あれは去年の秋の事だ。
事務所の近くにできた居酒屋に行ってみたいと、朱羽が京子に誘いの連絡を入れて来た。勿論京子は即オッケーして、側に居た綾斗も便乗したのだ。
ビルの10階に位置するシックな店内にはジャズが流れ、窓からは都会の夜景が一望できる。一見BARを思わせる内装で、メニュー表に並ぶ料理も見慣れないものばかりだった。
いつもとは違う雰囲気に三人でテンションを上げ、スタートにシャンパンを飲む──それが結果的に良くなかったんだと思う。
洒落た空気に溶け込んだかのように見えたのも始めだけで、京子はすぐに飲み物をレモンサワーへ切り替えた。その上「グラスが小さい」とボヤいて、日本酒にまで手を出す始末だ。
案の定、店を出る頃にはフラフラになって足元もおぼつかなくなってしまった。
「ごめんなさいね、綾斗くん。京子の事頼んだわよ。こんなの自業自得なんだから、何しちゃっても構わないから」
呆れた朱羽にそんなことを言われたが、何かをした覚えはない。
京子とタクシーに乗り込んで、彼女のマンションを目指した。
エントランスの前で降りた京子は、入口の横にある木立のベンチに腰を下ろして、少し欠けた月を見上げていた。11月にしては穏やかな夜だった。
普段は真面目で我武者羅に仕事する後輩想いの先輩なのに、オフになった途端スイッチを切ったかのようになってしまう。
酒には飲まれるし、加減など全く分かっていない。放っておいたら酔っぱらったまま道路に倒れて轢かれるんじゃないかと心配したこともある。
そんな彼女を側で支えたいと思ったら、一瞬で心を持って行かれてしまった。
「今日楽しかったね。まだ全然平気だし、次のお店行こうか?」
「次、って。もう家ですよ」
上機嫌に笑顔を見せる京子は、酔っ払いの常套句を口にする。
この頃の京子は、サードに呼ばれた桃也との関係も破錠寸前で、彼の所へ行くかどうか迷っていた時期だ。
彼女が行きたいのなら行けばいいと思っていた。けれど、行って欲しくないと思っていたのも事実だ。
普段から時折見せる物悲しい表情の理由は分かっている。自分ではそんな気持ちを埋めることが出来ないのは重々に承知しているつもりだ。
けれど、待てども待てども来ない相手を思う京子の側を離れることはできなかった。
「京子さん……」
横に座る彼女の重さを肩に感じて、綾斗は寝息を立てる彼女の肩を抱く。人一倍鍛えている筈なのに、華奢な体が頼りない。
道行く人は、これが許されない関係だとは思いもしないだろう。離れているとはいえ、この時の京子は桃也の恋人だ。
「覚えていないんだろうな」
嘔吐までは行かないが、京子はいつもより酔っている。
今夜の記憶が明日に残る確率など、1割もないだろう。
「俺は、京子さんが好きです」
一人で囁いた声は、京子の耳には入っていない。それが妙におかしくて、綾斗は「行きますよ」と彼女を背負った。
部屋のキーがポケットに入っているのは知っている。入口で部屋番号を押すと、自動扉はあっさりと開いた。
エレベーターで五階へ上り、彼女の部屋に入る。前に一度来た時は玄関までだったけれど、今日は一人で中へ入っていける状態じゃない。
「部屋着きましたよ」
このまま起こさないようにと、部屋の明かりは付けずにベッドルームへ入った。
薄いカーテン越しに向かいのビルの明かりが暗い部屋に差し込んでいて、歩くには十分だ。
ここは京子と桃也の家だ。
覚悟して踏み込んだつもりだったが、玄関の隅に男物の靴が一足置かれていただけで、桃也がこの部屋に住んでいる気配はそれ以外に何もなかった。元々物の少ない部屋のようだが、同棲している事を疑ってしまう程に彼の気配を感じることが出来ない。
強いて言うならばベッドがやたら大きい事ぐらいだろうか。普段一人で眠る京子には広すぎるサイズだ。
「桃也……」
耳元で零れた彼女の寝言は、そんな恋人の名を呼ぶ。
京子をベッドに下ろして、足元に寄った布団を彼女の胸に掛けた。
「おやすみなさい、京子さん」
彼女の頬にそっと触れて、綾斗は部屋を後にする。
一階に降りた所で、スマホがメール着信の音を鳴らした。もしや彼女を起こしてしまったかと思ったが、相手は久志だ。
『クリスマス、空けておいて』
そんな一言の誘いに、緊張が解ける。
今考えると、まだこの頃は平和だった。
そこから数ヶ月で、アルガスの空気は一変してしまったのだ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!