朱羽と別れて日課のトレーニングを済ませた京子は、更衣室で会った美弦をジョギングに連れ出した。ついでに朱羽の事務所で書類を取って来ようという、往復約10キロのコースだ。
「本当に桃也さんと別れちゃったんですか?」
大通りに出てそんな話をすると、美弦が混雑する交差点の真ん中で驚愕の叫びをあげた。
すぐ側にいた歩行者がビクリとしたのが分かって、京子は「ごめんなさい」とジェスチャーを飛ばす。
「落ち着いて美弦。大丈夫、気持ちの整理は付いてるつもりだから」
「こういう時、強がるのは駄目ですよ?」
「うん──昨日結構泣いたから、もう涙は涸れちゃった。それにね、今まで一人で居る時間が長かったからかな、桃也と別れても私の生活は全然変わってなくて」
毎日電話をしていた訳でも、マメな連絡を取り合っていた訳でもない。定期的に会えなくて寂しいと思ったことも多いけれど、彼がキーダーになってからの二年半という時間は自分の時間をただ淡々と過ごしてきたのだ。
「彼とは良い思い出だったって割り切らなきゃ」
「京子さん……」
逆に美弦が泣き出しそうな顔をする。
「私、応援しますよ。京子さんが良い人と結ばれますようにって」
「ありがとう。まだあんまりそういうの考えられないんだけどね」
「綾斗さんの事はどう思ってるんですか?」
「はぁ?」
突拍子もなく出てきたその名前に狼狽えて、京子は思わず走るスピードを落とした。
桃也との別れ話で感傷的になっていた美弦の目が、今度は強い意志を宿して京子を見ている。
「だって、綾斗さんの気持ち気付いていますよね?」
気付いていたと言えば、美弦がやたらと綾斗の味方だという事だ。
直属の先輩だからだろうか。京子が桃也との距離をボヤくと、彼女はいつも綾斗の話を絡めて来た。初めはあまり気にしていなかったが、最近はその根拠が透けて見える。
「そんなにくっつけたい? 美弦は私が桃也と別れない方が良かったって思わないの?」
「そう言って欲しいんですか? そりゃあ桃也さんはカッコいいし素敵ですけど、恋愛ってそれだけじゃないと思いますから」
「心強いなぁ。美弦は良い恋愛してるんだね」
「わわ、私の事はいいんですよっ!」
美弦は赤面して両腕を大きく左右に振る。
ここで昨日の告白事件を漏らしたら、彼女の勢いに圧されておかしなことになってしまいそうな気がした。
「綾斗の気持ちは気付いてたよ? けど、私は後輩としか見てなかった……ううん、見ようとしかしてなかった。だから別れたからすぐに彼へ、なんて要領良くできないんだよ」
「困らせちゃってすみません。私……」
「ううん。美弦が綾斗や私の為に言ってくれてるのは分かるから。それに、今から彼を好きだって思えるようになるかもしれないでしょ?」
「じゃあ私は、そうなるのを祈ってますね──そうだ!」
赤信号で足踏みする美弦が、ふと考え込むように下げた顔を起こした。
「もし良かったら、今度一緒にお料理教室に参加しませんか?」
「お料理教室?」
京子は「えっ」と素に戻って眉を顰める。
恋愛の話から何故そうなるのか。直近で自宅のコンロに火をつけたのがいつなのか忘れる程、料理など縁がない。
そんな不穏な空気を漂わせる京子に、美弦は笑顔を全開に振り撒いて、「はい」と声を弾ませた。
「今度平次さんに教えて欲しいって頼んだんですよ。一人じゃ淋しいなって思ってたので、京子さんもどうですか? 女子力アップ大作戦です!」
『飛び乗り大作戦』に続いて、今度は『女子力アップ大作戦』だというのか。
アルガス食堂長の平次が監修なら、カレーですらまともに作れない自分でもどうにかなるような気がしてしまう。
「自分磨きって事? 私もちょっとは料理できた方が良いのかな」
とはいえそれが継続できるとは思わないが、一回きりのイベントだと割り切ってしまえば楽しいのかもしれない。
「分かった。じゃあ、その時は誘って」
「やったぁ、約束ですよ?」
ぱあっと笑顔を広げて、美弦は青信号に飛び出す。
そこに下心があるなんて、京子は夢にも思わなかった。
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