そっか」
ようやく状況を察して、京子はゆっくりと立ち上がる。
襖を開くと、平野がカウンターキッチンの奥から「起きたか」と声を掛けて来た。彰人の姿は見えない。
「おはようございます、平野さん」
「おぅ、ちゃんと寝れたか? その顔だと、向かい酒が欲しいんじゃねぇのか?」
「いえ、お酒はもう……」
平野が足元の酒瓶を持ち上げて、京子に振って見せた。
クマでもできているのだろうかと京子は目元に手を当てるが、彼は「気にすんな」と笑って麦茶の入ったグラスを差し出す。
ボリュームを下げたテレビニュースに目をやると、もう八時半を過ぎていた。
昨日夜中まで羊を数えていたのは覚えているが、意識が途絶えた時は既にかなりの時間が経っていたような気がする。そのせいでまだ少し眠かった。
眠気覚ましにグラスを額に当てると、思った以上の冷たさに京子はきゅっと目を閉じる。
「彰人は用があって支部に行くって言ってたぞ。すぐ戻るらしいから、揃ったらメシにしようぜ。姉ちゃんも顔洗って来な」
「はい」
麦茶を飲み干し、京子は言われるまま洗面所へ行って昨日の私服に着替えた。流石に着替えを買いに行く暇はなかった。
リビングでは平野が手慣れた様子で朝食の用意をしている。
ダイニングテーブルには、既にベーコンエッグが三人分並んでいた。泊めて貰った分何かしなければと思うが、何ができるだろうかと考えてしまう。
平野の中にある『京子』のイメージが『料理上手な女子』でないことを祈るばかりだ。
「私もお手伝いしますよ?」
「そうか? ならそっちいいか?」
そう言って彼が指差したのは、カウンターの端にあるコーヒーメーカーだった。
「姉ちゃんコーヒー好きって言ってたもんな、機械使えねぇならドリップでもできるぜ? 三人分、多めにな。ミルはそこに──」
「え?」
思わず声が出た。
コーヒーを入れる道具は自宅に一式揃っているが、どれも桃也が使っていたもので、京子が殆ど触れないまま埃を被っている。
一度使ってはみたものの、それ以来家で飲む時は最初から粉の入ったドリップパックにお湯を注ぐだけの物だ。
「何だ、やれねぇのか。だったらそこで見てな」
「すみません……」
察した平野は「仕方ねぇな」と笑って、手際良くメーカーをセットする。京子はカウンターの対面に置かれた細い椅子に腰掛けて、豆を挽く様子を見守った。
「平野さんて何でもできるんですね。バーのおつまみも美味しかったし」
ワインに合わせたスモークナッツが自家製だと聞いた時には、次元の違いさえ感じてしまったほどだ。
「長年やってるからな。別に姉ちゃんが女だから料理しなきゃなんねぇって理由はないだろ? 姉ちゃんだって命張ってんだ、そこらの男にはできねぇ事だよ」
「それは、キーダーなんで」
「それでいいんだ。けど自分が腹減った時くらい、自分で食えるようになっても良いんじゃねぇのか?」
その通りだと思う。周りの環境に甘えて、料理なんて殆どしたことがない。
チョコ作りの時も同じことを考えたのに、もうあれから何もしないまま数ヶ月が過ぎている。
「少しはやってみようかな」
「おぅ、少しやってみな」
平野がコーヒーメーカーに粉を入れてスイッチを入れると、途端にその香りが部屋中に広がっていく。
「後は待つだけだ」とリビングに出てきた彼に、京子は「平野さん」と改まって声を掛けた。
平野に会えたら言おうと思っていた事だ。
昨日彼の顔を見た時、準備されたその言葉が頭に降りてきたが、隣に彰人が居て躊躇ってしまった。
だから、今がチャンスだと思う。
「私も、この力を捨てられませんでした」
初めて会った時、京子は平野にトールを勧めた。けれど、彼は力を捨てられないと言ってキーダーを選んだのだ。
桃也の事で悩んだ時、何度も彼のその言葉を思い出した。
平野は一瞬眉を潜めたが、銀環のある自分の手に触れて「そうか」と頷く。
「良いんじゃねぇか? 胸張ってろ」
「はい」
タイミング良く玄関のチャイムが鳴って、平野は「飯だぞ」と廊下へ出た。
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