ジョギングを終えてアルガスの自室で着替えた京子は、朱羽から預かった茶封筒を手に廊下へ出た。もう外はすっかり暗くなっているが、報告室にいる上官たちの終業時間まではまだ早い。
階段に差し掛かったところで食堂側の廊下に彼を見つけて、京子はその名前を呼んだ。
「マサさん」
すぐに気付いた黒ジャージ姿のマサは、「よぉ」と小さく手を上げる。
彼と会うのは久しぶりだ。側まで行くと、コーヒーの匂いがふわぁと広がる。
「お疲れ様。あけましておめでとうございます」
「おぅ、今年も宜しくな」
「こちらこそ。セナさんは今辛い時期なんでしょ? 数日こっちに居るって聞いたけど、一緒に居てあげなくて大丈夫?」
「本人は平気って言ってるけど、用事済んだらすぐ帰るよ」
彼の妻であるセナが懐妊したと聞いたのは、秋の終わり頃だ。今はつわりの時期で人によっては寝込んでしまうのだと、食堂のマダムが教えてくれた。
怒涛の年末年始も少しずつ落ち着いてきた一月二日。マサが「そうだ」と付け足したように京子の誕生日を祝う。
「ハッピーバースデー、京子。この間は桃也の事……悪かったな。色々あったみてぇだけど、いいのか?」
「うん」
はっきりと答えたつもりの声は、大分小さい。
クリスマスイブの前日、トールになると言ってマンションへ戻った桃也に、マサからの呼び出しがあった。彼を現場へ向かわせる選択は、その好意を無駄にする結果となってしまったが、あのまま引き留めていたらきっと今後悔していたと思う。
「アイツも色々悩んでたんだろうけど、最終的にサードを選んでくれたのは京子のお陰だ。ありがとな。けど、お前は──」
「サードになれるなんて名誉な事でしょ? 桃也が選びたかった道を、私が止める事なんてできないもん」
「京子……」
「会えないのも連絡できないのも、仕事なんだから仕方ないって、ずっと自分に言い聞かせてきた。けどやっぱり恋人って肩書があると、何かあった時に期待しちゃうの。だから今少し楽になれた気がする」
言葉の最後に涙が混じって、京子は慌てて唇を閉じる。
マサが「そうか」と京子の頭に手を乗せた。桃也よりも背の高い彼の手は、厚みもあって大きい。
彼特有の慰め方は、最初に会った頃からずっと変わらない。
彼に想いを寄せていた朱羽は、それをされると顔を真っ赤にして半分パニックに陥っていたが、京子はちょっと嬉しいと思っていた。勿論、彼への好意という話ではない。
「昔からマサさんに頭撫でられると、胸の中がふわっとする感じがする。何かこう、落ち着くって言うか……」
「昔はセクハラだとか言って目ぇ吊り上げてた癖に。ホレんのか?」
「違うから! 奥さんいる人がそういう事言わないの!」
「怒るなよ。冗談だろ?」
がっははと笑うマサの声のボリュームに、背後でダンと扉の開く音が響いた。
慌てた足音に振り向くと、修司が「マサさん」と駆け寄って来る。
「あの、ちょっとよろしいですか?」
「ちょっとじゃないでしょ? そんな格好駄目だよ?」
乱れた制服に眉をしかめて、京子が自分の胸元を指差して見せる。慌てて締めたのか、彼のアスコットタイがおかしな結ばれ方をしていた。
手にした茶封筒を脇に挟んで京子はそれを直そうと手を伸ばしたが、修司は「やれます」と頬を染めて慌ててタイを直す。
「京子もすっかり先輩なんだな」
「先輩だもん、一応」
「一応じゃねぇよ。立派な先輩だ」
『先輩』からそれを言われると、喉の奥がむず痒くなる。
「マサさん、あの、これありがとうございました」
服装を整えた修司がマサに差し出したのは、星印の刻まれた趙馬刀だ。
元々マサがキーダーの頃に使っていたもので、その後桃也から修司へと新人に引き継がれている。
「新しいものを支給されたので、これはマサさんに返すようにって。なかなか会えなかったから今になっちゃってすみません」
「なんだ、中古拒否かよ」
「そ、そんな理由じゃ……」
「別に戻してくれなくても良かったんだけどな。分かってるよ、揶揄って悪かったな」
マサは「貰っとく」としんみりそれを受け取って、両手に握り締めた。
彼の大きな手に収まった柄が、少し小さく見える。
「マサさん、これからどうするの?」
「ちょっとな」とマサが笑う。彼は今日本部入りしたが、実際の任務は明日の予定だ。
「今回の俺のメインイベントだよ」
そう言って階段を上っていくマサに、京子と修司は顔を見合わせた。
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